「やっと彼女と話せたみたいだけど、夜くん……君、そんなに臆病者だったのかい? なにも面白くないじゃないか」

 夜が帰って顔を合わせると、紫翠は一番にそう言った。心底残念そうだ。

「紫翠、あのなあ……何回も言ってるが、帰ってきてまず記憶を見られるとか、嫌なんだけど」
「だって、君の恋の記録が私の今の楽しみなのだよ? それはもう」

 紫翠はそこで一旦言葉を区切り、真剣な表情をした。

「見るしかないだろう」

 夜は大きくため息をつき、外に出た。

 あやかしの街は、当たりが暗くなってから行動を開始する。そんな場所で静かな空間を見つけるのは至難の業であるがゆえに、夜は現世に戻った。

 猫と人の姿をしていれば人間に見えるが、本来の姿をしていれば、夜は誰にも認識されない。

 闇の中に浮かぶ光を頼りに、夜は本来の姿で歩みを進めていく。

 目的の場所は、桜子を見つけたあの橋だった。

 しかしそこには、先客がいた。

 あの日と同じ、消えてしまいそうな横顔をしている、桜子だ。違うことと言えば、川ではなく欠けた月を見上げていることだろう。

 夜は昼間に言われた言葉を思い出し、その場を去ろうとしたが、今は桜子に見えないことを思い出した。

 それでも慎重になりながら、桜子のそばに立つ。

 当然、桜子は夜に気付かない。

 近くで桜子の切ない瞳を見て、夜は胸が締め付けられる。

 こんなにも今すぐ消えそうなのに、自分にできることが一つもないのが、もどかしくて仕方なかった。

「……なんであんなに、俺と関わることを嫌がったんだよ」

 答えが返ってこないことをわかっていても、聞かずにはいられなかった。

 夜の声は、そのまま闇が連れ去り、誰の元にも届けなかった。

「死にたく、ないなあ」

 そして、桜子が声をこぼした。

 闇は、それを消し去ることはできなかった。

 夜は桜子の言葉を、何度も自分の中で繰り返した。だけど、飲み込めなかった。

「もう一度、黒猫ちゃんに会いたいし……夜さんと話してみたい……」

 願望を言いながら、桜子の視線が落ちていく。

「もっといろんなところに行きたいし、おしゃれもしてみたい……もう、なにも奪われたくない……」

 誰もいない場所だからこそこぼした、桜子の本音。

 夜はその願いをかなえてやりたいと思った。

「……鬼の生贄になんて、なりたくない」

 それを最後に、桜子は静かに涙を落とした。

 拭ってやりたい気持ちを押し殺し、夜はあやかしの街に戻る。一人で苦しんでいる桜子の存在が幻だったのではと思ってしまうほどに賑やかな街を、駆け抜けていく。

 夜は、紫翠の部屋を乱暴に開けた。

「いくら君の存在を感じ取れるとはいえ、いきなり扉を開けるのは感心しないね」

 読書中だった紫翠は不服そうに言う。

 しかし夜は黙ったまま、紫翠を見つめる。その強い眼に、紫翠は思考を読んだ。徐々に真剣な表情に変わっていく。

「彼女、鬼の生贄だったのかい。それはそれは」

 紫翠はそれ以上言わなかった。この状況で夜をからかう言葉を吐き出すほど、無神経ではなかったようだ。

「桜子を助けたい」
「……助けてどうする。彼女はあやかしではない。いずれ死ぬ存在だ」

 いつものような、おどけた雰囲気はそこにはなかった。

 二人しかいない空間に、緊張が走る。

「そんなことはわかってる。でも、桜子は、泣いてたんだ。もっと自由になりたいって、一人で泣いたんだ。俺は、その願いをかなえてやりたい」
「彼女に拒絶されたのだろう? どうやってかなえてやるつもりなのかい?」
「俺の恋路の行く末が知りたいんだろ。協力しろ」

 予想外と言うべきか、知っていたと言うべきかもはやわからないが、紫翠は少し驚いた表情を見せ、笑った。

 ようやく、空気が和らぐ。

「私にできるのは、彼女が考えていることや記憶を読み取るだけだよ?」
「十分だ。あとは俺が自分の力でどうにかする」

 夜の真剣な表情は、夜の決意表明のようだった。

「まったく。緊張して彼女に声をかけることができなかった夜くんとは思えないね」

 紫翠は立ち上がり、夜に近付く。その顔は優しい。

「私が協力するからには、いい結果しか期待しないからね?」
「……わかってる」

 その答えが返ってくるまで若干間があり、紫翠は笑って夜のそばを通って行った。