「やはり、あなた。美桜の従兄弟だなんて、嘘ね。それだけ妖気を匂わせて。あなたもさっさと妖界に帰ったら? それとも、私が連れて行ってあげましょうか?」
 真帆が龍巳に向かって言っている言葉の意味が、美桜には理解できない。これではまるで、龍巳があやかしであると言っているようなものではないか。
「妖界に戻るのは、貴女の方ですよ」
 龍巳は手にしていた刀を鞘から抜いた。それは、あの床の間に飾ってあったあの日本刀のようなもの。キラリと光を反射して、刃が光る。
「美桜さんはそのままで。そこから絶対に動かないでください」
 龍巳は真帆に向かって駆け出した。邪魔になっている机を大きくまたいで。
「美桜は、人間界にいるべき者ではないのよ。どうしてそれがわからないの? 麒麟様のご命令なのよ」
 龍巳が刀を振り上げたが、真帆の口から「麒麟」という言葉が出た瞬間、動きが止まる。だが、勢いよく真帆の頭上から真下に刀を振り落とした。
 美桜は思わず目を閉じ、顔を背けた。
「美桜。必ず、あなたを妖界へと連れていくから。待っていなさいよ」
 叫び声のような真帆の声。美桜が恐る恐る目を開けると、もう、真帆の姿はなかった。
「真帆さんは?」
「彼女は妖界へと送り返しました。強制的に妖界へ送り返されたあやかしは、向こうの裁きを受けるまで人間界(こちら)に来ることはできませんから、もう安心ですよ」
「あ、はい……」
 先ほどまで真帆が立っていた場所。今は何もない。美桜が握りしめていた鞭の先も、獲物がいなくなったため、だらりと落ちていた。
「あの、龍巳さん」
「はい」
「窓、割っちゃいましたね。片付けて、先生に報告しないと」
「それも心配なさらないでください。ここは、青砥(あおと)高校であって青砥高校でない場所。もう一つの青砥高校」
「もう一つの?」
「つまり、あやかしが人間たちを攫うときに用いる、別空間なのです。人間界に対して異次元とでもいうのでしょうか。どうやら、この学校がその別空間に繋がっていたようでして」
 龍巳の言うことは難しくて美桜にはよくわからない。
「あの。昨日言っていた、いなくなったクラスメートは……」
「無事ですよ。どうやら、この別空間に閉じ込められていたようですね。この辺の話は、そのうちきちんと説明します。とりあえず今は、戻りましょう」
 こちらへ来てください、と龍巳が美桜を抱き寄せる。グラっと世界が歪んだような気がした。だが、見えている世界は先ほど変わってはいない。青砥高校の教室。
「さて、帰りましょうか」
「え。あ、はい」
 慌てて美桜は教室内を見回した。倒れた机は元通り。壊れた窓も元通り。不自然に空いていた席も元通り。だけど、真帆の席だけが無くなっている。
「美桜さん。初めてのあやかし退治、お疲れ様でした」
 あやかし退治。これがそうだったのだろうか、と美桜は思う。
「ですが、私はあやかしを切りつけることができませんでした。人を傷つけるような、そんな感じになってしまって」
「きっと、それが美桜さんの優しさなのでしょうね」
 と龍巳は口にするが、それが彼女の弱さであるとも思っている。
「さて。あやかしを一体、妖界に送り返しましたので。美桜さんにはバイト代を支払わなければなりませんね」

 美桜は龍巳から支払われたバイト代で、祖母の治療費を支払うことができた。バイト代が貰いすぎであるような気がしたけれど、あやかし退治にはそれだけの価値があると龍巳がしきりに言っていたので、申し訳ないと思いつつもそれを受け取った。
 祖母は次第に体力を取り戻し、今では病室内をうろうろと歩いている。
「こんにちは」
 龍巳は美桜の祖母の病室を訪れていた。術後、龍巳の力によって特別室へと移された美桜の祖母。
「あらあら。東の青龍さんが、この老いぼれにどのような御用ですかね?」
 祖母は龍巳が妖界の東の王である青龍であることに気付いていたようだ。にっこりと笑って、目尻に皺を浮かべて、龍巳を迎え入れた。
「青龍神社の責任者を務めています湖東(ことう)龍巳(たつみ)と申します。美桜さんにはお世話になっております」
「美桜の方こそお世話になっています。それに、この老いぼれにこのような立派な部屋まで与えてくださって」
「いえ、当然のことをしただけです。何しろ彼女は私の伴侶となるべき人ですから」
「あらあら」
 美桜の祖母は笑っている。恐らく龍巳のその言葉の意味を理解したのだ。
「ところで、金木さん。美桜さんのご両親はどのような方ですか?」
「それが本題ですね」
「はい。美桜さんは、人間でありながら、人間ではない」
「美桜は私の孫ですよ。そして美桜の母親は私の娘」
「では、美桜さんの父親は?」
「さあ?」
 そこで祖母は首を傾げた。それはけして誤魔化している、というわけではない。
「あまり、大きな声では言えないのですがね。美桜は、知らぬうちに娘が産んでいたんですよ。娘が事故で亡くなったから、私が美桜を引き取っただけ」
「美桜さんのお母様は、なぜ亡くなったのでしょうか?」
「事故、ですね。不幸な事故」
 嘘をついているわけではない。話を誤魔化しているわけでもない。不幸な事故、というのは本当なのだろう。その不幸な事故の詳細を聞き出したいのだが、急に表情を曇らせた彼女を目にしてしまえば、それを口にするのは躊躇われる。
「金木さんは、何者ですか? 陰陽師の子孫、というわけでもなさそうですね」
「研究者ですよ。ただの研究者」
 だからか、と龍巳は思った。恐らく、美桜の祖母は、あやかしと妖界を専門に研究していたのだろう。だから、あのとき、無意識に結界を張り、自分の命を狙っているあやかしから自分の身を守っていたのだ。
「私は、無駄に長く生きていますからね。自分の身を守る術というのは、その研究を通して身につけているのです。ですがね、美桜はまだ若いですからね」
「それは、安心してください。美桜さんは、私が守りますから」
「東の王の青龍さんに、そのようなことを言われては恐れ多いですね」
 パタパタと廊下の方から足音が聞こえてくる。
「おばあちゃん、荷物持ってきたよ。って、龍巳さん?」
 授業を終えた美桜が、制服姿のまま現れた。
「おかえりなさい、美桜さん。美桜さんのおばあさまのお見舞いに来ておりました」
「美桜ちゃん。こんな素晴らしい人のお世話になって、本当にいいのかね? 立派な部屋にまで移してもらって」
「あ、うん。大丈夫だよ、おばあちゃん。私、あの青龍神社でアルバイトすることになったんだから。きちんと、私が稼いだお金だよ」
 と美桜は口にするが、仕事と報酬が合っていないようにも思っていた。だから、心の中で多分、と付け加える。
「そういうことですから、美桜さんのおばあさまも、ゆっくりと静養なさってください。退院後は、神社の方に部屋を準備しておきますから」
「やだねぇ。若い子たちの邪魔をするような野暮なことはしないよ。なけなしの年金で、新しいアパートでも探すよ」
「え、おばあちゃん。一緒に暮らそうよ」
「美桜さんもこう言っていることですし」
「じゃあ、退院までに考えておくよ」
 祖母は美桜を手招きして呼び寄せると、彼女の頭を優しく撫でる。
「龍巳さんは優しいかい?」
「本当に、良くしてもらってる」
「そうかい。そのまま、青龍神社で雇ってもらえると、就職先の心配もなくていいね」
「おばあちゃん」
「美桜さん。私は先に車に戻っていますから。おばあさまとのお話が終わったら、駐車場に来て下さい。一緒に帰りましょう」
 病室を出ていく龍巳の背を、美桜は微妙な気持ちで見送った。微妙な気持ち。それは龍巳への気持ち。この気持ちを何と呼ぶのか。