桜子が橋の上に立つのは、もはや習慣と言えた。
嫌なことがあったとき。忘れたいことがあったとき。
この世から、どうしても消えてしまいたくなったとき。
その日もいつものように、橋の上に立っていた。
いつもと違ったのは、猫が寄って来たことだ。
たとえ猫でも、何者かに心配をされたのは、初めてのことだった。
桜子にとって、あのときの黒猫は救世主のようだった。
その黒猫も、あの男に奪われてしまった。
自分に関わってしまったがために。自分のせいで、優しい猫が。
桜子は、もうあの橋の上に立つことが怖かった。
自分の部屋に閉じこもり、ときどき窓から眩しすぎる青空を見る。
限られた時間が酷く重かった。
時の流れはいつだって等しいのに、黒猫に出会う前は速く、出会ってからは遅く感じていた。
次第に、時は桜子から感情を取り上げた。
そんな虚無に包まれた桜子が曇り空を見ていたとき。
「ニャア」
窓の外から黒猫が鳴いた。猫の鳴き声を聞き分けることは難しいが、あのときの猫だと思った。
「猫、ちゃん……?」
しかし桜子は信じられなかった。
あのとき、確かに黒猫は静かに眠ってしまったはずだった。あれは、気のせいだったのか。
そんなことを考えながら、窓の外を見渡す。
茂みから、黒猫が姿を現した。桜子の目に、光が戻る。
「猫ちゃん、少し待っててね」
桜子は部屋を飛び出し、下駄を履いて庭に回る。
しかしそこには黒猫の姿はない。
「猫ちゃん? どこに行ったの?」
桜子は地面に膝をつき、茂みをかき分け、猫を探す。それでも猫の姿を見つけられない。
桜子は泣きそうになる。
「猫ちゃん……」
「猫なら」
桜子のなにかに縋るような声に、誰かが応えた。自分以外の誰かが庭にいると、当然思っていなかったから、桜子は心臓が跳ねた。
声の主を探すべく顔を上げると、塀の向こうに、知らない黒髪の男が立っていた。
桜子は困惑していた。
「……貴方が探している黒猫なら、さっき外に行くのを見かけましたよ」
男は右手で道を指しながら言った。
「そう、ですか……」
困惑と悲壮の混ざった声だった。
猫がいないのなら、庭に用はない。桜子は部屋に戻ろうと立ち上がり、着物に付いた土埃を払う。
「……あの。ときどき窓から空を見てますよね」
そのとき、男は言葉を探しながら話を続けてきた。
桜子の警戒心は消えないどころか、強まる一方だ。
「たまにここから見かけて、その……貴方と、話してみたいな、と」
桜子は答えなかった。無視をして、部屋に入ってしまおうかとさえ思った。
「俺、じゃなくて……僕。僕は、夜といいます。貴方の名前、聞いてもいいですか?」
その必死な様子に、桜子は少しだけ、話してみようかと思った。きっと、悪い人ではないと。
「桜子です」
苗字まで言うか迷ったが、夜がそれを言わなかったこともあり、言わないことにした。
桜子が名乗ると、夜は優しく微笑んだ。その微笑みは見ているだけで心が温まるような気がして、桜子は、黒猫を思い出した。
「あの、僕の顔になにかついてますか?」
「いえ、その……夜さんが、さっきの猫ちゃんみたいに優しいから」
桜子はそう言って、自分が妙なことを言っていることに気付いた。夜も反応に困っているように見える。
「ごめんなさい、私、変なことを……」
家にいる人以外との会話が初めてに等しく、桜子はどう会話を続ければいいのかわからなかった。
「あの黒猫は、貴方にとって……桜子さんにとって、大切な存在なんですね」
「え……」
「少しだけ、あの黒猫を見つけたときの貴方の表情を見かけまして。とても、嬉しそうだったので」
会ったばかりの人に気付かれてしまうほどの変化をしているとは、知らなかった。
それを恥ずかしいと思うと同時に、黒猫の存在をあの人たちに知られてしまったときのことを考えた。
桜子の顔色が明らかに悪くなっていく。
「桜子さん……?」
夜に名を呼ばれ、桜子は夜に背を向けた。
「……今日、私と話したことは、忘れてください。私も、忘れるので」
「それはどうして」
「私は」
夜の言葉に被せるように、桜子は大きな声を出した。
振り向いたときには目に涙を浮かべていて、夜は言葉が出なかった。
「私は、もう二度とあの子があの人に傷付けられるところを見たくないんです。夜さんも、奪われたくない。だから、私とは関わらないで」
桜子の強い拒絶を、夜は受け止めたくなかった。
だけど、その言葉が桜子の本音であることは、数言葉しか交わしていない関係でもわかった。
桜子に背を向けられる。その背中が泣いているような気がしたが、どんな言葉をかければいいのか、まったくわからなかった。
「さよなら」
そして、桜子は家の中に入ってしまった。
夜はただ、立ち尽くすことしかできなかった。
嫌なことがあったとき。忘れたいことがあったとき。
この世から、どうしても消えてしまいたくなったとき。
その日もいつものように、橋の上に立っていた。
いつもと違ったのは、猫が寄って来たことだ。
たとえ猫でも、何者かに心配をされたのは、初めてのことだった。
桜子にとって、あのときの黒猫は救世主のようだった。
その黒猫も、あの男に奪われてしまった。
自分に関わってしまったがために。自分のせいで、優しい猫が。
桜子は、もうあの橋の上に立つことが怖かった。
自分の部屋に閉じこもり、ときどき窓から眩しすぎる青空を見る。
限られた時間が酷く重かった。
時の流れはいつだって等しいのに、黒猫に出会う前は速く、出会ってからは遅く感じていた。
次第に、時は桜子から感情を取り上げた。
そんな虚無に包まれた桜子が曇り空を見ていたとき。
「ニャア」
窓の外から黒猫が鳴いた。猫の鳴き声を聞き分けることは難しいが、あのときの猫だと思った。
「猫、ちゃん……?」
しかし桜子は信じられなかった。
あのとき、確かに黒猫は静かに眠ってしまったはずだった。あれは、気のせいだったのか。
そんなことを考えながら、窓の外を見渡す。
茂みから、黒猫が姿を現した。桜子の目に、光が戻る。
「猫ちゃん、少し待っててね」
桜子は部屋を飛び出し、下駄を履いて庭に回る。
しかしそこには黒猫の姿はない。
「猫ちゃん? どこに行ったの?」
桜子は地面に膝をつき、茂みをかき分け、猫を探す。それでも猫の姿を見つけられない。
桜子は泣きそうになる。
「猫ちゃん……」
「猫なら」
桜子のなにかに縋るような声に、誰かが応えた。自分以外の誰かが庭にいると、当然思っていなかったから、桜子は心臓が跳ねた。
声の主を探すべく顔を上げると、塀の向こうに、知らない黒髪の男が立っていた。
桜子は困惑していた。
「……貴方が探している黒猫なら、さっき外に行くのを見かけましたよ」
男は右手で道を指しながら言った。
「そう、ですか……」
困惑と悲壮の混ざった声だった。
猫がいないのなら、庭に用はない。桜子は部屋に戻ろうと立ち上がり、着物に付いた土埃を払う。
「……あの。ときどき窓から空を見てますよね」
そのとき、男は言葉を探しながら話を続けてきた。
桜子の警戒心は消えないどころか、強まる一方だ。
「たまにここから見かけて、その……貴方と、話してみたいな、と」
桜子は答えなかった。無視をして、部屋に入ってしまおうかとさえ思った。
「俺、じゃなくて……僕。僕は、夜といいます。貴方の名前、聞いてもいいですか?」
その必死な様子に、桜子は少しだけ、話してみようかと思った。きっと、悪い人ではないと。
「桜子です」
苗字まで言うか迷ったが、夜がそれを言わなかったこともあり、言わないことにした。
桜子が名乗ると、夜は優しく微笑んだ。その微笑みは見ているだけで心が温まるような気がして、桜子は、黒猫を思い出した。
「あの、僕の顔になにかついてますか?」
「いえ、その……夜さんが、さっきの猫ちゃんみたいに優しいから」
桜子はそう言って、自分が妙なことを言っていることに気付いた。夜も反応に困っているように見える。
「ごめんなさい、私、変なことを……」
家にいる人以外との会話が初めてに等しく、桜子はどう会話を続ければいいのかわからなかった。
「あの黒猫は、貴方にとって……桜子さんにとって、大切な存在なんですね」
「え……」
「少しだけ、あの黒猫を見つけたときの貴方の表情を見かけまして。とても、嬉しそうだったので」
会ったばかりの人に気付かれてしまうほどの変化をしているとは、知らなかった。
それを恥ずかしいと思うと同時に、黒猫の存在をあの人たちに知られてしまったときのことを考えた。
桜子の顔色が明らかに悪くなっていく。
「桜子さん……?」
夜に名を呼ばれ、桜子は夜に背を向けた。
「……今日、私と話したことは、忘れてください。私も、忘れるので」
「それはどうして」
「私は」
夜の言葉に被せるように、桜子は大きな声を出した。
振り向いたときには目に涙を浮かべていて、夜は言葉が出なかった。
「私は、もう二度とあの子があの人に傷付けられるところを見たくないんです。夜さんも、奪われたくない。だから、私とは関わらないで」
桜子の強い拒絶を、夜は受け止めたくなかった。
だけど、その言葉が桜子の本音であることは、数言葉しか交わしていない関係でもわかった。
桜子に背を向けられる。その背中が泣いているような気がしたが、どんな言葉をかければいいのか、まったくわからなかった。
「さよなら」
そして、桜子は家の中に入ってしまった。
夜はただ、立ち尽くすことしかできなかった。