そして、時は来た。

 わたしが端材で練習したミシンの痕跡を点検し終えた秋山さんは、
「じゃあ、いよいよ仕立てに入れるわね」
と微笑んだのだ。

 秋もぐっと深まった頃のことだった。

 祖母が肩まで丁寧に縫ったグレーのベストに、ついにわたしは針を通し始めた。脇、裾、胴へと。

 テキストで学び、秋山さんから助言をいただきながら走らせるミシンの音は、すべての人たちの声を乗せ、コーラスのように店の中に響いた。

 祖母から母へ、母からわたしへ。
 祖父が亡くなり、イトとして生まれ変わり。

 抑えてきた「自分」を表現しようとしたお嫁さんのエネルギー。
 暗い自分を変えようと服屋を探した高校生の勇気。
 支配してくる彼氏の手から逃れ出てきた女性の強い足取り。
 毒親から離れ、自分を愛する決意をした双子の妹の新たな始まり。
 昔の自分の純真さを取り戻した秋山さんの柔軟さ。
 周囲の匂いに交わらないことを決めた女子高生の素直さ。
 本当の自分の顔を取り戻した双子の姉が見つけた妹との絆。

 今までわたしと、このお店に関わってきた人たちすべての声が、美しいハーモニーとなってミシンの中から聞こえてくるようだった。
 それは自ら自分の身に纏わり付き絡みついた糸を解き、福を感じ取った人たちが奏でられる、幸せのメロディー。

 わたしたちには直接糸を取り払う手を差し出すことなどできない。ましてや、糸を断ち切ることなど。
 ただ寄り添い、話を聞き、心の奥底深くに共感することだけ。

 すべての人に、幸福を授けられますように――祈りを込めて、接客するだけだ。

 福を与えられる店の礎を築いた、イト――衣人と絹子の絆を、わたしが再び結びあげる。
 そんな気持ちでミシンを走らせ続けた。

 もちろん不慣れな作業だ。
 途中でミシンが止まる瞬間も多々あった。
 でも隣には秋山さんがいてくれた。
 さらに店の奥にはイトが待っていてくれた。
 だからこそ、わたしは途中で投げることなくミシンを走らせ続けられる。

 祖母・絹子が縫い終えていた箇所と齟齬がないように、丁寧に。
 きっと衣人のことを思い、どの箇所もないがしろにしたくなかったに違いない。
 多忙な日々の中、いい加減に仕上げることをよしとせず、直接衣人を採寸し、時間を掛けて型紙から作ったが故に、自分の手で完成させることはかなわなかったのだ。縫い目を見つめるうちにその思いは強くなっていった。

 仕上げのボタンを取り付けながら、祖母に語りかける。


――安心してください。おばあちゃんの思いは、わたしが受け継ぎます。




 完成した朝は、よく冷え込む、雲一つない秋晴れだった。



 イトは、本来いるべき世界へと旅立っていた。