「あ……起きた……」

 獣の耳のある黒髪の男が目を開けたことを確認すると、少女は帯をぱたぱたと動かし、静かに読書をしている長髪の男のもとに行った。

 黒猫は状況が呑み込めないまま起き上がり、少女の背中を目で追う。

紫翠(しすい)……黒猫、起きた……」

 少女が鈴のような声で報告すると、長髪の男、紫翠は本を閉じた。

「ありがとう、小羽(こはね)

 紫翠に頭を撫でられ、少女、小羽は小さく鳴いた。

 その光景を、部外者のように黒猫は眺めていた。

「やあ、黒猫くん。意識ははっきりとしているかい?」

 黒猫は言葉で答えるのではなく、強く紫翠を睨み返した。

 そんな黒猫を、紫翠は鼻で笑う。

「身体を起こしているというのに、自分の姿を把握できていないようだね」

 紫翠が言い終わるのとほぼ同時に、小羽は黒猫に手鏡を向けた。

 黒猫は、自分が猫であると思っていたが、獣の耳のある人の姿が映っていることに、目を疑う以外なかった。

「なんだ、これ……」

 初めて出した声にも、違和感しかなかった。

「ぎこちなさはあれども、話せるようだね」

 黒猫が手鏡を自分で持ち、それを凝視している間に、小羽は紫翠の背に隠れた。紫翠越しに、警戒気味に黒猫を見つめる。

「いいかい、黒猫くん」

 紫翠が呼びかけると、黒猫はゆっくりと鏡から視線を離した。

「君は一度死んだ。猫としてね。そして、今の君は人のようだが、人ではない」

 紫翠の話し方に多少の苛立ちを覚えど、口を挟むことはしなかった。黒猫は、一秒でも早く結論が知りたかった。

 紫翠は黒猫を指さす。

「君は、あやかしになったのだよ」
「……は?」

 しかしその結論こそ理解不能で、黒猫は零すように声を発した。

 それに対して、紫翠は腕を組んで、わざとらしく考えるふりをする。

「黒猫くんが混乱するのもわかるのだがね、いかんせん、私たちの存在については説明のしようがない。大人しく受け入れてくれ」

 そう言われても頭が追いつかないようで、黒猫はまだ言葉を返さない。

 黙り続ける黒猫に、紫翠は不満の色を見せる。

「そんなに気に入らないかい? 君が恋した相手と似た容姿を手に入れたというのに」

 黒猫は目を見開いた。静かに視線を落とし、今一度、現在の自分の姿を見つめる。

「……お前は、どうしてそのことを知っている?」
「私はこの世に存在するものの記憶と思考を見ることができるのだよ」

 だからあのとき全てを見たかのようなことを言っていたのか、と思いながら次の質問を考える。

「……俺が今ここにあやかしとしているのは、お前の仕業か?」

『私の使い魔になれるかな?』

 消えゆく意識の中で、そう言われたことをはっきりと覚えていた。

 紫翠は即答せず、言葉を探す。

「君の質問の答えを言うならば、私ではない。ただ、君の求める答えは、わからない、だ。黒猫くんがどうやってあやかしになったのは、誰にもわからないのだよ」

 わからないと言われてしまっては、問い詰めることもできない。

 黒猫は腑に落ちなかったが、受け入れるしかなかった。

「さて、黒猫くん。君に名を授けよう」

 紫翠は空気を変えようと、明るく言う。

 名を持ったことのない黒猫は、表情こそ変わらないが、内心そわそわしていた。

 しかし紫翠は次の言葉を言わない。それどころか、黒猫から視線を逸らし、背中に隠れる小羽を見た。

「小羽はどんな名前がいいと思うかい?」
「アンタが授けるんじゃないのかよ」

 思わず口から出た、というような感じだった。黒猫も、自分で言ったことに驚いている。

 それを見て、紫翠は笑った。黒猫は面白くないと、目で訴える。

「いやあ、悪いね。私は君自身には興味がないのだよ」
「笑って言うことか?」

 一度言ってしまえば、次は抵抗がなかった。

「事実を霞に隠したって仕方ないだろう」
「じゃあ、なんで使い魔になれなんて言ったんだ」

 紫翠は片側の口角を上げる。

「猫だというのに、人間に恋をした君の末路が知りたくなった」
「死んだけど」
「だが彼女は生きている。君が逢いに行こうと思えばできるのだよ」
「この姿で?」

 黒猫は自分の頭にある獣の耳を指さした。

「まあそれが本来の姿だが……小羽」

 紫翠に名を呼ばれ、小羽は怪訝そうにした。

「未熟な黒猫くんのためだ。頼むよ」

 紫翠がそう言って頭を撫でると、小羽は嬉しそうな、だけどまだ嫌そうな顔をして紫翠の背後から出た。

 そして黒猫を軽く睨んでから、小羽は姿を変えた。それは、雀だった。

 唐突な事態に、黒猫の口は開いたままだ。

 小羽は黒猫を挑発するように目の前を飛びまわり、紫翠の元に戻った。紫翠が手のひらをかざすと、その上に止まる。

「小羽はあやかしになる前、雀だったのだよ。あやかしになった今、こうして姿を変えることができる」

 紫翠がそこまで言うと、小羽は少女の姿に戻った。

「おそらく、君はその獣の耳を消してまさしく人間のようになることも、生きていたころの猫の姿になることもできるだろう」
「どうやってやるんだ?」

 あまりに必死に見えて、紫翠はくすくすと笑う。