◇
長い、夢を見ているようだった。
飛び起きて、そこが自分の部屋であることに安心する。
しかしふと気になった。
あれは、夢だったのだろうか。
やけに、リアルだった。
「もしかして、前世の記憶? ……なんて、小説の読みすぎか」
彼女はベッドから降りると、部屋を出た。
顔を洗い、朝食を取り、服を着替えて、家を出る。
なんてことのない日常だ。やはりあれは夢だったのだと思いながら、道を歩く。
そのとき、猫の鳴き声が聞こえた。見ると、前のほうにこちらを見つめる黒猫がいる。
「可愛いくろね、こ……」
彼女は言いながら猫に近付こうとしたが、急に頭が痛み、その場に座り込んだ。
知らない記憶が頭の中に流れ込んでくる。
「黒猫……夜……?」
彼女は理解できないまま、呟いた。そして、気を失った。
◆
「黒猫……紫翠知らない?」
小羽はきょろきょろしながら、窓際でくつろぐ夜に聞いた。夜は欠伸をしながら答える。
「いい加減、名前呼べよ。お前が付けたんだろ、チビ」
「チビじゃない……小羽」
二人は睨み合いをする。
「紫翠、どこにいる?」
その争いが時間の無駄だと知っている小羽は早々に睨み合いを辞め、今一度聞いた。
「知らない。また現世に行っていろんな奴の記憶覗いてんじゃねえの。紫翠、趣味悪いから」
夜の言い方に、小羽はまた不機嫌になる。だが、それが睨み合いに発展することはなかった。
「紫翠、最近黙っていなくなる……」
「寂しいのか? 相変わらずガキだな」
さすがにその言葉は流せなかったようで、小羽は夜の手を踏んで、その場を去る。
そして、入れ違うようにして紫翠が入ってくる。
夜はいたずら心で、今のやり取りを教えてやろうと思った。
「さっきあのチビが……なにかあったのか」
紫翠があまりにもこの世の終わりのような顔をしていたから、聞かずにはいられなかった。
夜に聞かれて、紫翠は視線を夜に移す。
「夜くん……彼女の、桜子さんの記憶を持った少女が現れたって言ったら、どうする」
真剣な声に、冗談だと笑い飛ばす空気ではないことはわかった。
だが、信じられる話でもなかった。
「どうもしない」
夜は体を起こし、伸ばす。
「彼女は君を探すかもしれないよ?」
「でもそれは、もう桜子じゃない。俺には関係ない」
夜は本音のつもりで言っていた。
しかし夜の心の底に隠れた、夜でも気付かない本音は、紫翠にはわかっていた。
紫翠が次の言葉を考えていたら、夜はその場にいなかった。
「何十年も彼女に囚われていて、無視なんてできるわけがないんだよ、夜くん」
一人残されて、紫翠は夜の感情が移ったようで、苦しそうに顔を歪めて静かに言った。
◆
気付けば現世にいた。
気付けば猫の姿をしていた。
紫翠にその人物の特徴を聞いたわけではないのに、その面影を探していた。
そして、気付けばあの橋があった場所に行っていた。
作り変えられてしまって、あの橋のままではないが、確かに橋はそこにあった。
来てどうするんだ。
自分でそう思い、夜は帰ることにした。
ただ、せっかくだから橋を渡っておこう、なんてつまらないことを思いながら、橋の上を歩く。
「……黒猫ちゃん?」
夜にとって、その呼びかけ方をするのは、桜子だけだった。
誰だってそう言うだろうが、現在では黒猫が不吉の象徴と言われ、誰も近寄ってこないことを、夜は知っていた。
だからこそ、桜子が戻って来たように錯覚した。
一応振り返ってみるが、予想通り、桜子ではない少女が立っている。
しかし少女は嬉しそうに夜に駆け寄り、抱き上げた。
「やっぱり、私の知ってる黒猫ちゃんだ。生きてたのね、よかった……」
夜は困惑した。
見た目も、声も、服装も。すべて桜子ではないと言っているのに、話し方と仕草は桜子そのものだった。
「夜さんにも会いたい……」
それを聞くと、夜は怖くなって、少女の手から逃げた。
あれは桜子か。いや、違う。でも。
そんな混乱した思考回路のまま、夜は紫翠のもとに向かった。
「……会ったんだね。思考がうるさい」
直球な悪口に反論する余裕はなかった。
「なにがどうなっている」
「それは私にもわからないよ。この世は不思議であふれているからね。ただ、彼女が桜子さんの記憶を持っているのは、間違いない。いや、思い出したと言ったほうが正しいかな」
紫翠が言うのなら、間違いない。夜は受け入れがたい現実を受け止めるしかなかった。
「……あの子から、桜子の記憶を消すことはできないのか」
夜の提案に、紫翠は反応が遅れる。
「それができるあやかしを知ってはいるが……いいのかい? もう一度、彼女とやり直すチャンスかもしれないというのに」
どちらも言葉を選びながら紡いでいくから、会話がゆっくりと流れていく。
「桜子の時間は、もう止まったんだ。動かしてはいけない。今動くべきは、あの子の時間。桜子の時間を重ねてしまうと、あの子が存在しない時間が生まれてしまう。それは、違うだろ」
夜が言って、沈黙が訪れる。紫翠は簡単に答えを出していい話ではないとわかっているからこそ、熟考した。
「……わかった。彼女が二度と桜子さんのことを思い出せないようにしておくよ」
紫翠が言うと、夜は胸をなでおろした。そして、一筋の涙を落とす。
「ありがとう、紫翠」
紫翠は夜の横に立ち、肩に手を置く。
「私が消すのは、彼女が持っている桜子さんの記憶だ。君が彼女に恋をした事実が消えるわけではない。決して無駄な想いではないのだ。大切にしなさい」
紫翠が立ち去り、静かな空間となる。
夜にふさわしい、静かな空間。その中で夜はひたすら涙を落としていた。
了
長い、夢を見ているようだった。
飛び起きて、そこが自分の部屋であることに安心する。
しかしふと気になった。
あれは、夢だったのだろうか。
やけに、リアルだった。
「もしかして、前世の記憶? ……なんて、小説の読みすぎか」
彼女はベッドから降りると、部屋を出た。
顔を洗い、朝食を取り、服を着替えて、家を出る。
なんてことのない日常だ。やはりあれは夢だったのだと思いながら、道を歩く。
そのとき、猫の鳴き声が聞こえた。見ると、前のほうにこちらを見つめる黒猫がいる。
「可愛いくろね、こ……」
彼女は言いながら猫に近付こうとしたが、急に頭が痛み、その場に座り込んだ。
知らない記憶が頭の中に流れ込んでくる。
「黒猫……夜……?」
彼女は理解できないまま、呟いた。そして、気を失った。
◆
「黒猫……紫翠知らない?」
小羽はきょろきょろしながら、窓際でくつろぐ夜に聞いた。夜は欠伸をしながら答える。
「いい加減、名前呼べよ。お前が付けたんだろ、チビ」
「チビじゃない……小羽」
二人は睨み合いをする。
「紫翠、どこにいる?」
その争いが時間の無駄だと知っている小羽は早々に睨み合いを辞め、今一度聞いた。
「知らない。また現世に行っていろんな奴の記憶覗いてんじゃねえの。紫翠、趣味悪いから」
夜の言い方に、小羽はまた不機嫌になる。だが、それが睨み合いに発展することはなかった。
「紫翠、最近黙っていなくなる……」
「寂しいのか? 相変わらずガキだな」
さすがにその言葉は流せなかったようで、小羽は夜の手を踏んで、その場を去る。
そして、入れ違うようにして紫翠が入ってくる。
夜はいたずら心で、今のやり取りを教えてやろうと思った。
「さっきあのチビが……なにかあったのか」
紫翠があまりにもこの世の終わりのような顔をしていたから、聞かずにはいられなかった。
夜に聞かれて、紫翠は視線を夜に移す。
「夜くん……彼女の、桜子さんの記憶を持った少女が現れたって言ったら、どうする」
真剣な声に、冗談だと笑い飛ばす空気ではないことはわかった。
だが、信じられる話でもなかった。
「どうもしない」
夜は体を起こし、伸ばす。
「彼女は君を探すかもしれないよ?」
「でもそれは、もう桜子じゃない。俺には関係ない」
夜は本音のつもりで言っていた。
しかし夜の心の底に隠れた、夜でも気付かない本音は、紫翠にはわかっていた。
紫翠が次の言葉を考えていたら、夜はその場にいなかった。
「何十年も彼女に囚われていて、無視なんてできるわけがないんだよ、夜くん」
一人残されて、紫翠は夜の感情が移ったようで、苦しそうに顔を歪めて静かに言った。
◆
気付けば現世にいた。
気付けば猫の姿をしていた。
紫翠にその人物の特徴を聞いたわけではないのに、その面影を探していた。
そして、気付けばあの橋があった場所に行っていた。
作り変えられてしまって、あの橋のままではないが、確かに橋はそこにあった。
来てどうするんだ。
自分でそう思い、夜は帰ることにした。
ただ、せっかくだから橋を渡っておこう、なんてつまらないことを思いながら、橋の上を歩く。
「……黒猫ちゃん?」
夜にとって、その呼びかけ方をするのは、桜子だけだった。
誰だってそう言うだろうが、現在では黒猫が不吉の象徴と言われ、誰も近寄ってこないことを、夜は知っていた。
だからこそ、桜子が戻って来たように錯覚した。
一応振り返ってみるが、予想通り、桜子ではない少女が立っている。
しかし少女は嬉しそうに夜に駆け寄り、抱き上げた。
「やっぱり、私の知ってる黒猫ちゃんだ。生きてたのね、よかった……」
夜は困惑した。
見た目も、声も、服装も。すべて桜子ではないと言っているのに、話し方と仕草は桜子そのものだった。
「夜さんにも会いたい……」
それを聞くと、夜は怖くなって、少女の手から逃げた。
あれは桜子か。いや、違う。でも。
そんな混乱した思考回路のまま、夜は紫翠のもとに向かった。
「……会ったんだね。思考がうるさい」
直球な悪口に反論する余裕はなかった。
「なにがどうなっている」
「それは私にもわからないよ。この世は不思議であふれているからね。ただ、彼女が桜子さんの記憶を持っているのは、間違いない。いや、思い出したと言ったほうが正しいかな」
紫翠が言うのなら、間違いない。夜は受け入れがたい現実を受け止めるしかなかった。
「……あの子から、桜子の記憶を消すことはできないのか」
夜の提案に、紫翠は反応が遅れる。
「それができるあやかしを知ってはいるが……いいのかい? もう一度、彼女とやり直すチャンスかもしれないというのに」
どちらも言葉を選びながら紡いでいくから、会話がゆっくりと流れていく。
「桜子の時間は、もう止まったんだ。動かしてはいけない。今動くべきは、あの子の時間。桜子の時間を重ねてしまうと、あの子が存在しない時間が生まれてしまう。それは、違うだろ」
夜が言って、沈黙が訪れる。紫翠は簡単に答えを出していい話ではないとわかっているからこそ、熟考した。
「……わかった。彼女が二度と桜子さんのことを思い出せないようにしておくよ」
紫翠が言うと、夜は胸をなでおろした。そして、一筋の涙を落とす。
「ありがとう、紫翠」
紫翠は夜の横に立ち、肩に手を置く。
「私が消すのは、彼女が持っている桜子さんの記憶だ。君が彼女に恋をした事実が消えるわけではない。決して無駄な想いではないのだ。大切にしなさい」
紫翠が立ち去り、静かな空間となる。
夜にふさわしい、静かな空間。その中で夜はひたすら涙を落としていた。
了