『そんな生き方を息子の嫁に強いてしまうのは、つらいわね』
諭すように、柔らかく語りかける過去の私。
嫁入り前の、純粋無垢な私。
『嫁は私とは別人格。そんなこと最初からうすうすわかってたじゃない。自分と同じ生き方を、強制しちゃだめね』
――ごもっともね。
そう、私は本当は気がついていたわ。わからないほど馬鹿じゃない。
長男のお嫁は、争いごとが嫌いな優しい子。だから私に合わせるふりをしてくれていただけ。
決して私と同じ気持ち、思い、価値観ではあり得ない。
私とは切り離された別人格なのに、同じ生き方を強いてしまった。
そしてそれは、私の義理の親が私に強いてきたことでもあった。
それをはね除けたくて、でもはね除けられなくてもがき苦しんだ新婚当初。
あの痛みを忘れたかのような顔をしている老婆の私。
――こんな連鎖は終わらせなくてはね。
『彼女には私の分まで羽ばたいてもらわなくちゃ』
明るく励ますように微笑んだ昔の私。そこで鏡はもと通り、老婆の私を映し出す普通の鏡へと戻る。
そう、彼女は紛れもなく、私の”ここ”にいるわ――私は胸に手を置いた。胸が震えている。
あれは、私の本音よ。いつだって胸のどこかで思っていたけれど、生活の雑事によって覆い隠してきた本心。
本心が、像となってこの清められた鏡に結ばれたのだ。
涙が頬を濡らした。
いやな姑になるつもりなんてこれっぽっちもなかったのに、いつのまにか人様の気持ちを思いやるだけの器もなくなっていた。
年相応の器がなくてはね。
涙を拭き、試着室を出ると、目が合った。
結衣さんとではない。
碧い二つの目。白猫の目。
あ、と声をかけようとすると、白猫は警戒したかのように店を飛び出していった。
気を取り直して、私は試着した上下セットを結衣さんに手渡す。
「これ、買うわ。ちょっと袖が長いけれど、お直しは結構よ。自分で直せるもの」
「ありがとうございます。さすがですね」
結衣さんはにこりと微笑む。笑った目元が絹子さんによく似ていた。
「いいお店作りをしているわね」
レジ打ちをする結衣さんに賛辞を送る。
紛れもない本音だ。
結衣さんはぺこっと頭を下げて、こう答えた。
「お客様がここに来られる目的が服ではないのと同様に、私たちがお売りするのは、服ではなく、福なんです」
そのせりふを聞いて、背筋が伸びた。
ああ、紛れもない、絹子さんのよく言っていたことばだわ。
絹子さんは生前、いつでも私の悩みに寄り添ってくれていた。
旦那の悪口、舅や姑の愚痴、子育ての不安、近所づきあいの難しさ――。
全てを笑顔で包み込んでくれていた。
形は違えど、今日ここで絹子さんに再会できたような気がする。
――天国から今もこのお店を見守っているのね、絹子さん。
何を差し置いても、その回路を作り出したのは、結衣さんの力だ。
彼女も絹子さんに負けないくらい、人を温かく包み込む力がある。
支払いを終えて、店先まで見送る結衣さんにひとつ尋ねる。
「さっきの猫は何者? ずっと私を見ている割には近づいてこないの」
結衣さんはうっと答えに詰まる。
「一応、招き猫なんです……一応。気まぐれですぐにどこかへ行ってしまいますが」
「なんだかあの目に見覚えがあるのよね」
「そうなんですか……」
「ごめんなさい、こんなこと言われても困るわよね」
車のエンジンをかけ、ハンドルを握る。
深々とお辞儀する結衣さんに手を振り、山道を、さらに山奥へと向けてアクセルを踏む。
帰ったら嫁に伝えよう。
あなたには、あなたの人生があることを。
今からでも遅くはない。
嫁を縛ってきた糸を、裁ち切りばさみで私が断ち切って、高い空へ羽ばたかせてやるのだ。
(5着目:完)
諭すように、柔らかく語りかける過去の私。
嫁入り前の、純粋無垢な私。
『嫁は私とは別人格。そんなこと最初からうすうすわかってたじゃない。自分と同じ生き方を、強制しちゃだめね』
――ごもっともね。
そう、私は本当は気がついていたわ。わからないほど馬鹿じゃない。
長男のお嫁は、争いごとが嫌いな優しい子。だから私に合わせるふりをしてくれていただけ。
決して私と同じ気持ち、思い、価値観ではあり得ない。
私とは切り離された別人格なのに、同じ生き方を強いてしまった。
そしてそれは、私の義理の親が私に強いてきたことでもあった。
それをはね除けたくて、でもはね除けられなくてもがき苦しんだ新婚当初。
あの痛みを忘れたかのような顔をしている老婆の私。
――こんな連鎖は終わらせなくてはね。
『彼女には私の分まで羽ばたいてもらわなくちゃ』
明るく励ますように微笑んだ昔の私。そこで鏡はもと通り、老婆の私を映し出す普通の鏡へと戻る。
そう、彼女は紛れもなく、私の”ここ”にいるわ――私は胸に手を置いた。胸が震えている。
あれは、私の本音よ。いつだって胸のどこかで思っていたけれど、生活の雑事によって覆い隠してきた本心。
本心が、像となってこの清められた鏡に結ばれたのだ。
涙が頬を濡らした。
いやな姑になるつもりなんてこれっぽっちもなかったのに、いつのまにか人様の気持ちを思いやるだけの器もなくなっていた。
年相応の器がなくてはね。
涙を拭き、試着室を出ると、目が合った。
結衣さんとではない。
碧い二つの目。白猫の目。
あ、と声をかけようとすると、白猫は警戒したかのように店を飛び出していった。
気を取り直して、私は試着した上下セットを結衣さんに手渡す。
「これ、買うわ。ちょっと袖が長いけれど、お直しは結構よ。自分で直せるもの」
「ありがとうございます。さすがですね」
結衣さんはにこりと微笑む。笑った目元が絹子さんによく似ていた。
「いいお店作りをしているわね」
レジ打ちをする結衣さんに賛辞を送る。
紛れもない本音だ。
結衣さんはぺこっと頭を下げて、こう答えた。
「お客様がここに来られる目的が服ではないのと同様に、私たちがお売りするのは、服ではなく、福なんです」
そのせりふを聞いて、背筋が伸びた。
ああ、紛れもない、絹子さんのよく言っていたことばだわ。
絹子さんは生前、いつでも私の悩みに寄り添ってくれていた。
旦那の悪口、舅や姑の愚痴、子育ての不安、近所づきあいの難しさ――。
全てを笑顔で包み込んでくれていた。
形は違えど、今日ここで絹子さんに再会できたような気がする。
――天国から今もこのお店を見守っているのね、絹子さん。
何を差し置いても、その回路を作り出したのは、結衣さんの力だ。
彼女も絹子さんに負けないくらい、人を温かく包み込む力がある。
支払いを終えて、店先まで見送る結衣さんにひとつ尋ねる。
「さっきの猫は何者? ずっと私を見ている割には近づいてこないの」
結衣さんはうっと答えに詰まる。
「一応、招き猫なんです……一応。気まぐれですぐにどこかへ行ってしまいますが」
「なんだかあの目に見覚えがあるのよね」
「そうなんですか……」
「ごめんなさい、こんなこと言われても困るわよね」
車のエンジンをかけ、ハンドルを握る。
深々とお辞儀する結衣さんに手を振り、山道を、さらに山奥へと向けてアクセルを踏む。
帰ったら嫁に伝えよう。
あなたには、あなたの人生があることを。
今からでも遅くはない。
嫁を縛ってきた糸を、裁ち切りばさみで私が断ち切って、高い空へ羽ばたかせてやるのだ。
(5着目:完)