「にゃー」と猫が鳴いて、彼女の前を横切っていく。その際、その猫と目が合った――ように見えた。
人間たちが住む人間界とは別にあやかしと呼ばれる人間とは異なった性質を持つ者たちが住む妖界という世界がある。妖界の世界は東西南北の四つと特別区の中央に分類され、それぞれを統治している王は、それぞれ青龍、白虎、朱雀、玄武と呼ばれている。その四つの王の頂点に立つ者が麒麟と呼ばれている王であり、特別区からこの妖界と人間界を見張っている。
人間界と妖界の取り決めは今から千年以上も前から続いている。
人間より力のあるあやかしは、人間に対して能力を使わない。理不尽に侵略しない。相互が相互に助け合う関係。つまりのところ、人間界でいうところの不可侵条約のようなものである。
だが、その約束も千年以上も前の話。
美桜がはっと目を開けると、見慣れぬ天井が視界に入った。天井を見ただけでも、和室で布団を敷いて寝ていた、ということだけはわかった。天井は天井でも和室特有の目透天井。しかも、どこか香るい草の匂い。
ここはどこだろう――。
布団の上に仰向けになっている美桜は、首だけを左右に振ってみた。というのも、金縛りにあったかのように身体が動かないから。首を右側に向けた時に、床の間の前の座卓で書き物をしていたであろう男と目が合った。恐らく彼は、美桜の頭と布団がこすれる音を聞きつけたのだろう。
「目が覚めましたか?」
この男は、この和室に相応しいような着物姿。美桜は生まれてこの方、このように着物が似合う男性にお目にかかったことがない。
「あの、ここは……」
「青龍神社の社務所です。私の住居も兼ねておりますので」
青龍神社――それは美桜が住んでいる青砥町にある一番大きな神社。
「あ、人が住んでいたんですね」
大きな神社のわりには、いつも誰もいないなと思っていただけに、人が住んでいたことに驚いた。男は美桜の枕元で正座をする。
美桜は目だけを動かして男を見上げた。少し色素の薄い髪は茶色のような金髪のようにも見える。真っ黒い日本人形らしい美桜の髪とは大違いだった。丁寧な物腰で、年齢も二十代後半から三十代前半くらいなのだろう。とにかく、和服姿が良く似合う。これに尽きる。
「ところで。あなたは、どうしてあのような場所で倒れていたのですか?」
「あ」
倒れていた、ということで美桜はなぜ自分が青龍神社にやって来たのかということを思い出した。
「お百度参りを、と思いまして……」
彼女はお百度参りのために夜の帳が降りきった深夜、この青龍神社へとやって来たのだ。恐らく、美桜の年齢では夜中に出歩くのは褒められたものではない。
「お百度参り。またなかなかなことをされておりましたね。誰か、呪いたい方でもいらっしゃったのですか?」
「え、やっぱり。お百度参りって呪いなんですか?」
「冗談です」
この男の冗談は冗談に聞こえない、と思いながら美桜はちょっとだけ唇を尖らせた。いたいけな女子高生を騙すとは何事か、と。
「あなたが誰かを呪うような人間であるかどうか、ということを確認させていただきました。そのような方でしたら、助けるべきではなかったと、そう思っておりましたから」
そこで男が美桜を安心させるかのようにニッコリと微笑んだ。その笑顔に、美桜はドキリとする。さらに、和服姿というのも彼の魅力を引き出しているのだろう。
「ところで、よろしければ。なぜお百度参りをしようと思ったのか、理由を聞かせてもらってもいいですか?」
「あ、はい」
そこで美桜は身体を起こそうとした。先ほどまでの金縛りはとけたようだが、身体が重い。
「身体が辛そうですが。あちらの座椅子に移動されますか?」
男に言われた通り、とにかく身体が重くて腰を曲げて座っていることすら辛かった。美桜は這うようにして布団から出ると、男が差し出してくれた座椅子へと座った。寄り掛かる場所があるだけで、身体はずいぶんと楽になった。
「今、お茶をお出ししますね」
どこからともなく男はポットと急須を持ってきて、美桜の前でお茶を淹れ始めた。
「どうぞ」
緑茶の香りがい草の匂いと混ざって、とても落ち着く。
「いただきます」
お茶はちょっと温めに感じる温度。一口飲めば、甘味のある味が身体中へと染み渡る。その瞬間、先ほどまで重かった身体が一気に軽くなったような気がしたのが不思議だった。
美桜は湯呑を座卓の上においた。
「私、名前も名乗らずに失礼しました。私、金木美桜です。青砥高校の三年」
「高校生があのような時間帯にお百度参りをするとは、望ましくありませんが」
美桜は苦笑した。
「よろしければ、お百度参りをした理由を聞かせてもらってもよろしいですか? あ。私は怪しい者ではありませんよ」
慌てている様子の男が、可愛らしく見えてしまい、美桜もついつい笑みを零す。そもそも青龍神社の社務所に住居を構えている時点で、この神社の関係者ということだけは美桜にだってわかる。
「この神社の責任者を務めています湖東龍巳と申します」
「責任者?」
宮司とは違うのだろうか。
「はい、責任者です」
神社のことについてよくわからない美桜は、龍巳の言葉をなんとなく受け入れた。
「それで、美桜さんはなぜお百度参りをされたのですか? これはこの神社の責任者として尋ねております」
責任者として、と言われてしまえば、美桜は答えなければならないだろう。
「あの……。笑わないで聞いてくれますか?」
「あなたが真剣にお百度参りをなさったのであれば」
美桜は湯呑に手を伸ばして、もう一口お茶を飲んだ。お百度参りの理由を口にしたら、絶対に笑われるという気持ちがあったから。それでもこうやって今、休める場所を提供してもらって、さらに神社の責任者という龍巳には伝えなければならないのだろう。
湯呑を座卓においてから。
「あの、ですね……。宝くじが、当たるように、と……」
「宝くじ、ですか?」
美桜は頷いた。
「えと、ちょっと話が長くなりますが、よろしいですか? まあ、お金が欲しいというのはみんな同じ気持ちだと思うんですけど。私にはそれなりの理由があるんです」
金持ちになりたいから、働きたくないから。そんな理由で宝くじを当てたいと思っているわけではないことを、言い訳だと思われてもいいからきちんと伝えたいと、美桜は思っていた。この神社の責任者には誤解を与えたくない。
「ええ。時間はいくらでもありますから。お付き合いいたしますよ」
このスマートな物腰の言い方に、美桜はついつい身の上話を始めてしまった。
お百度参りをしたのは、宝くじを当てたいから。宝くじを当てたいのは、祖母の手術費用を払いたいから。祖母が亡くなってしまえば、家族がいなくなってしまうこと。
なるほど、と頷きながら龍巳は美桜の話を聞いてくれた。話を聞いてもらえるだけでも、落ち着くものなんだな、と美桜は思いながら。
「美桜さんの事情はわかりました。ですが、お百度参りしたからといって、宝くじは必ず当たるものではありませんよ」
龍巳は何も知らない子供を宥めるような言い方をする。美桜は少し馬鹿にされたような気分になった。
「わかってます。それでも、神様に祈りたかったんです。少しでも、不安を和らげたかった。それだけです」
「なるほど……。ところで美桜さん、この部屋。少し変わっていると思いませんか?」
「何がですか?」
龍巳の突然の問いに美桜は首を傾げた。いたって一般的な和室、だと思っている。だが、床の間には立派な日本刀が飾られていて、あれは模造刃なのか本物なのかが気になっていたくらいだ。
「変わっているとは思わないのですが。気になっているとしたら、あの日本刀。あれって本物ですか?」
美桜が尋ねると、龍巳はニヤリと笑った。このような和服イケメンにニヤリと笑われてしまったら、美桜の心の中は「キャー」と叫びたい気分である。
「美桜さん。やはりあなたは私が見込んだ通り。お金が必要というのであれば、ここでアルバイトをしませんか?」
龍巳にいきなりそのようなことを言われてしまっては、美桜は目を白黒させるしかない。
「アルバイト、ですか?」
「そうです」
腕を組んだ龍巳は大きく頷く。和服で腕を組むというのも、破壊力が半端ない。この男は女性の扱い方に慣れているのだろうか。
「美桜さん。あやかしについてはご存知ですね」
「はい。それは、小学校で習いますから。この世は人間界とあやかしの住む妖界によって成り立っている。人間界と妖界は今から千年ほど前の平安時代に、互いの世界を侵略しないという不可侵条約を人間界の陰陽師と妖界の麒麟が結んだ。千年以上経った現代も、その条約は有効である」
「教科書のような回答をありがとうございます」
教科書のような、ではなく、社会の教科書にそのように書かれているのだ。
「ですが、美桜さんがいまおっしゃったように、人間界と妖界の不可侵条約は千年以上も前に結ばれたもの。千年経った今、その条約が面白くないと思う輩が現れてもおかしくはないのです。むしろ、今まで律儀に守られていた方が不思議なくらいです」
龍巳の話の流れから、不穏な空気を感じる美桜。美桜だってそこまで鈍感ではない。むしろ、成績は良い。だから教科書に出てくるような人間界と妖界の話であれば、新聞やテレビのニュースで目にしている内容であれば、なんとなくわかる。それにこの現代、陰陽師と呼ばれる者は人間界では廃れている。
「もしかして、近頃、あやかしが犯人ではないかと思われる犯罪が増えてきているのは」
「ご名答。あやかしが、人間界に対して侵略を試みているからです。といっても、一部のあやかしですよ。全部が全部そうだ、と思われては、他のあやかしが可哀そうです」
「え、てことは。もしかして湖東さんは、あの陰陽師の血を引く人なんですか?」
「龍巳、でいいですよ」
一瞬、何を言われているのか美桜にはわからなかった。だが、その龍巳が彼の名前であったことに気付き、姓ではなく名で呼べということを言っているということを理解するまでに、一分という時間を要した。
「あ、はい」
としか美桜は言えない。
「では、先ほどの美桜さんの質問に答えます。私が、陰陽師の血を引く者かどうか。答えは、否です。私は陰陽師ではありません。ですが、あやかしが人間界を侵略する行為を否定する立場にある者です」
つまり、人間界に住む美桜にとって、この龍巳という男は味方であると判断して良いのだろうか。龍巳は、その美桜の考えを読み取ったのだろう。
「私は人間の味方ですよ。正確には、今の人間界と妖界の関係を継続させていきたい者の一人です。ですから、一部のあやかしのやり方が気に入らない。そのようなあやかしをとっ捕まえて妖界へと送り返す、というのが私のもう一つの仕事です」
もう一つ、ということは他にも仕事があるのだろうか。
「それで。美桜さんに頼みたいアルバイトというのが、そのあやかし退治ですね」
なんか、さらっと凄いことを言ったぞ、この人。と思いながらも、なぜかそのアルバイトに惹かれてしまう。
「バイト代は、そうですね。あやかし一体を送り返すたびに、これくらい……」
「やります」
美桜は青砥高校に向かってとぼとぼと歩いていた。あの日、二日前に青龍神社で龍巳から話のあったアルバイトを報酬に目がくらんで引き受けてしまった美桜であるが「学校にはきちんといきましょう」という彼の言葉によって、月曜日である今日は高校へと向かっていた。美桜の学校へと向かう足取りは重い。
それもそのはず。まず、青龍神社からアパートに帰ってきた美桜を待ち受けていたのは、督促状だった。家賃滞納。祖母が入院してから、家賃が払えていない。かれこれ二か月。まだ、大丈夫と思いつつその督促状はテーブルの上に置いてきた。先月の分と合わせてまだ二通目。恐らく、半年くらいなら大丈夫だろう、と勝手に思っている。幸いなことに、電気や水道、ガスは止められていない。むしろ、こちらの支払いを優先させているから家賃が後回しになっているのだ。
昇降口に入れば、背中に衝撃を感じた。
「あ、ごめーん。いたんだ」
革靴を手にしていたのはクラスメートの丸山加奈子。あのクラスのカースト頂点に立つ女子生徒。そこから推測されるに、彼女はその革靴で美桜の背中を勢いよく叩いたに違いない。制服にははっきりくっきりと足跡がついていることだろう。
くだらない――。
美桜は加奈子を一瞥してから教室へと足を向ける。だが、それが加奈子には面白くなかったようだ。
「は? 貧乏人のくせに、何、お高くとまってんのよ」
加奈子が望んでいるのは、美桜が叫んで喚いて泣くこと。なぜ彼女の思い通りに行動しなければならないのか。
背中に鈍い衝撃が走った。周囲の笑い声。息がつまる――。
そこから美桜の記憶が途切れている。
美桜がはっと目を開けると、見慣れぬ天井が視界に入った。見慣れないけど、見たことのある天井だ。首だけ横に向けると、そこには困った顔の龍巳が正座をして姿勢を正して座っていた。
「え、と。私はなぜここにいるのでしょう?」
学校に行ったはず。朝からカーストトップの加奈子と出会ってしまい、絡まれた。だが、そこからの記憶がない。
「あなたが学校で倒れたと、連絡がありまして。それで、私が迎えにいきました」
なぜ美桜が倒れたら龍巳の元へ連絡がいくのか――。
あ、思い出した。生徒手帳の緊急連絡先に書いてあったアパートの電話番号の隣に、龍巳の携帯の番号を書いたのだ。龍巳が勝手に。
「あ、すみません。ご迷惑を、おかけしました」
美桜が身体を起こそうとすると、すかさず龍巳の手が伸びてきた。そして、気付いた。制服ではなく、浴衣を着て休んでいたらしい。いつ、誰が着替えたのか。浴衣を見てから龍巳に視線を向けると、彼は困った様に笑う。
「着替えをさせたときに、あなたの身体にある痣を確認させていただきました」
はっとして美桜は浴衣の胸元を押さえる。
「着替えさせたのは女性の使用人ですよ。私は、その痣を確認しただけです」
着替えさせられたことが恥ずかしいのではない。彼が口にしている身体中にある痣を見られた、ということが恥ずかしいのだ。
「誰かに殴られたような痣ですよね。ですが、あなたはおばあさまと二人暮らし。そのおばあさまは入院されている。誰がそのようなことをあなたになさったのでしょうか。学校で倒れたという話も聞いたことから、いつ、どこで、何をされたのかということは、容易に想像がつきます」
美桜は口を噤んだ。もう少しで卒業だ。できることなら事を荒げたくない。無事に高校を卒業さえすれば、働き口だって選択肢が増えるはず。そのために、今まで我慢をしてきたのだから。
「答えたくないのであれば、無理に聞き出そうとはしません。ですが、現状を変えようとしない限り、それは続くのではないのですか?」
「もう少しで卒業ですから。それまで、私があいつらに対して我慢さえすればいいのです」
美桜の口から言葉を聞けたことに安堵したのか、龍巳が微笑んだ。
「美桜さん、やっとあなたの口から何があったのかということを聞けたような気がします。あなたを傷つけたのは、あいつらですね」
美桜は小さく頷いた。両親もおらず、祖母と二人暮らしで、まして裕福ではない家庭で見た目は地味というスクールカーストという制度の中では底辺に位置する存在。殴る蹴る引っ張る押す、荷物を隠して困らせる。教師に気付かれないように美桜を痛めつけるのがカースト上位における彼らの特権のようなもの。むしろ知られても、それを捻じ伏せるだけの力があの加奈子にはある。
「いつの時代も、人間にとっての脅威は人間なんですよね」
美桜のつぶやきに、龍巳は薄く笑いを浮かべた。
千年以上も前に、不可侵条約のような約束が結ばれたのは、あやかしたちが人間を襲っていたから。それに対抗する力を持っていた人間が陰陽師と呼ばれる彼ら。だがこの争いに終わりはないのではないか、と気付いた双方のトップがその約束を結んだ。
だから現代の今、あやかしたちも人間界で人間に紛れて暮らす者もいるし、妖界で暮らすことを選ぶ人間だっている。そうやって時代は移り変わっていくというのに、人の本質というものはかわらない。
「人間は。自分より劣る者の存在を確かめることで、安心感を得ようとする生き物なのです」
龍巳の言葉を、美桜は黙って聞いていた。
「さて、美桜さん。あなたはまだまだたくさんの問題を抱えておりますね。荷物を取りにいった私の使用人が、あなたのアパートからこのようなものを見つけてきました」
先ほどから彼の口からは使用人という言葉が出てくるのだが、その使用人をお目にかかったことはない美桜。
勝手に人の家に入ったんですか、と普通なら騒ぎ立てるところなのだが、なぜかその気力すらない。
「美桜さん、ここに住みませんか?」
「は?」
この男の言っていることが飛躍し過ぎて、美桜の脳みそがついていかなかった。
「あなたのおばあさまも不在であるなか、あなた一人であのようなボロアパートにいるのは、さぞかし不安でしょう」
さりげなくボロと言って、美桜の家をディスっているようにも聞こえるのだが。
「それに、あなたは私の仕事を手伝ってくれるのでしょう? でしたら一緒に住んだ方が何かと便利なのです」
「え、あ。はい。あの、だけど、その。祖母が退院したら戻ってくる家がなくなってしまいますから」
「それは、おばあさまが戻ってきたときにまた考えましょう。とにかく私が今言いたいのは、あなたをあそこに一人でおいておきたくない、ということなのです。それに私の仕事の助手なのですから、できるだけ側にいて欲しいというのが本音です」
なぜだろう。どこからどう聞いても怪しい話なのに「はい」と頷いてしまったのは。それほどまでに追い詰められていたのか、それとも彼がこの神社の責任者だからなのか。
今、美桜は龍巳がいうところの使用人と共に、一度アパートへ戻っている。必要最小限の荷物を持ってくると共に、アパートの滞納家賃の支払いや解約手続きなどのあれやこれのために。だから今、この部屋には龍巳しかいない。
「青龍様、少し強引過ぎたのではありませんか?」
龍巳の首元にまとわりついている蛇。今、声を発したのはこの蛇であり、この蛇は龍巳の使役魔である。つまり、龍巳の言うことを聞く従順な生物のはずなのだが、どうやら口答えをしている様子。それはこの龍巳の力が強いから、困ったことに使役魔も意思を持ち始めてしまったのだ。
「ああいう子は、少しくらい強引にいかないとすぐに逃げてしまうのですよ」
龍巳は楽しそうに笑っていた。
龍巳が美桜を拾ったのは、本当に偶然だった。深夜、使役魔が騒いでいるから外に出てみたところ、人が倒れていた。それが美桜だった。助け起こそうと思って彼女に触れた途端、ビリッと全身に電気が走ったような痺れを感じた。
そこで龍巳は、彼女が自分の伴侶となるべき少女であることを悟った。
あやかしは、自身の伴侶となるべき者と出会うと本能的に感じるらしい。だが、そうは聞いていたものの、今までそういったことのなかった龍巳にとっては、その話すらも半信半疑であった。だが、それが確信へと変わった瞬間でもある。
彼女のことはただの人間であると思っていた。人間とあやかしの婚姻も、今となっては珍しいことではなくなってきているが、だからといって多いとも言い難い。寿命の異なる異種婚姻は、様々な手続きや根回しが必要となるからだ。だが、彼女はあやかししか見ることができない妖具を見ることができるようだった。
妖具――それがあの床の間に飾ってある日本刀のようなもの。あれは刀の形をした妖具なのである。妖具とはあやかしを捉えるための道具であるため、人間界の純粋な人間には見ることができないし、もちろん触れることもできない。
「青龍様、楽しそうですね」
使役魔はするすると龍巳の首から降りると、どこかへすっと消えていく。それは龍巳が命じたから。
美桜の様子を見張れ――と。
「まさか、私の伴侶が人間界にいるとは思ってもいませんでしたね」
龍巳は独り言ちた。
伴侶を得たあやかしは、その力を増幅させるとも言われている。だからこそ、伴侶は「極上の番」とも呼ばれているのだ。
龍巳は嬉しそうに目を細めた。
さて、諸々手続きをしてきた美桜は、龍巳につかえている使用人――名前を、千衣子という――と共に、この社務所へと戻ってきていた。美桜としては怒涛の数日間。宝くじを当てたくて、この神社にお百度参りをして、途中、力尽きて眠ってしまったというのが事の発端。
与えられた部屋は、あのアパートの一室よりも広い部屋だった。社務所の奥にこのような立派な住居があることも驚いたが、このような立派な部屋を与えられたことも驚きだった。なぜ、龍巳はここまで自分によくしてくれるのだろうか。
「美桜さま、お食事の準備が整いました」
荷物を片付けていた美桜の元へやってきたのは、千衣子。どうやら美桜付きの使用人とのこと。家賃滞納ボロアパートの貧乏暮らしから、一気にお嬢様になってしまったような、そんな気分。
千衣子の後ろを黙ってついていくと、案内された場所は大きな和室。和室であるのに、椅子とテーブルが並んでいるのだが、やはり和室にあったような黒や茶色を主体とした色合いのもの。
そのテーブルの上座と思われる場所に座っていたのは、もちろん龍巳であった。美桜の姿を見つけると、目尻を下げて微笑む。
「美桜さん、部屋のほうの居心地はどうですか?」
「あ。はい。私にはもったいないような部屋です。ありがとうございます」
「その着物も似合っています」
美桜は、なぜか着物を着つけられた。よく見たら、ここにいる人たちは皆着物姿だ。そもそもここは美桜が知っている世界と違うような気がする、のだが。それを口にしてもうまくはぐらかされてしまうような気がしていた。
「では、食事にしましょう」
美桜の前には料亭かと思われるような食事が運ばれてきた。このような料理、今までお目にかかったことさえない。むしろ、食べ方さえわからないようなものばかり。美桜が困って食べ物を見つめていれば、龍巳が優しく声をかけてくれる。だから美桜も恐る恐る口元へとそれを運ぶ。
「美味しい」
それが美桜の素直な気持ち。いつも満足な食事さえとることのできなかった美桜。逆に、お腹がびっくりしてしまうのではないかと思われるほどの豪華な料理。
「本当は食事をしながら、あやかし退治についてのお話をしたかったのですが……。どうやら美桜さんは食事に集中されたほうがよろしいみたいですね」
龍巳が笑っているのは、美桜がハムスターのように頬を膨らませているからだろう。それらをゴクンと飲み込んだ美桜は、恥ずかしいところを見せてしまったとでも思ったのか、少し頬を赤らめた。
「美桜さん。お気になさらず、好きなだけ好きなように食べてください」
美桜を見つめる龍巳の眼差しは優しい。いや、彼だけではない。ここにいる他の者たちも、美桜を見守るかのような眼差しを向けてくるのだ。
「美桜さん。食事が終わりましたら、私の部屋に来ていただけませんか? あやかし退治について説明しましょう」
部屋に来てもらえないか、と男性から誘われたら、ドキリとしてしまうかもしれない。だが、残念ながら美桜には魅力のない誘いだった。今は目の前のご飯の方が大事。
口の中にいっぱい食べ物が詰め込まれているため、美桜はコクコクと頷いた。
食事を終えた美桜は、千衣子に案内されて龍巳の部屋へと向かった。こんなにお腹いっぱいご飯を食べたのはいつ以来だろうか。
「待っていましたよ。どうぞ、そこにお座りください」
龍巳の部屋は、いつも美桜が気付くと横になっていたあの部屋だった。
「千衣子さん、お茶の準備をお願いします」
龍巳の言葉に黙って頭を下げた千衣子は、無言でお茶を淹れると二人の前に湯呑を差し出した。そして、黙って彼女は部屋を出ていく。
「美桜さん。早速ですが、あやかし退治について説明しましょう。明日も学校がありますから、あまりお時間を取らずにさくっと説明しますね」
彼の口から似合わないような言葉が飛び出して、思わず美桜はにやけてしまった。そんな彼女に安心したのか、龍巳は言葉を続ける。
「では、早速。あやかし退治には妖具と呼ばれる道具を使います。その妖具の一つがあの刀です」
そこで龍巳は床の間に視線を向ける。美桜も釣られるようにして床の間を見やった。立派な日本刀が飾ってあるのだが、あれがあやかし退治のための道具だという。となれば、本物なのだろう。
「妖具は、普通の人間には見えませんし触れません。ですからあの刀が人間を傷つけることはありません。あやかしをばっさりと切りつけて、強制的に妖界へ送り返す。それがあの刀の力です」
普通の人間を傷つけるわけではない、と聞いて美桜は安堵した。やはり刀と聞いてしまえば血生臭いことを想像しまいがち。
「それで、美桜さん。あなたは一体、何者ですか?」
美桜は問われている意味がわからなかった。ん? と首を傾げる。
「妖具は、普通の人間には見ることができないのです。ですから、あそこに日本刀のようなものがあることに気付かないのですよ。普通の人間であれば」
含みをもたせている龍巳の笑みが怖かった。何者と問われても、美桜は人間だ。あやかしではない。
「もしかして。私が陰陽師の家系の血を引く者、だったりするのですかね?」
龍巳もその可能性を考えた。妖具が見えているという時点であやかしか陰陽師の血を引く者か。もし、美桜が陰陽師の血を引く者であれば、龍巳がすぐに気が付くはずだ。これも普通の人間とは違う独特な気を放つから。
だが、美桜から感じられるのは人間の気。陰陽師でもあやかしでもない、いたって普通の人間の気。だから、彼女が妖具を目にすることができたのが解せないのだ。どうやら、美桜の生い立ちについては調べる必要がありそうだな、と龍巳は考える。自分の極上の番となるべき女性。謎に包まれているのも魅力の一つであるが、できることなら余すことなく彼女を知りたい、という欲。
「すみません、どうやら私の勘違いのようでした」
という一言で、龍巳はその場を誤魔化した。それから簡単に妖具の使い方を説明し、刀以外にもたくさんの種類があることも教えた。その中で、美桜には鞭のような妖具と小刀のような妖具の二つを与えた。
「こちらの妖具は、あやかしに向かって打ちつけるほかに、彼らを拘束させることができます。あやかしを妖界に送り返すには切りつける必要がありますので、そのときはこちらの小刀をお使いください」
つまり、人間でいうところの失血死のような状態になれば、あやかしたちは強制的に妖界に送り返される、とのことだった。だから日本刀や小刀のような切りつける妖具が必要になる、とのこと。
「それから、こちら。お守りです」
ミサンガのような組紐を手渡された。
「これでしたら、学校につけていくこともできるでしょう?」
龍巳は美桜の手首に、その組紐を結び付けた。美桜は黙ってそれを眺めたけれど、加奈子に見つからないようにブラウスの袖の下に隠しておこう、と思った。
千衣子の手によってボサボサだった美桜の髪は、艶を取り戻していた。ボサボサだったからいつも三つ編みにしていたその髪を、千衣子は高い位置で一つに縛った。いわゆるポニーテールというもの。制服についていた汚れも千衣子や他の使用人たちによって、跡形もなく消え去っている。
別人みたい、というのが美桜の素直な気持ちだった。今日は学校の帰りに祖母の病院に寄りたいことを龍巳に伝えたら、彼はそれを快く承諾してくれた。祖母は起き上がることはできるものの、一人で歩くことができない状態。医師からはその病気の症状を説明されたような気もするのだが、美桜には難しくてよくわからなかった。また、手術同意書というものにサインをしなければならないのだが、高校生である美桜は十八にならなければそれにサインができないようだ。だから、誰か他の大人をと言われているのだが、美桜にとって親族と呼べるものは祖母だけであるため、どうしたらいいかもわかない。その辺も含めて、病院のソーシャルワーカーに相談するように、とも言われていた。
祖母の事を考えていたら、いつの間にか学校に来てしまった。昨日は学校に来たものの、教室に辿り着くことすらできなかった。今日は周囲を見回しても加奈子一味がいない。ということは、どうやら教室までは行くことができそうだ。
美桜の席は真ん中の列の一番後ろ。一番後ろの席というのが、何かとありがたい。
いつもの通り黙って教室に入れば、クラスメートから好奇心の目を向けられた。
「金木さん、だよね?」
声をかけてきたのは、隣の席の田中真帆。
「あ、うん……」
できるだけ関わりたくない。彼女から避けるようにして小さく返事をして、席につく。
「え、どうしたの? 髪の毛、艶々じゃん。髪型も微妙にかわいいし」
真帆の大きな声で、人が集まってくる。
――あれ、金木?
――学校に来たんだ。別人じゃね?
――とうとう頭がおかしくなったのか?
そんな声が耳に届いてきた。美桜としてはそっとしておいて欲しい。ただ、それだけ。
それでも、加奈子はまだ学校には来ていないようだった。加奈子が来るまでに静寂が戻って欲しいと、美桜はひたすらそう願っていた。
だが、ショートホームルームの時間になっても加奈子は姿を現さなかった。担任が言うには欠席とのこと。昨日、あれだけ美桜をいたぶったにも関わらず、今日は休みというのは何があったのだろうか。他にも、彼女の取り巻きたちの姿もなかった。結局、この日はカースト上位の四人が欠席。美桜にとっては平和そのもの。
と思っていたのだが、その平和は昼休みに隣の席の真帆によって壊された。
「金木さんのお弁当。すごーい。自分で作ったの?」
なぜか真帆が美桜の机にその机を寄せてきている。合わせて一緒にお弁当を食べましょう、とでも言うように。真帆の声を聞きつけたのか、美桜の弁当を見るために数人のクラスメートが寄ってきた。
美桜は誰に見られても自分のペースを乱すことなく、弁当を口に運ぶ。この弁当は龍巳に持たされたもの。恐らく、あそこの料理人が作ってくれたのだろう。
「ねえねえ、金木さんのこと、名前で呼んでもいい? 私のことも真帆でいいから」
カースト上位がいなくなった途端、これだ。ある意味、カースト上位はいい仕事をしていたのかもしれない、と美桜は思った。他人と馴れ馴れしくするのは苦手。と思いながらも、あの龍巳と話をするのは嫌ではなかった。
「好きにしてください……」
クラスメートとはあまり話をしたことが無いため、このようなときにどのような言葉を口にしたらいいかがわからない。咄嗟に美桜の口を告いで出た言葉がそれだった。
「じゃ、美桜って呼ぶね」
やはり加奈子たちがいなくて良かったのかもしれない。こんなところを見られたら何を言われて何をされるか、わかったものじゃない。
真帆はお弁当を食べながら一方的に喋っていた。
ずっと声をかけてみたいと思ってた。だけど、加奈子たちがいたから。今まで無視してごめんね。
恐らく、そんな感じの内容だったと思う。
やはり、カースト上位がいないから興味本位で声をかけてきただけなのだろう。加奈子たちが学校に来たなら、どうせ声もかけてくれないくせに――。
そう思いながら、美桜はお弁当を噛み締めた。
放課後、美桜が帰ろうとすると真帆に呼び止められた。
「美桜、一緒に帰らない?」
美桜はぎょっとして真帆を見る。彼女はニコニコと笑顔を浮かべているのだが、その笑顔がどこか怖いように感じてしまったのは何故だろう。
「今日は。病院に行かなきゃいけないので」
「そうなんだ、残念。じゃ、明日、一緒に帰ろうね。ばいばい」
真帆の距離感がわからない。加奈子がいないからああなのか。加奈子がいてもああなのか。そもそも真帆はカーストの中間層の人間のはずだ。中間層の人間は上位がいなくなっただけで、ああも強くなれるのだろうか。鞄を手にした美桜は、そっと教室を出る。美桜の姿が教室から消えた時、換気口からするっと滑って外に出ていく何かがあった。もちろん、美桜はそれに気付いていない。
美桜は祖母の着替えを持って病院へと向かっていた。いつも三日から四日に一度の頻度で病院へと行っていた。やることが無いから、毎日行っても苦ではないのだが、それは祖母が嫌がっていた。だから、丁度よい回数が三日か四日に一度の頻度。
「おばあちゃん」
病室に入ると、今日もベッドの上でぼんやりとしている祖母の姿があった。
「みおちゃんかい?」
ゆっくりと首をこちら側に向ける。入院してから一気に老けたような気がする。祖母はまだ六十代だ。平均寿命までまだまだある、にも関わらず。
「おばあちゃん、着替えはここに置いておくね」
ベッドの脇にある床頭台の開き戸を開けて、新しい下着をそこにいれた。それからそこに置いてある汚れ物を取り出す。
「おばあちゃん。何か食べたい物とかある? 買ってくるよ」
「何もいらないねぇ」
一応、会話は成り立つ。どうして祖母がこうなってしまったのか、美桜にはよくわからない。医師の話を聞いても、難しくてよくわからない。
とりあえず手術が必要であること。手術をするためには、持病の治療をしてから、とのことで投薬治療が続けられている。
入院費用、手術費用、お金は祖母の年金から。美桜も単発のバイトをして、それを生活の足しにしているのだが、結局、家賃に手が回らなくなっていた。
「おばあちゃん。また、来るね」
「はいはい」
祖母はわかっているのかいないのか、ニコニコと笑顔を浮かべているだけだった。
「みおちゃん、みおちゃん」
祖母が帰ろうとする美桜を引き止めようとすることは珍しい。
「みおちゃんの腕。きらきら光ってるね」
祖母のその言葉に美桜は首を傾げる。それでも祖母が美桜の手首に手を伸ばしてきた。
「きらきら光ってるのは、ここだね」
それは昨日、龍巳からもらった組紐。ブラウスの下になるようにと、ブラウスの手首のボタンをしっかりとしめていたから、祖母からは見えるはずもなかったのに。
美桜は手首のボタンを緩めて、組紐を祖母に見せた。
「おばあちゃん、これ?」
「そうだよ。これは大事にしなきゃいけないね。美桜ちゃんを守ってくれるものだから。いいもの貰ったね」
ふと、入院前の祖母に戻ったような感じがした。
「おばあちゃん、ありがとう。また来るね」
龍巳からもらった組紐を褒められたことが嬉しかった。
美桜が病室から出ると、また通気口からしゅるりと出ていく何かがあった。
青龍神社の社務所。外から見ると、こぢんまりとしている建物に見える。だが、中に入れば広い。目の錯覚と呼ばれるものなのか、と思いながら、社務所の裏口に回る。
奥の住居の方に入るには、裏口という名の玄関から入るようにと言われている。表の入り口は社務所内だけ。裏から入れば奥の住居に行けるようになっている作りらしい。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさいませ、美桜さま」
にこにこと笑顔を振りまいて千衣子が出迎えてくれた。
「あの、洗濯をしたいのですが。洗濯機をお借りしてもよいでしょうか」
祖母の下着も洗濯したいし、自分の着替えも洗濯したい。
「まあまあ、そのようなことは私どものほうでやりますから」
と言われるのはわかっていた。
「あの、ですが。その、祖母の着替えもあるので」
「でしたら、まとめて洗濯しますよ」
ここまで言われてしまったら、美桜は反論ができない。元々、学校では口数少なく。ここで普通に喋ることができる方が不思議なくらいなのだ。
「お願いします」
美桜が頭を下げると、千衣子はやはり笑顔だった。ここに来てから、たくさんの人に笑顔を向けられる。蔑まれたような同情されたような視線ばかり向けられていた美桜にとっては、なかなか慣れない視線でもある。
「着替えを、お手伝いしますね」
制服を脱ぐと、また着物を着付けられる。やはり、神社というところに住んでいるから着物なのだろうか。
「慣れれば一人で着付けられるようになりますから。夏になれば、浴衣もよろしいかと思います」
千衣子はそう声をかけて、洗濯物を手にして、部屋を出て行った。
着物を着てしまったら、疲れたといってゴロンとその辺に寝転がることもできない。仕方なく、座布団の上にしずしずと正座をして、鞄から教科書を取り出した。学生の本文は勉強だから、宿題とテスト勉強でもしておこう。
だが、美桜は就職希望だった。もちろん、理由は金銭面。進学するだけのお金はない。家賃だって払えないような状況で、ご飯だって食べたり食べなかったりしていた日々だったのだから。就職希望だからテスト勉強は不要というわけではない。むしろ内申点が響くから、定期テストではそれなりに成果を出しておく必要がある。
部屋の襖を叩かれた。
「はい」
「私です。今、入っても大丈夫でしょうか」
「はい」
美桜が返事をすると、襖はゆっくりと開かれる。もちろん、そこにいたのは龍巳。
「勉強中でしたか? 後で出直した方がよろしいでしょうか?」
「いえ、大丈夫です」
美桜はテーブルの上に並べていたノートと教科書を両手でかき集めると、畳の上においた。これでテーブルの上だけは綺麗に片付いたはず。
「では、お言葉に甘えて」
今日の龍巳の着物は、濃い茶色。美桜はまだ、龍巳が同じ柄の着物を着ていたことを目にしたことがない。
「学校は、いかがでしたか?」
「それが、ですね」
聞かれてしまった事で、美桜は箍が外れたかのように勢いよく喋り出した。あの加奈子が欠席したこと、加奈子だけでなく取り巻きも欠席。なぜか隣の席の真帆が声をかけてきたこと。だけどそれは、加奈子たちがいないからだろう、ということまで。
「なるほど」
美桜の話を黙って聞いていた龍巳だが、その内容は使役魔が伝えてきた内容とほぼ同等。ただ使役魔は客観的に報告するのに対して、美桜の話には彼女の感情が含まれている。違いがあるとしたらそこくらいだろう。
「おばあさまの様子は? 今日は、病院にいかれたのですよね」
「はい。相変わらずです。私のことは辛うじてわかっているようなのですが。いつ行ってもぼんやりとしていて。どこにいるかもわかっているのかいないのか。あ、それでも」
美桜の顔がぱぁっと明るく輝いた。
「おばあちゃん。これに気付いてくれたんです。私を守ってくれるものだから、大事にしなさいって。ちょっと、嬉しかったです」
気になる人から貰った物を、他人から褒められたらそれは素直に嬉しい。
「おばあさまが、そうおっしゃっていたのですか? 他には?」
「あ、そうですね。これがきらきら光ってるって言ってました。たまたま光に反射したんですかね?」
という最後の一文は、美桜なりに考えた誤魔化しだ。口にしてから気付いた。この組紐がきらきら光るような造りになっていないことに。祖母がとうとうボケてしまった、と思われるのが嫌だったから。
だが、龍巳は特に気にしていない様子。
「美桜さんの様子が聞けて安心しました。夕食の準備が整いましたら、また呼びにきます。それまでは、そうですね。どうぞ、勉強をしていてください。学生の本分は勉強ですからね」
そこで龍巳は立ち上がった。美桜も龍巳を見送るために立ち上がろうとしたのだが、長く正座をしすぎてしまったせいか、足が痺れていた。痺れた足で立ち上がれば、身体はバランスを崩してしまい、倒れそうになってしまう。
「あ」
「危ないですよ」
転ばずに済んだのは、すんでのところで龍巳が身体を引き寄せてくれたからだ。見た目よりも力強い龍巳に抱き締められて、美桜は少しドキリとしてしまう。
「気を付けてくださいね」
美桜の頭の上から龍巳の声が降ってきた。思わず見上げれば、丹精なその顔が近い。美桜は頬が熱を帯びるような感じがした。すっと頭を下げて、視線を逸らす。
だけど、まだ足が痺れて、彼の腕から逃げ出すことはできない。
「すみません、足が、痺れてしまって……」
事実だけど言い訳のようにも聞こえたかもしれない。
「落ち着くまでこのままでいいですよ」
また、頭上から龍巳の柔らかい声が降ってきた。この声に包まれると、なぜか落ち着く。落ち着くはずなのに、心臓だけはそれと正反対で忙しなく動いていた。じんとしていた足の痺れも、心臓が動くたびに和らいでいく。
「もう、大丈夫です」
美桜は恥ずかしくなって、優しく龍巳を突き放した。
「では、また」
龍巳は穏やかな笑みを浮かべて、部屋を出て行った。
さて、美桜の部屋を去った龍巳だが、自室へ戻るや否や使役魔を呼びつけた。
「お呼びですか、青龍様」
「美桜のおばあさまの話です。何も、報告があがってきていませんが」
「すみません。中への侵入は成功したのですが、どうやらあそこの周辺には結界が張られておりました」
「結界、ですか?」
龍巳はその丹精な顔を歪めた。
「はい。我々使役魔や力の弱いあやかしは近づくことができません。結界によって、美桜様との空間が遮断されてしまいました。ですが、美桜様がお帰りになられる際には結界も解けましたので、恐らく、美桜様の近くにいた誰かによる仕業だとは思うのですが」
青龍は美桜に組紐を手渡したが、あの組紐にはそこまでの力はない。
「できれば、美桜のおばあさまからも話を伺いたいところですね」
龍巳は顎を右手でさすりながら考える。だが、美桜の話では祖母は歩くことができない程弱っているらしい。記憶も曖昧になる、とか。手術のために、他の病気を治すための投薬治療を行い、そこが完治してから手術になる、と。
「美桜のおばあさまは、本当に病気なのでしょうかね」
龍巳の目が鋭く使役魔を捕らえた。すっと、一歩退く使役魔であるが、どういう意味でしょうか、と龍巳を見上げる。それは、次の命令を待っているかのようにも見えた。
「とりあえずあなたは、美桜の身辺を見張っていてください。他の者に、美桜のおばあさまについて探りを入れてもらいます」