美桜(みお)がはっと目を開けると、見慣れぬ天井が視界に入った。天井を見ただけでも、和室で布団を敷いて寝ていた、ということだけはわかった。天井は天井でも和室特有の目透(めすかし)天井。しかも、どこか香るい草の匂い。
 ここはどこだろう――。
 布団の上に仰向けになっている美桜は、首だけを左右に振ってみた。というのも、金縛りにあったかのように身体が動かないから。首を右側に向けた時に、床の間の前の座卓で書き物をしていたであろう男と目が合った。恐らく彼は、美桜の頭と布団がこすれる音を聞きつけたのだろう。
「目が覚めましたか?」
 この男は、この和室に相応しいような着物姿。美桜は生まれてこの方、このように着物が似合う男性にお目にかかったことがない。
「あの、ここは……」
青龍(せいりゅう)神社の社務所です。私の住居も兼ねておりますので」
 青龍神社――それは美桜が住んでいる青砥(あおと)町にある一番大きな神社。
「あ、人が住んでいたんですね」
 大きな神社のわりには、いつも誰もいないなと思っていただけに、人が住んでいたことに驚いた。男は美桜の枕元で正座をする。
 美桜は目だけを動かして男を見上げた。少し色素の薄い髪は茶色のような金髪のようにも見える。真っ黒い日本人形らしい美桜の髪とは大違いだった。丁寧な物腰で、年齢も二十代後半から三十代前半くらいなのだろう。とにかく、和服姿が良く似合う。これに尽きる。
「ところで。あなたは、どうしてあのような場所で倒れていたのですか?」
「あ」
 倒れていた、ということで美桜はなぜ自分が青龍神社にやって来たのかということを思い出した。
「お百度参りを、と思いまして……」
 彼女はお百度参りのために夜の帳が降りきった深夜、この青龍神社へとやって来たのだ。恐らく、美桜の年齢では夜中に出歩くのは褒められたものではない。
「お百度参り。またなかなかなことをされておりましたね。誰か、呪いたい方でもいらっしゃったのですか?」
「え、やっぱり。お百度参りって呪いなんですか?」
「冗談です」
 この男の冗談は冗談に聞こえない、と思いながら美桜はちょっとだけ唇を尖らせた。いたいけな女子高生を騙すとは何事か、と。
「あなたが誰かを呪うような人間であるかどうか、ということを確認させていただきました。そのような方でしたら、助けるべきではなかったと、そう思っておりましたから」
 そこで男が美桜を安心させるかのようにニッコリと微笑んだ。その笑顔に、美桜はドキリとする。さらに、和服姿というのも彼の魅力を引き出しているのだろう。
「ところで、よろしければ。なぜお百度参りをしようと思ったのか、理由を聞かせてもらってもいいですか?」
「あ、はい」
 そこで美桜は身体を起こそうとした。先ほどまでの金縛りはとけたようだが、身体が重い。
「身体が辛そうですが。あちらの座椅子に移動されますか?」
 男に言われた通り、とにかく身体が重くて腰を曲げて座っていることすら辛かった。美桜は這うようにして布団から出ると、男が差し出してくれた座椅子へと座った。寄り掛かる場所があるだけで、身体はずいぶんと楽になった。
「今、お茶をお出ししますね」
 どこからともなく男はポットと急須を持ってきて、美桜の前でお茶を淹れ始めた。
「どうぞ」
 緑茶の香りがい草の匂いと混ざって、とても落ち着く。
「いただきます」
 お茶はちょっと温めに感じる温度。一口飲めば、甘味のある味が身体中へと染み渡る。その瞬間、先ほどまで重かった身体が一気に軽くなったような気がしたのが不思議だった。
 美桜は湯呑を座卓の上においた。
「私、名前も名乗らずに失礼しました。私、金木(かねき)美桜です。青砥高校の三年」
「高校生があのような時間帯にお百度参りをするとは、望ましくありませんが」
 美桜は苦笑した。
「よろしければ、お百度参りをした理由を聞かせてもらってもよろしいですか? あ。私は怪しい者ではありませんよ」
 慌てている様子の男が、可愛らしく見えてしまい、美桜もついつい笑みを零す。そもそも青龍神社の社務所に住居を構えている時点で、この神社の関係者ということだけは美桜にだってわかる。
「この神社の責任者を務めています湖東(ことう)龍巳(たつみ)と申します」
「責任者?」
 宮司とは違うのだろうか。
「はい、責任者です」
 神社のことについてよくわからない美桜は、龍巳の言葉をなんとなく受け入れた。
「それで、美桜さんはなぜお百度参りをされたのですか? これはこの神社の責任者として尋ねております」
 責任者として、と言われてしまえば、美桜は答えなければならないだろう。
「あの……。笑わないで聞いてくれますか?」
「あなたが真剣にお百度参りをなさったのであれば」
 美桜は湯呑に手を伸ばして、もう一口お茶を飲んだ。お百度参りの理由を口にしたら、絶対に笑われるという気持ちがあったから。それでもこうやって今、休める場所を提供してもらって、さらに神社の責任者という龍巳には伝えなければならないのだろう。
 湯呑を座卓においてから。
「あの、ですね……。宝くじが、当たるように、と……」
「宝くじ、ですか?」
 美桜は頷いた。
「えと、ちょっと話が長くなりますが、よろしいですか? まあ、お金が欲しいというのはみんな同じ気持ちだと思うんですけど。私にはそれなりの理由があるんです」
 金持ちになりたいから、働きたくないから。そんな理由で宝くじを当てたいと思っているわけではないことを、言い訳だと思われてもいいからきちんと伝えたいと、美桜は思っていた。この神社の責任者には誤解を与えたくない。
「ええ。時間はいくらでもありますから。お付き合いいたしますよ」
 このスマートな物腰の言い方に、美桜はついつい身の上話を始めてしまった。
 お百度参りをしたのは、宝くじを当てたいから。宝くじを当てたいのは、祖母の手術費用を払いたいから。祖母が亡くなってしまえば、家族がいなくなってしまうこと。
 なるほど、と頷きながら龍巳は美桜の話を聞いてくれた。話を聞いてもらえるだけでも、落ち着くものなんだな、と美桜は思いながら。
「美桜さんの事情はわかりました。ですが、お百度参りしたからといって、宝くじは必ず当たるものではありませんよ」
 龍巳は何も知らない子供を宥めるような言い方をする。美桜は少し馬鹿にされたような気分になった。
「わかってます。それでも、神様に祈りたかったんです。少しでも、不安を和らげたかった。それだけです」
「なるほど……。ところで美桜さん、この部屋。少し変わっていると思いませんか?」
「何がですか?」
 龍巳の突然の問いに美桜は首を傾げた。いたって一般的な和室、だと思っている。だが、床の間には立派な日本刀が飾られていて、あれは模造刃なのか本物なのかが気になっていたくらいだ。
「変わっているとは思わないのですが。気になっているとしたら、あの日本刀。あれって本物ですか?」
 美桜が尋ねると、龍巳はニヤリと笑った。このような和服イケメンにニヤリと笑われてしまったら、美桜の心の中は「キャー」と叫びたい気分である。
「美桜さん。やはりあなたは私が見込んだ通り。お金が必要というのであれば、ここでアルバイトをしませんか?」
 龍巳にいきなりそのようなことを言われてしまっては、美桜は目を白黒させるしかない。
「アルバイト、ですか?」
「そうです」
 腕を組んだ龍巳は大きく頷く。和服で腕を組むというのも、破壊力が半端ない。この男は女性の扱い方に慣れているのだろうか。
「美桜さん。あやかしについてはご存知ですね」
「はい。それは、小学校で習いますから。この世は人間界とあやかしの住む妖界によって成り立っている。人間界と妖界は今から千年ほど前の平安時代に、互いの世界を侵略しないという不可侵条約を人間界の陰陽師と妖界の麒麟が結んだ。千年以上経った現代も、その条約は有効である」
「教科書のような回答をありがとうございます」
 教科書のような、ではなく、社会の教科書にそのように書かれているのだ。
「ですが、美桜さんがいまおっしゃったように、人間界と妖界の不可侵条約は千年以上も前に結ばれたもの。千年経った今、その条約が面白くないと思う輩が現れてもおかしくはないのです。むしろ、今まで律儀に守られていた方が不思議なくらいです」
 龍巳の話の流れから、不穏な空気を感じる美桜。美桜だってそこまで鈍感ではない。むしろ、成績は良い。だから教科書に出てくるような人間界と妖界の話であれば、新聞やテレビのニュースで目にしている内容であれば、なんとなくわかる。それにこの現代、陰陽師と呼ばれる者は人間界では廃れている。
「もしかして、近頃、あやかしが犯人ではないかと思われる犯罪が増えてきているのは」
「ご名答。あやかしが、人間界に対して侵略を試みているからです。といっても、一部のあやかしですよ。全部が全部そうだ、と思われては、他のあやかしが可哀そうです」
「え、てことは。もしかして湖東さんは、あの陰陽師の血を引く人なんですか?」
「龍巳、でいいですよ」
 一瞬、何を言われているのか美桜にはわからなかった。だが、その龍巳が彼の名前であったことに気付き、姓ではなく名で呼べということを言っているということを理解するまでに、一分という時間を要した。
「あ、はい」
 としか美桜は言えない。
「では、先ほどの美桜さんの質問に答えます。私が、陰陽師の血を引く者かどうか。答えは、否です。私は陰陽師ではありません。ですが、あやかしが人間界を侵略する行為を否定する立場にある者です」
 つまり、人間界に住む美桜にとって、この龍巳という男は味方であると判断して良いのだろうか。龍巳は、その美桜の考えを読み取ったのだろう。
「私は人間の味方ですよ。正確には、今の人間界と妖界の関係を継続させていきたい者の一人です。ですから、一部のあやかしのやり方が気に入らない。そのようなあやかしをとっ捕まえて妖界へと送り返す、というのが私のもう一つの仕事です」
 もう一つ、ということは他にも仕事があるのだろうか。
「それで。美桜さんに頼みたいアルバイトというのが、そのあやかし退治ですね」
 なんか、さらっと凄いことを言ったぞ、この人。と思いながらも、なぜかそのアルバイトに惹かれてしまう。
「バイト代は、そうですね。あやかし一体を送り返すたびに、これくらい……」
「やります」