桜子は、生贄として育てられた。
 姉がいて、親の愛情は姉にしか注がれていない。
 生贄だからという理由で、なにかを持つことを許されていない。
 傷が付いたり、逃げられたりされると困るから、ほぼ軟禁状態。
 黒猫が救いのように感じた。
 自分に興味を持ってくれた夜と話してみたい。

「ざっとこんな感じかな」

 紫翠に紙を渡されたのはいいが、夜が字を読むことができなかったがために、紫翠がそれを読み上げた。

 初めは見えない相手への怒りで染まった顔をしていたが、最後の二つを聞いて、夜は顔を赤くした。

「夜くん、彼女の言葉に喜んでいる場合じゃないのだよ?」

 紫翠は夜を注意しているようで、からかっていた。

 夜はそれを感じ取ったが、言い返さない。目を閉じてゆっくり息を吸い、しっかり吐き出した。

 再び目を開いたときには、強い瞳が戻っていた。紫翠は満足したように微笑む。

「行っておいで。私の黒猫くん」
「紫翠の猫になった覚えはない」

 そう言って、夜は現世へと向かった。



 それは唐突にやってきた。

 朝起きると、桜子の部屋には見たこともないくらい綺麗な着物が用意されていた。

 桜子はすぐに察した。

「今日が、私の死ぬ日……」

 もう、涙が出てくることはなかった。

 あの日。あの、闇に消えることができそうだったあの夜。そこに、すべての希望を捨てた。

 桜子は布団から出ると、その綺麗な着物に身を包む。真新しい着物は、重たかった。

 支度を終えたことを両親が知ると、特に会話をすることもなく、家を出る。

 街を歩けば、街の人たちは喜んだ。

 鬼に生贄を捧げれば、街の平和は守られる。

 そんなことを信じている人たちにとって、桜子が死んでしまうことは喜ばしいことだった。

 少し前の桜子であれば、涙を堪えながら歩いていただろう。

 だが、なにもかも捨ててきた今、なにかを感じることはなかった。

「……待って」

 桜子の捨てたはずの希望は一人の男が、捨てなかった。

 夜が桜子の手を掴んだことで、桜子は足を止める。手を掴んできたのが夜だとわかると、桜子の目に失われていた光が戻ってきた。

「夜、さん……」
「僕は、君が死ぬなんて絶対に認めない」

 それを聞いて、出ないと思っていた涙が溢れた。死への恐怖も込み上げてきて、その涙は止まらない。

「生贄が泣いた……」
「この街の平和が……」
「おい、あの男何者だ」

 街の者たちが騒ぎ出す。それを聞いて、夜は我慢ならなかった。

「桜子を犠牲にして、なにが平和だ!」

 夜が叫んだことで、あたりは鎮まる。

「……ありがとう、夜さん。でも、いいの。私は、そのために育てられたから」

 桜子は笑っているが、その頬には間違いなく涙が伝っている。

 違う。

 夜は桜子の笑顔が見たかったが、感情を押し殺した笑顔が見たいわけではなかった。

 だけど、桜子に言われてしまえば、夜は否定することができなかった。

「なにかを持ってしまうと、失うのが怖いから……だから、死ぬのが怖いのかもしれないね」
「だったら、死ななくてもいい」

 夜が言うと、桜子は首を横に振った。

「それでもし、この街によくないことが起こったら、私はきっと、後悔するから」

 桜子の意志は強かった。幼いころから言われてきた言葉を、この瞬間だけの言葉で覆すことはできそうにない。

「そうだ、それでいい。桜子は皆のために死ぬ。こんなに幸せなことはないだろう」

 桜子の前を歩いていた男が言った。

 その男は、夜を蹴り飛ばした男だった。

 夜は違う怒りが込み上げてくるが、今はそんなことで喧嘩をしている場合ではない。

「私たちのために死んで」
「あんたが生贄になってくれないと、あたしたちはどうなるんだい」
「はやくしないと、鬼が怒っちまう」

 男の言葉をきっかけに、街が騒がしさを取り戻した。

 もう、夜の声は誰にも届かない。夜は、諦めるしかないと思った。

 手を放せ。

 自分で命令したが、すぐには従えなかった。

「……俺、君の切なそうな横顔が……愛おしかったよ」

 桜子の耳元でそう言うと、夜は涙を堪えて、微笑んで見せた。

 桜子は言葉を返そうとするが、夜の切ない瞳に胸が締め付けられ、声が出ない。

 戸惑う桜子を見つめながら手を放すと、夜はその場を離れた。

 桜子は見えなくなるまで夜の背中を見ていたかったが、周りに急かされたことで、それはかなわなかった。

 最後まで奪われる人生だった。

 だけど、誰にも奪われない、大切な気持ちができた。

 それを胸に、桜子はあの橋の上から川に飛び込んだ――