笑われたことで、黒猫は今の自分の言動を、恥ずかしく思った。

「念じるのだよね、小羽」

 小羽は小さく頷くだけだ。紫翠と目も合わせようとしない。

 小羽の反応の仕方に、紫翠は首をひねった。

「どうした、小羽。いつもと様子が違うね?」

 小羽は小さな頬袋を、空気で膨らませる。

「紫翠……黒猫のことばっかり……つまんない」

 小羽は小走りで去っていくが、部屋の扉の前で立ち止まった。

 振り返ると、黒猫を睨む。

「黒猫……闇みたいに、全部黒い……だから……夜がお似合い」

 黒猫が言い返そうとしたところで、小羽は部屋を出ていった。

「なんなんだ、あのチビ」
「可愛らしいだろう?」

 その言葉に対し、黒猫は理解不能と言わんばかりに顔を顰めた。

「しかし、夜か」

 紫翠は小羽が最後に言った嫌味を反芻し、黒猫の頭の先から見えるところすべてを見つめた。

「たしかに、君にお似合いだ。よし、黒猫くん。君は今日から夜と名乗るといい」
「適当すぎだろ」
「ちゃんと考えてほしいだなんて、君は案外わがままだね」

 黒猫は明らかに不快そうにした。ますます紫翠は笑う。

「私としては、黒猫くんより小羽のほうが可愛いのでね。君のご機嫌を伺うより、彼女の笑顔を見るほうがいいのだよ」
「ああ、そうかよ」

 心底どうでもよさそうに言う。しかし、紫翠はさらに言葉を重ねていく。

「そんな小羽が名を授けてくれたのだよ? 嬉しいと思わないのかい?」

 なんなら、押し付けがましい言葉だった。黒猫は呆れている。

「しつこいな、わかったって」
「それはつまり、夜でいいってことだね?」
「ああ」

 黒猫、夜は反論することは面倒だと学んだようだった。

「さて、名前も決まったことだ。君に役割を与えよう」
「役割?」

 夜はただただ、紫翠が言ったことを繰り返しただけだった。

「おや、何もせずにここに居る気だったのかい? 随分と図々しいね」

 にもかかわらず、そう言われてしまえば、腹も立つ。

「……じゃあ出てってやるよ。別に、ここに居たくて居るわけじゃないし」
「待った、待った」

 夜が立ち上がろうとすると、紫翠は慌てて、笑いながら引き留める。しかしその表情は笑顔で、先の発言が冗談であることを物語っている。

 夜は仕方ないというような顔をして、紫翠と視線を合わせるように座る。

「さっきも言ったけれど、私は君の恋の行く末が気になるのだよ。夜くんは彼女に会いに行って、戻ってきてくれるだけでいい」

 紫翠の言葉を聞いて、夜の顔が少しずつ、それが嫌であることを表していった。

 それを見て、というより、夜が考えていることを読み取って、吹き出した。気が済むまで笑い続け、落ち着いても笑い声が聞こえる。

「夜くんは素直だねえ。そんなに私の頼みが嫌かい?」

 夜は呆れた顔でため息をつく。もはや、抵抗することを諦めたようだ。

「好んで誰かに話したいことでもないだろ」
「そこは安心してくれていい。夜くんが話さなくとも、私にはわかるからね」

 紫翠の得意げな表情は、ある意味、他人を挑発するものだった。

「……性質悪い奴だな」
「これが私の能力なのだけど」

 心外そうに言う。

「はいはい、そうでしたね」

 夜はそれを適当にあしらった。紫翠はますます不服そうにするが、夜は相手にしない。それどころか、そのまま部屋を出て行く。

「夜くん、私が言ったこと忘れないでね」

 紫翠はその背中に呼びかけるが、夜の反応はなかった。

 夜が廊下に出ると、そこには小羽がいた。小羽がその場にいるとは思っていなかったため、夜は大げさに驚く。そんな夜を、小羽は冷たい目で見上げていた。

「いたのか」

 夜の言葉に、小羽はまったく反応しない。先ほどの、夜と紫翠のようだ。

 小羽はただ夜を見上げているだけだから、なんとも言えない空気が流れる。

「……なんだよ」

 小羽の視線と、沈黙に耐えられなくなった夜が言う。

「私たちは不安定な存在だから……誰にも認識されなかったら……簡単に消える……だから……容易に認識できる名が……最も大切とされてる……」

 小羽は淡々と話していく。その様子に、夜は口を挟むことができなかった。

「黒猫は……紫翠に拾われなかったら……今ここにいない」

 夜は大げさだと思った。だが、小羽の真剣な瞳を見ていると、言えなかった。

 それだけでなく、紫翠のように小羽の思考が読み取れるわけでもない上に、小羽の表情が変わらないことで、小羽がなにを言おうとしているのか、いまいち理解できなかった。

「恩知らず」

 小羽の小さな声、言い方、視線。どれも変化はしていないのに、その一言は夜に重く響いた。

 夜が固まってしまっても、小羽は一切気にせず、その場を去っていく。小さな背中は、真っ直ぐに伸びている。夜はただただ見つめていた。

 一人にされて、少しずつ、小羽が本当に言おうとしていたことを想像していく。

 小羽が言いたかったこと。それすなわち。

「……あの胡散臭い奴の願いを聞けってことか」

 そして夜は彼女の、桜子のもとに向かうことを決めた。