世界の果てまで追いかけて

 小学校四年生、春。新学年に上がると同時に、陸と萌は少年野球チームの正式な部員になった。四年生になるまで試合には出られない約束だったので、萌にとっては待ち望んだ日だった。
 春休みの練習は、まだ四年生の新部員が入って来る前だったので、五、六年生と陸と萌だけで行った。
 もうすぐ新学期を迎えるその日、萌は朝から体調が良くなかった。朝トイレに行ったら、パンツに少し血のようなものがついていてびっくりしたし、お腹も少し痛い。看護師の母に相談しようかと思ったが、夜勤明けでぐっすり眠っていたので、萌はそのまま野球の練習に向かった。

「みんなー、坂井くんのお母さんがいちご飴を作ってきてくれたよ」

 坂井晴人は六年生のピッチャーだ。これから陸のライバルになる人でもある。他のメンバーはみんな萌達に優しくしてくれていたが、彼だけは違った。キャッチャーなのに陸の球しか捕らない萌のことが気に入らないようで、ミスをするとヤジを飛ばされたし、すれ違うときに足を引っ掛けられたりもした。
 萌はあまり晴人のことが好きではなかったけれど、晴人のお母さんのことは好きだった。なぜなら週に一度、こうしてみんなに差し入れを持ってきてくれるのだ。

「わあ! きれい!」

 一つ一つ丁寧にラッピングされたいちご飴が配られて、萌は目を輝かせる。

「いちご飴ってなあに?」
「お祭りでりんご飴って売ってるの、見たことない?」
「ある! りんごが大きくて食べきれないんだよねぇ」
「そうそう。りんごの代わりにいちごを使って作ったのがいちご飴だよ」

 へぇ、と相槌を打ちながら、太陽の光にかざしてみる。確かに真っ赤ないちごの周りは、きらきらと輝く透明な飴でコーティングされていた。
 いただきます、と晴人のお母さんに声をかけて、一口。優しい甘みが口いっぱいに広がって、幸せな気分になる。萌は家でお菓子を食べることがないので、週に一度の差し入れは萌にとって贅沢な時間だった。
 いちご飴をみんなが食べ終わる頃、監督がそろそろ練習再開するよ、と声をかける。残った飴を口の中で転がして、はあい! と元気に返事をして立ち上がった。そのときだった。

「萌、それ血じゃない?」
「えっ?」

 五年生でサードを守っている先輩が、萌の肩を叩く。首を傾げて先輩の目線を追うと、白い練習着のお尻のあたりが真っ赤に染まっていた。
 驚いて息を飲む。
 お尻から血が出たの? 何で?
 混乱する萌に、陸が大丈夫? と声をかけてくれるが、頭がうまく働かない。

「あれ、セーリってやつじゃない?」
「うわ、すげぇ、やっぱり萌は成長早いんだなー!」
「そりゃあそうだろ、おっぱいも大きいし」
「じゃあ萌とエッチしたら子ども出来るの?」

 晴人を中心に、六年生達がざわつくのが分かる。
 何を言われているのかほとんど分からなかったけれど、胸の大きさを指摘されたことだけは理解出来た。頰が熱くなって、胸を隠すようにパーカーのファスナーを上げる。
 確かに萌は成長が早い方だった。同じ学年の他の子に比べて背も高かったし、胸だって膨らんできた。野球をするのに邪魔だから、と母が買ってきてくれたスポーツブラを着けていたけれど、最近ではおさまらなくなってきたくらいだ。

 でも、なんで。どうしてそんなことを言うの。私が、女の子だから?

 そこまで考えて、萌はその場にしゃがみこんだ。パーカーの裾を引っ張ってお尻を隠そうとするけれど、長さが足りない。
 俯いて涙を我慢していると、ふいに肩にぱさ、と何かをかけられた。陸のパーカーだった。四年生になったら絶対身長が伸びるから! と言い張って、陸はサイズの大きなものを買ったのだ。
 血で汚れたお尻が隠れたことに安堵して、萌はそっと顔を上げる。それは一瞬の出来事だった。
 萌の隣にいたはずの陸が、晴人に掴みかかったのだ。

「陸ちゃん!?」

 悲鳴のように叫び声を上げると、ベンチの方で話をしていた監督と晴人の母が騒ぎに気づき、慌てて駆け寄ってくる。

「陸くん! 何してるの!」

 監督が力強く陸と晴人を引き離す。それでも陸は晴人を殴ろうと前のめりになっていた。晴人の母が「何が起きたの!?」と周りに問いかけるが、誰も答えようとしない。答えられる訳がない。意地悪なことを言ったのは、晴人の方なのだから。
 萌は立ち上がり、陸のパーカーを腰に巻き付ける。それから陸の元に走り、陸ちゃんやめて! と陸の手を掴んだ。

「だってコイツ、萌のこと……!」
「なんだよ陸! やんのかよ!」
「やめて! やめてってば!」

 まだ殴りかかろうとする陸に抱きついて、萌は必死に引き止める。殴ったらダメだ。陸の左手は、そんなことに使っていい手ではない。
 ぎゅっと陸の身体を抱きしめて、力いっぱい後ろに引っ張る。陸の方がまだ身体は小さいので、少しだけ引き離すことが出来た。
 監督がいがみ合う二人の間に割り入って、いい加減にしろ! と怒鳴り声を上げた。そこでようやく晴人と陸の動きが止まる。

「何があった? 説明して」
「陸がいきなり殴りかかってきたんだよ!」
「お前が萌のこと、変な目で見てるからだろ!」
「なに、何の話? どういうことなの?」

 晴人の母が混乱した様子で、自分の息子と陸を見比べる。それから困ったような顔で萌の方を見るので、萌は仕方なく口を開いた。

「あの……私、……その」

 何と説明すればいいのだろう。だって萌はまだ状況が分かっていない。どうしてお尻から血が出たのか。晴人達はそれが何か知っていて、からかってきた。動けない萌に代わって、陸が怒ってくれたのだ。

「セーリだよ。萌がセーリで血が出て、それをちょっとからかったら陸がキレたの」

 晴人がムスッとした表情で何かを説明する。その言葉に一番に反応したのは、晴人の母だった。ばちん、と大きな音がグラウンドに響き、萌達はみんな息を飲む。晴人の母が、自分の息子の頰を平手打ちしたのだ。誰が見ても親バカな晴人の母。その人が、まさか自分の子どもを叩くなんて、誰も予想出来なかったことだ。

「アンタはやっていいことと悪いことの違いも分からないの!?」

 晴人を怒鳴りつけ、くるりと向きを変えた晴人の母は、萌に手を差し出した。

「萌ちゃん、うちのバカ息子がごめんね。ちょっとおばさんと一緒に来てくれる?」

 そのまま萌を連れて校舎の方へ向かい、女子トイレに入った。そして鞄の中から白いティッシュのようなものを取り出すと、それを萌に差し出した。

「萌ちゃん、生理は初めて?」
「セイリってなに?」
「女の子はね、大人になると身体が赤ちゃんを作る準備を始めるの」

 晴人の母は、生理について少しだけ教えてくれた。身体に異常があるわけではないのだと分かり、少しだけホッとする。

「これはナプキン。ごめんね、下着の替えは持ってないから、汚れた下着につけてもらうことになっちゃうけど」

 そう言いながら、生理用品の使い方も説明してくれる。萌はよく分からないままナプキンを下着につけてみた。下着は真っ赤に染まっていて、ぞっとする。汚れてしまった下着とズボンはどうしようもないので、陸が貸してくれたパーカーを再び腰に巻き直し、トイレを出る。

「萌ちゃん、今日は早退しようか。おばさんがおうちまで送ってあげるから」
「えっ、いいよ! 私一人で帰れるよ」
「いいのよ、それに早く帰って着替えたいでしょ?」

 その通りだった。血で濡れた下着やズボンを身につけているというだけで落ち着かない。気持ちが悪いし、何よりまた誰かに見られて笑われてしまうことを考えるとこわくなった。

「じゃあおばさんは監督に説明してくるから、ちょっと待っててね」

 生徒玄関に取り残された萌は、ぼんやりとその場に立っていた。なんだかどっと疲れた気がする。
 晴人の母が戻ってくるまで、数分程度のことだっただろう。それでも萌には数時間のことのように感じられた。

「お待たせ萌ちゃん、帰ろうか」

 手を引かれ、シルバーの車に乗せられる。シートが血で汚れてしまうかもしれない、と心配する萌に、晴人の母はタオルを敷いてくれた。

「ほら、これなら汚れてもすぐに洗えるでしょ? だから気にせず座って大丈夫よ」
「ありがとうございます……」

 助手席に乗り込み、持ってきてもらった萌の荷物をぎゅっと抱え込む。晴人の母は、後部座席から見覚えのあるきらきらした飴を取り出して、萌にくれた。

「いちご飴……」
「これはちょっと失敗しちゃったやつなんだけどね。萌ちゃんにあげる」

 練習中に食べたものよりも少し分厚く飴がコーティングされている。それでも口に含むとやっぱり優しい甘みが広がって、萌はたまらず俯いた。なぜか目の奥が熱くなる。
 なんで、さっきは我慢できたのに。

「初めての生理ってびっくりしちゃうよね。お腹は痛くない?」
「…………うん」

 ぽつりと小さな声で返事をした萌に、晴人の母が優しい声をかけてくれる。

「うちのバカ息子、萌ちゃんに気があるみたいね。だからってからかったりしていいわけじゃないのに。本当にごめんね」

 赤信号で車が停まる。大きな手に頭を撫でられて、涙が込み上げてくる。慌てて涙を拭ったけれど、一度溢れ出したそれは止まることなく、ぽろぽろと頰を流れていく。
 静かに車が発進して、萌の家に辿り着くまで、晴人の母は謝り続けた。大丈夫です、と言えたらよかったのに、胸が苦しくて言葉は出てこなかった。

 萌の母には、晴人の母が事情を説明してくれた。萌に生理がきたこと、服が血で汚れてしまったこと、そのことで自分の息子を含む同じチームの男の子達にからかわれてしまったこと、陸が庇おうとして殴りかかったこと、監督がそれを止めてくれたこと。
 話を聞きながら、萌はずっと俯いていた。泣き腫らした目を見られたくなかったし、何より恥ずかしかった。

「萌、辛かったね。お風呂に入っておいで」

 晴人の母を見送った後、萌の母が優しく背中を押した。お風呂場で汗と一緒に血も洗い流すと、母が新しい下着とナプキンを用意してくれていた。
 看護師の母は、生理についてももちろん詳しくて、月経がどういうものなのか丁寧に教えてくれた。全ての説明を聞き終えた後、二人で新しい下着を買いに行った。生理用の下着というのも存在するらしく、これと生理用品はいつもポーチに入れて持ち歩こうね、と母が優しい声で言った。

 帰りの車の中で、買ってもらったばかりのピンクのポーチに下着とナプキンをしまいながら、萌は小さな声で呟く。

「私、野球やめたい」

 それは初めて口にした言葉だった。母が隣で息を飲んだのが分かる。
 自分でやりたいと言って始めたことだ。上級生の中に下級生が入って練習することも、男の子の中で一人だけ女が混ざって野球をやることも、自分で決めたことである。

 それにようやく四年生になって、正式加入したばかりのチーム。今までとは違い、上手くなれば試合にだって出られるかもしれない。
 それでも、晴人達にぶつけられた心無い言葉の数々が、萌の頭にこびりついて離れない。
 同じチームの仲間だと思っていた。それなのに、晴人達は萌のことを『女の子』として認識していたのだ。その事実が、ひどく苦しかった。

「やめてもいいよ、萌。無理して続けることなんかないんだから」
「…………陸ちゃんは、どう思うかな」

 陸のことは、萌が無理矢理誘ったのだ。今でこそ野球を楽しんでいるようだが、バッテリーを組んでいる萌が突然やめると言ったら、陸はどう思うのだろう。

「お母さんには陸くんの気持ちまでは分からないけど」

 陸くんは優しいから、萌の意見を尊重してくれるんじゃないかな、と母が言う。
 車が家に辿り着いた。玄関の前に座り込んでいるのは、見覚えのあるキャップを被った男の子。陸だった。

「陸ちゃん! 大丈夫? 怪我しなかった?」

 萌が駆け寄ると、陸は立ち上がり静かに頷く。

「おれのことなんかより、萌、大丈夫?」

 陸がキャップを少し上げて、萌の目を見上げる。まっすぐな瞳をなぜか今は見つめていられなくて、萌は目を逸らした。

「……陸ちゃんこそ、本当に怪我しなかった?」
「ん、おれは大丈夫」

 陸が優しい手つきで萌の頭を撫でる。泣いたの? と訊かれて、とっさに嘘をついた。

「泣いてないよ」
「でも目が腫れてる」

 萌は強がりだなぁ、とやわらかい声で陸が笑って、また涙が込み上げてくる。でも今度は唇を噛んで堪えることが出来た。

「陸ちゃん、あのね、私……」

 俯いて、小さな声を吐き出す。
 言わなきゃ、野球をやめたいって。あのチームにいたくない、って、言わないと。
 バッテリーである陸には、一番に言わなければいけないことだ。それでもなかなか言葉に出来なかったのは、陸に嫌われるのがこわかったからだろう。
 何も言えないまま立ち尽くす萌に、陸が声をかける。

「…………野球、やめる?」
「!」
「あんなこと言われたら、やめたくなるよね」

 晴人の言葉を思い出して、耳が熱くなる。アイツらのせいで、萌がやめることになるのは悔しいけど、と陸が言葉を付け足す。

「でも萌が苦しい思いをする方が、もっと嫌だ」
「…………陸ちゃん」
「おれのことは気にしなくていいよ。萌は自分のことだけ考えて決めて」

 自分のことだけを考えるなら、やめたい。だけど残された陸はどうなる? ずっと一緒に頑張ってきたのに。陸を野球の道に引きずり込んだのは萌なのに。

「陸ちゃん、私……野球、やめたい」

 振り絞った言葉は震えていた。陸の反応がこわい。自分勝手でわがままな萌の言葉を、陸はどう受け止めるのか。
 しばらくの沈黙の後、陸は口を開いた。それはいつもの優しい声だった。

「おれは、野球、続けるよ」
「…………えっ?」

 てっきり萌が野球をやめるなら、陸もやめると言い出すと思っていた。これまで積み上げてきた努力も経験も全て捨てて、やめてしまう、と。
 でも違っていた。陸の目はどこまでもまっすぐに、萌を見つめていた。

「約束したよね。おれは、一番のピッチャーになるって」
「陸ちゃん……」
「萌が信じてくれるなら、やめない。だから、信じて」

 ぎゅっと握られた手に、萌は目の奥が熱くなるのを感じた。
 萌がいないと何も出来なかった小さな男の子は、いつの間にか成長して、萌がいなくても一人で歩けるようになっていた。
 昔に比べてずっと大きくなった陸の手。マメだらけでゴツゴツしたその手を握り返し、必死に涙を堪える。

「……信じる。信じるよ、陸ちゃん」

 陸ちゃんなら、絶対に一番すごいピッチャーになれる。
 萌がそう言って笑うと、陸も眉を下げて笑った。
 目の前に差し出されたいちご飴に、ハッとする。陸が心配そうな顔で萌の顔を見つめていて、萌は慌てて笑顔を作る。

「ごめん、ぼーっとしちゃってた」
「ん、大丈夫? いちご飴でよかった?」
「うん。いちご飴、好きだよ」

 よかった、と優しい笑顔を浮かべ、萌の手にいちご飴の棒を握らせる。それを素直に受け取り、唇に押し当てる。
 いちご飴にいい思い出はない。野球をやめたあの日のことを思い出すから。
 だけど、口に含んだ飴は優しい甘さをしていた。

 陸はりんご飴を食べながら、萌の手を引く。購入したからあげやフライドポテトはビニール袋に入れてもらっていた。まるで萌の手は離さないと決めているかのようなスマートさに、萌はまた頰が熱くなる気がした。
 棒から取れたいちご飴を口の中でころころ転がしながら、萌は陸の隣を歩いた。昔は萌が引っ張っていく方だったのに、今手を引いてくれているのは陸の方だ。

 いつの間にこんなに成長したんだろう。
 横にいる陸を盗み見ると、うっかり目が合ってしまう。ドクン、と心臓が音を立てて、萌は思わず足を止めた。

「萌? どうした? 疲れちゃった?」
「あ、ううん。違うの」

 大丈夫だよ、と萌が笑うのと、空に大きな花火が上がるのはほとんど同時のことだった。

「わ……花火だ」
「そういえば毎年花火も上がってたな」

 早く特等席に行かなくちゃ! と萌が声を上げ、陸の手を引っ張る。花火が始まったことでより混雑し始めた熱気のある通りを、陸を連れてすり抜けていった。人通りの多い道を抜けると、陸を連れて走った。
 辿り着いた先は、家の近所の公園だ。花火が上がっている場所からは少し離れているが、障害物もなく綺麗に花火が見える穴場スポットなのだ。
 公園に着く頃には少し息が上がっていたけれど、隣の陸は息一つ乱していなかった。さすが現役野球部。

「ごめんね、思わず走っちゃった」
「いいよ。萌らしいじゃん」

 昔からよく陸の手を引いて、いろんなところへ連れていったものだ。きっとそのことを言っているのだろう。成長していない自分がなんだか恥ずかしくて、萌は誤魔化すように笑った。

「ジャングルジム、登る?」

 幼い頃は、この公園のジャングルジムの一番上でよく花火を見ていた。てっぺんまで登ると花火が近くに見えて綺麗なのだ。
 萌の問いかけに、陸は少し笑った。

「萌、スカートじゃん。登れないでしょ」
「えー? 登れるよ」

 萌がジャングルジムを登り始めると、陸が慌てて目を逸らす。もちろんそんなことに気がつくはずもなく、萌は一番上まで登り切った。

「陸ちゃんもおいでよ! 花火が近いよ!」
「行くけどさぁ……」

 何やら不満そうな声を上げ、陸がジャングルジムに手をかける。軽々とてっぺんまで登り、萌の隣に座ると、「萌はもうちょっと自分が女の子だっていう自覚を持った方がいいよ」と言った。

「持ってるよ。陸ちゃんと一緒じゃなきゃスカートでこんなところ登ったりしないもん」
「…………俺も一応男だって分かってる?」

 陸が低い声で問いかける。萌は驚いて、花火から目を逸らし、陸の方を見やった。彼はやけに真剣な表情をしていて、また胸の奥が騒がしくなるのを感じる。

 知ってるよ、陸ちゃんが男の人だってことくらい。

 そう思っていても口に出せないのはなぜだろう。その言葉を音にした瞬間に、何かが変わってしまうような、そんな予感がする。
 見つめ合ったまま、数秒の沈黙が流れた。その間にも、空には大きな花が咲いては散って行く。

「萌、大事な話、していい?」

 心臓が大きく音を立てた。公園には二人きり。陸の声は花火の音にかき消されることなく、凛と響く。

「電話では、できなかった話?」
「違うよ、電話では言いたくなかった話」

 訂正されたけれど、その違いは萌にはよく分からない。でもきっと、陸にとっては大きな違いがあるのだろう。

「聞くよ、陸ちゃんの話なら何でも」

 それが愚痴でも、弱音でも、泣き言でも、なんだって。
 萌が笑うと、陸もつられて優しい笑みを浮かべた。

「俺さ、今年負けたんだ。甲子園の決勝で」
「……うん、見たよ」
「俺が打たれたから負けたんだ」

 陸だけのせいではない。たとえ投手が打たれても、攻撃で取り返せばよかったのだから。でも誰も、相手校のピッチャーから点を取ることは出来なかった。
 それでも陸は自分を責めているのだろう。野球においてピッチャーの責任は重大だ。試合に負けたのは陸だけのせいではないけれど、陸がホームランを打たれなければ、負けなかったこともまた事実なのだから。

「萌、俺は来年絶対にピッチャーとしてナンバーワンになる」

 一番のピッチャーになる。それが陸の夢だ。
 ずっと努力し続けてきたことを知っているだけに、その言葉は重く感じられた。

「じゃあ来年こそは、甲子園で優勝だね」
「うん。でもそれじゃあ足りない」
「えっ?」

 陸のまっすぐな目が、花火に向けられる。大きな花火が空に打ち上がり、きらきらと光の余韻を残して散っていく。

「甲子園で優勝しても、誰かに打たれたんじゃ一番とは言えない」
「……陸ちゃん」
「もう誰にも、打たせたりしない」

 心臓が、大きく跳ねた。陸はあまり強い言葉を使うタイプではない。人を傷つけたり、煽ったりすることだってない。
 これは決意だ。自分自身に対して、大きくプレッシャーをかけて。そうまでしてナンバーワンになりたいと、そう思っているのだ。
 陸の覚悟が痛いほど伝わってきて、萌は黙って頷いた。

「それからもう一つ、夢があるんだ」

 ピッチャーで一番になる。それ以外の夢は聞いたことがなかったので、萌は首を傾げる。花火を見ていた陸が、ふいに萌の方を向く。吸い込まれそうなほど澄んだ瞳から、目が離せなかった。

「好きだよ。萌のことが、ずっと前から」
「…………えっ」
「萌と結婚して、幸せな家庭を築くのが俺のもう一つの夢」

 夜なのに、世界が明るく見えた気がした。公園の奥の雑木林も、地面も、全てがきらきらして見える。
 心臓が早鐘を打って落ち着かない。全身の体温が上がった気さえする。心がふわふわと宙に浮いている。どうしていいか分からない。それでも陸の目をじっと見つめていた。

「いつも萌は俺の手を引いて、新しい世界を見せてくれたよね」

 野球だって、萌がいなければ始めていなかった、と陸が言う。

「泣き虫で臆病な俺の手を引っ張って、大丈夫だよ、って言ってくれた。いつも一生懸命で、まっすぐで、負けず嫌いで、強がりで。そういうところ、全部ひっくるめて好き」

 何て答えていいのか分からない。頰がとにかく熱くて、心臓が爆発してしまいそうだ。

「悲しいことがあったときも、辛いことがあったときも、萌は絶対に誰かの前で泣かないんだ。いつも隠れて一人で泣いて、みんなの前では大丈夫だよ、って笑う。それで、自分が辛いときでも真っ先に人の心配をするんだ」
「…………」
「そんな萌だから、俺が守ってあげたいって思うんだよ。俺の前では強がらなくていいよ、泣いても大丈夫だからって」

 ジャングルジムをぎゅっと握る萌の手に、そっと陸が手を重ねる。

「萌のことが好き。俺と、結婚してください」

 空に大きな花火が打ち上がった。だけど花火なんて見ている余裕はなくて、目の前の陸から目が離せない。
 全身が熱い。このまま溶けてしまいそうなくらい。
 何も言えない萌に、陸はいつもの優しい笑顔を向ける。鼓動が、呼吸が、全部聞こえてしまいそうだ。
 震える唇をやっと開いたときには、数十秒経っていたけれど、陸は静かに萌のことを待っていてくれた。

「わた、私……」
「うん」
「プロポーズされたの、初めて……」
「ふはっ! そこなの?」

 もっと違う感想あるでしょ、と陸が笑う。それからひとしきり笑った後、萌の顔をぐいと覗き込んでみせた。

「答えはさ、今じゃなくていいから」

 まだ十八歳になってないから法律上結婚出来ないし、とさらりと言ってのける陸は、本当にあの泣き虫だった彼なのだろうか。
 別人みたいだ。知らない男の人になってしまったように錯覚するけれど、少し眉を下げて笑う顔は幼い頃の面影がある。
 この人は、間違いなく速水陸だ。成長して、男の子から男の人へと変わった陸なのだ。

「ゆっくりでいいよ。返事は卒業まで待つから」
「卒業まで?」
「うん。待つのは得意なんだ」

 陸の誕生日は三月。結婚出来るようになるのは、卒業とほぼ同時。答えを出すまで約一年半の猶予がある。
 いつの間にか、花火は終わっていた。陸がすとんと地面に降り立って、萌を見上げる。
 萌も足元に気をつけながらジャングルジムを降りると、陸がさらりと萌の手を握った。

「帰ろうか」

 いつもと変わらないやわらかな声に、今はなぜかドキドキしてしまう。好きだと言われて、結婚したいとまで言ってくれた。
 世界がきらきらして見えるのは、足元がふわふわしているような気がするのは、気のせい?
 家に向かって二人でゆっくり歩いていると、くらりと視界が揺れた。

「萌?」

 隣にいるはずの陸の声が、やけに遠くに聞こえる。その声を最後に、萌の意識はぷつりと途切れた。
 次に萌が目を覚ましたとき、視界に広がるのは見覚えのある天井だった。頭ががんがんと痛み、なぜか目の奥がちかちかする。うう、と小さく声を上げて頭を押さえると、二つの声が飛んできた。

「萌、大丈夫?」
「雨宮大丈夫か!?」

 眩しいのを堪えて周りを見回すと、そこは自分の部屋で、萌はベッドで寝ていたようだ。

「……陸ちゃんに矢吹くん? あれ……えっ? なんで?」

 部屋にはなぜか、陸と駿介。状況がさっぱり理解出来なくて、萌は混乱する頭でまばたきを繰り返した。

「軽い熱中症だって。今おばさん呼んでくるから」

 陸がやわらかい声でそう言って、萌の髪を撫でる。その瞬間、告白とプロポーズの記憶が一気によみがえり、脳みそが沸騰しそうになる。ぼん、と効果音のつきそうなほど、勢いよく真っ赤に染まったであろう頰を見て、陸が楽しそうに笑った。そのまま萌の部屋を出て階段を降りていく音がする。きっと階下にいる母を呼びに行ったのだろう。

「もしかして昼間から体調悪かった? 気づいてやれなくてごめんな」
「えっ、ううん。というか、矢吹くんはなんでここに……?」

 今日は駿介とは別々に帰ったはずだ。時計を見ると、夜の十時を回っている。なぜこんな時間に駿介が家にいるのだろう。不思議に思って首を傾げていると、彼は袋から新品の上履きを取り出した。

「あっ! もしかして届けてくれたの?」
「そういうこと。そしたらちょうど雨宮がアイツに背負われて帰ってきてさ、心配だからちょっと上がらせてもらって、目が覚めるのを待ってたってわけ」

 わざわざ萌の上履きを買いに行ってくれただけでなく、届けてくれたなんて。
 駿介の優しさに心がじんわり温かくなる。さらに萌のことを心配してこんなに遅い時間まで待ってくれていたとは、彼の心の広さには頭が下がる。

「……矢吹くんはやっぱり優しいね」
「そう? 雨宮にそう見えるなら、そうなのかもね」

 どこか意味深な表現に、萌はふとつい最近聞いた、あの言葉を思い出す。

『俺は好きな人以外に優しくしないって決めてるから』

 こんなのは思い上がりだ。そう思うのに、どうしてか駿介の目を見ることが出来ない。俯いていると、ドアをノックする音がして、陸が萌の母を連れて戻ってきた。

「萌、熱は?」
「えっどうだろう。あるのかな」

 そういえば陸が軽い熱中症だと言っていたことを思い出す。母に渡された体温計ではかると、三十八度ぴったりだった。

「うーん、病院に行くほどではないと思うけど、明日は念のため部活は休みなさいね」
「えっ行くよ。明日には熱も下がると思うし、音楽室は涼しいから大丈夫」

 萌の言葉にたしなめるような声を上げたのは駿介だった。

「あーまーみーや」
「はいっ」
「部活は二日間禁止、家で休んでろ」
「二日も!?」
「部長命令だから」

 普段は部長と呼ばれるのを嫌うくせに、こんなときだけ引き合いに出してくるのはずるいと思う。でもそれが駿介なりの優しさだと知っているので、萌はその言葉に甘えることにした。

「じゃあ……ごめんね。主に矢吹くんに迷惑かけることになっちゃうけど」
「気にすんなって」

 駿介のからっとした笑顔に、ほっと息を吐く。二人のやりとりを眺めていた陸が、駿介の肩を掴んだ。

「そろそろ帰るよ。萌だって休みたいだろうし」
「お前に言われなくても帰るよ」
「…………二人とも、初対面だよね? いつの間に仲良くなったの?」

 幼馴染である陸と、中学、高校の同級生である駿介が、会話をしている。陸は学区外の中学に進学したので、駿介との面識はないはずだ。
 見慣れない組み合わせに違和感を覚えながら萌が問いかけると、陸は不満そうな表情を浮かべ、駿介は思い切り嫌そうな顔をしてみせた。

「仲良くなってないから」
「うん。なりようがないよ」

 何それ、変なの。と萌が呟いた言葉に、吹き出したのは母だった。
 なぜか大笑いをしている母と、気まずそうな表情をしている二人を見比べ、首を傾げる。母はひとしきり笑った後、「これ以上遅くなったら家の人が心配するから二人とも帰りなさい」と言って、陸と駿介の背中を押した。

「あっ、矢吹くん!」
「ん?」
「上履き、ありがとね。それから心配かけちゃってごめんね」

 駿介は何も言わずにひらひらと手を振って部屋を後にした。

「陸ちゃんもありがとう。私のことおんぶして運んでくれたって聞いたんだけど……肩とか痛くない? 大丈夫?」
「そんなにやわな身体作りしてないよ」

 陸はいつだって優しい。きっと重かったはずなのに、そんなことは一言も口にしない。

「そっか……。陸ちゃん、私今日のこと、絶対忘れないよ」
「うん。覚えてて」

 優しく笑った陸に、また頰が熱くなる。
 彼といるとドキドキしてばかりだ。お大事にね、と言って部屋を去っていた陸が、階段を降りていく音がする。
 階下で陸と駿介が何やら言い合っているのが気になったけれど、さすがに部屋までは聞こえてこなかった。二人を見送るために冷房の効いている部屋の窓を開け、外を見る。ちょうど玄関から陸と駿介が顔を出した。萌の母がお礼を言って玄関の扉を閉めたのを確認し、萌は近所迷惑にならないくらいの声で二人に呼びかける。

「陸ちゃん、矢吹くん!」
「萌、そんなに乗り出したら危ないよ」
「雨宮寝てろよ、体調悪いんだろ」
「うん! でももう一回お礼を言いたかったから!」

 ありがとう! と萌が笑うと、二人が顔を見合わせる。それから萌の方に手を振り、帰って行った。
 萌は窓を閉めて、もう一度ベッドに横になる。
 今日はなんだか素敵な夢を見られそうだ。そんな予感がする。
 冷房の風が、火照った身体には気持ちいい。そっと目を閉じて、萌は静かな眠りにつくのだった。
 これは中学生になったばかりの頃の話だ。
 萌の通う中学校は、学区内にある二つの小学校が合わさるので、知らない子が半分くらいいる。小学生の頃に一番仲の良かった幼馴染の陸は、リトルシニアのチームに入るため、部活動が強制ではない別の中学に進学してしまった。
 萌は人見知りではなかったので、特別友達作りには困らなかったが、それでもクラスメイトの顔と名前を全員分覚えるまでは少し落ち着かなかった。

 小学校四年生の春に野球クラブを辞めてから、萌は音楽クラブに入った。四年生からはクラブ活動が必須だったので、迷っていたところ、音楽クラブの先輩が声をかけてくれたのだ。
 音楽は年齢差も男女差も体格差も関係ない、誰にでも平等にチャンスのあるクラブなんだよ、という言葉に惹かれて入部した。なんとなく選んだトランペットは楽しくて、中学校でも迷わず吹奏楽部を選択した。吹奏楽部はあまり人数が多い方ではなく、すぐにメンバーの顔を覚えられたので、萌にとってのホームになった。

「委員会決め?」
「そう。萌は何がやりたい?」

 別の小学校から進学してきた百合絵は、クラスで一番最初に仲良くなった女の子だ。ちょっと気の強い性格だが、男子とも仲がいい。どうやら他のクラスに彼氏がいるらしく、まだ中学一年生なのにすごいねぇ、と萌は感心してしまった。

「私は放送委員かなぁ」
「えー! 面倒くさそうじゃない? 私は絶対生活委員! バスケ部の先輩が楽だって言ってた!」

 委員会で楽をしたいという人もいるだろう。でもそれをここまで明け透けに話してしまう人もなかなか珍しい。

「小学校でも放送委員だったから」
「放送委員ってあれでしょ? お昼の時間に音楽流したりするやつ」
「うん。あとは体育祭とか文化祭でのアナウンスもやるんだって」

 萌と同じ委員会が良かったけど絶対私には無理だ! と言い張る百合絵に、思わず苦笑する。
 教室の中は委員会決めの話で盛り上がっていた。次のホームルームの時間に委員会を決める、ということをあらかじめ知らされていたからだ。
 雨宮さん、とクラスメイトの男子に話しかけられて、萌は振り向く。

「あ、やまえもんじゃん」
「やまえもん?」
「山下のあだ名」

 百合絵と同じ小学校だった彼は、山下くんというらしい。まだクラス全員の名前は覚えられていないんだよなぁ、と心の中で呟く。そして萌が誤魔化すように笑いながら、どうしたの? と訊くと、山下は真っ赤な顔で口を開いた。

「あのさ! 雨宮さんって何委員になる予定?」

 その声が大きかったので、萌はびっくりして目を丸くする。そして質問の意図が分からずに首を傾げつつ、放送委員がいいかなって思ってるよ、と答えを返す。

「そっか! ありがとう!」

 そのまま自分の席に戻っていく後ろ姿を呆然と見つめていると、百合絵がいたずらな笑みで覗き込んでくる。

「やまえもん、萌に気があるのかもね」
「えっ? まだほぼ初対面なのに?」
「気づいてないの? うちの小学校の子達の間で話題になってるよ。西小の方にかわいい子がいるって」

 ぽすん、と頭に優しくチョップをくらい、萌は目をまたたかせた。
 西小というのは萌の通っていた小学校だ。
 野球をやっていた頃は背も高く、活発なタイプだったので、男の子にモテるということもあまりなかった。でも野球を辞めたあたりでちょうど成長期も終わり、どんどんみんなに背を抜かされていった。するとどうしてか、男子に告白されることも増え始めた。
 見た目で判断されているようで悔しい。今だってそうだ。かわいいって、なにそれ。萌のことを何も知らないくせに、見た目だけを褒められたって何も嬉しくない。
 でもそんなことを言えば空気が悪くなるに決まっている。曖昧に笑って誤魔化しながら、ホームルームが始まるのを待った。

 まずは学級委員を決めて、その後に他の委員会のメンバーを決めることになった。学級委員は男女共に立候補してくれた人がいて、すんなり決まる。女子の学級委員が黒板に各委員会の募集人数を書いていく。放送委員は各クラス一人だけのようだ。
 委員決めは立候補制で、募集人数より立候補者が多い場合はじゃんけんで決めることになる。萌の希望していた放送委員は、他に立候補者がいなかったため、すぐに決まった。
 てっきり先ほど何委員になるのかと訊いてきた山下が、同じ委員会に立候補するものだと思っていた。しかしよく考えてみれば、彼は萌と同じ委員会になりたかっただけで、このクラスから放送委員は一人しかなれないというのなら、一枠を萌と争っても意味がないだろう。

 早々に委員会が決まった萌は、ぼんやりしながら他の委員が決まるのを眺めていた。特に人気があったのは体育委員だ。萌の通っていた西小の方は希望者がいなかったが、もう一つの小学校である中央小の出身者はなぜかこぞって立候補していた。
 壮絶なじゃんけん大会の末、体育委員には男女一人ずつが選ばれた。負けてしまった女の子が泣いているのがひどく印象的だった。
 放送委員の初回の集まりは、その日の六限目となった。
 一年生から三年生まで各クラス一名ずつ選出された放送委員が、一つの教室に集まる。
 萌は一年二組だが、一組と三組の代表の子は二人とも知らない顔だった。一組の女子が、三組の委員の男の子に話しかけているのが聞こえてくる。

「えー! なんで駿介ここにいるの? 絶対体育委員だと思ったのに!」
「…………じゃんけんで負けたんだよ」
「そうなんだ! みんな駿介と同じ委員がやりたくて、体育委員がすごく人気だったんだよ」
「ふぅん」

 萌の心の声と、三組の男の子の声が重なった。この男の子目当てで、体育委員があんなに人気だったのか。
 興味なさそうに相槌を打つ男子を、萌はちらっと横目で盗み見る。
 確かに整った顔立ちをしていた。幼馴染の陸は中性的でかわいらしい顔をしているが、この男子は分類するならかっこいい系だろう。
 今は机に頬杖をついて猫背になっているけれど、背も高そうだ。モテるんだろうな、と考えながら黒板の方に視線を戻すと、三年生の放送委員長が黒板に曜日を書き記していた。

「放送委員は主に給食の時間に音楽を流して放送するのが仕事です。月曜日から金曜日まで、各二人ずつ。ペアは公平にくじ引きで決めます。一年間組み替えはしないので、上級生や下級生と組むことになっても仲良くしてくださいね」

 じゃあくじを回します、と言って小さな箱が三年生から順に回される。萌が取るときには二枚になっていたが、折り畳まれた紙の綺麗な方を手に取った。開いてみると木曜日と書かれている。
 月曜日から金曜日までのペアが決まり、萌が組むことになったのは一年三組の男子だった。同じ学年でペアを組めるのはラッキーだったが、先の話から察するにかなり人気のある人であることは間違いないので、少しだけ心配になる。
 妬まれたりしませんように。そう心の中で呟いて、萌は再びペアになった男子の方に目を向ける。どうやら彼も萌の方を見ていたようで、ばっちり目が合った。

「一年二組の雨宮萌です、よろしくお願いします」
「俺は三組の矢吹駿介。よろしく」

 にっと歯を見せて笑った顔が爽やかで、モテるのも分かる気がするなぁ、と考えながら萌は笑みを返した。
 委員会が決まって初めて迎えた木曜日。給食の準備が終わり次第すぐに放送室へ向かう。まだ初日で、曲のリクエストがあるか分からないので、家から適当に音源も持ってきた。
 放送室のドアを開けると、そこには先に到着したらしい駿介がいた。給食を食べ始めているが、放送はまだ始めていない。

「あれ? 放送まだ流してないよね? やり方分からなかった?」
「いや、やり方はなんとなく分かるけど、原稿読み上げるのが恥ずかしいから雨宮さんにお願いしようと思って」

 悪びれもせずにそう言う駿介に、萌は思わず苦笑した。お昼の放送はとにかく時間に追われているので、放送の電源をオンにして、マイクの音量を上げる。

「みなさんこんにちは。お昼の放送の時間です。今日の放送は一年二組雨宮と、一年三組矢吹が担当します。よろしくお願いします」

 早口にならないように丁寧に読み上げて、マイクの音量を下げる。駿介が隣でパチパチと拍手をするものだから、萌は思わずため息を吐いた。

「原稿読みたくないなら私が全部読むけど、その代わり矢吹くんは音楽流す係ね」
「えっいいの? 絶対怒られると思ったのに」

 怒られると思うなら言うなよ、と心の中で毒づいて、萌は眉を下げる。

「なんでもいいから曲流して。音量はうるさくなりすぎないように気をつけてね」
「はいはい」

 駿介が選んだのは、放送室に無造作に置いてあるクラシックのCDだった。他にも有名な邦楽や洋楽がたくさん置いてあったのに、意外性のあるチョイスだ。
 駿介の隣のパイプ椅子に腰を下ろし、萌も給食を食べ始める。隣の駿介の皿を見ると、すでに半分ほど食べ終えていた。どうやら食べるのが速いらしい。

「雨宮さんってもしかして放送委員に立候補した?」
「えっ? うん。なんで?」
「慣れてる感じだったから、今までもやったことあるのかと思って」

 小学校のときも委員会はずっと放送委員だったことを話すと、駿介は驚いたように目を丸くした。

「へぇー、すごいな。だから読むの上手いんだ」

 その言葉に少しだけ嬉しくなる。コンソメスープを一口飲んで、萌がありがとうと笑うと、駿介は意外な言葉を口にした。

「アナウンサーとか向いてそうじゃない?」
「えっ」
「あ、もしかしてもう他に夢がある?」
「ううん、そうじゃなくて」

 ずっと昔から、夢だった。父親と一緒に見る野球中継。同じ会場で選手の活躍を見て、プレーを実況するアナウンサー。かっこいいと思った。自分もやってみたいと、ずっと思っていたのだ。

「…………笑うかもしれないけど」
「ん?」
「アナウンサーになるのが夢なの」

 親にも幼馴染にも教えたことのない秘密。どうしてまだ会ったばかりの駿介に、こんな話をしているのだろう。言いふらされるかもしれないし、無茶だと笑われるかもしれないのに。
 でも駿介は笑わなかった。真面目な顔でふぅん、と呟くと、かっこいいじゃんと言葉を続けた。

「アナウンサーってニュース読んだり、バラエティ番組の司会したり?」
「うん。でも一番やりたいのはスポーツの実況なの。だから今いろんなスポーツのルールを勉強してるんだ」

 野球はやったことがあるから分かるけれど、他のスポーツには触れてこなかったので、さっぱりルールが分からない。図書館でルールブックを借りて、ノートにまとめ、覚えている最中だ。

「バスケは?」
「この間、簡単に分かるバスケットボールって本を借りて読んだんだけど、結構ルールが複雑だよね」
「一度試合を見にきたら? 見たら分かることもあるかもしれないし」

 駿介が食べかけのパンを頬張りながら口にした言葉に、萌は首を傾げる。
 矢吹くんってバスケ部なの、と訊ねると、途端に楽しそうな表情を浮かべ、身を乗り出す。

「そう、バスケ部! まだ入ったばっかりだけどさ、ミニバスからやってたから結構上手いんだぜ」

 詳しく話を聞くと、どうやらバスケットボール部は完全な実力主義らしく、一年生でレギュラーを取ることもあり得るのだと言う。
 部内でチームを組んで試合を行い、その成績によって夏の大会のレギュラーが決まるようだ。

「三年生に遠慮したりしない。俺は一年だけど、絶対レギュラーを取る」

 強い決意を秘めた目に、どうしてか幼馴染の顔を思い出した。ピッチャーでナンバーワンになると言った彼は、頑張っているのだろうか。
 そんなことを頭の隅でぼんやり考えながら、頑張ってね、と駿介に笑いかけると、爽やかな笑顔が返ってきた。
 バスケットボール部の見学に行くことになったのは、翌日の放課後のことだ。二組にまでわざわざ駿介が迎えに来て、ほら行くぞ、と半ば強引に体育館へ連れていかれる。その間の女子の視線の刺さり具合が、見事に駿介の人気を表しているようだった。

「痛い痛い! 矢吹くん痛いから!」
「そんなに強く引っ張ってねぇよ」
「違うよ! 女子の視線が痛いの!」

 萌の言葉に、駿介が笑みをこぼす。せめて手だけでも離してもらおうとぶんぶん振ってみるが、駿介の手は振り解けない。バスケをやっている人は握力も強いのだろうか。萌がため息を吐くと、何だよと駿介は首を傾げる。

「そんなに引っ張らなくても着いて行くから、手は離してくれない?」
「なに、見られたら困る相手でもいるの」

 彼氏とか好きな人とか、と続けられた言葉に、萌は眉を下げる。
 そういう意味で言うならば、駿介に手を引かれているところを見られても、困る相手はいない。でも駿介のことを好きな女子から反感を買うのはこわい。何と説明するべきか、と迷っていると、いないならいいじゃん。と駿介はまた萌の手を引いて走り出した。

 体育館にたどり着く頃には息が上がっていて、萌はすっかり疲れていた。ちなみに疲れの原因は八割方、駿介と一緒にいることによって集まる女子の視線である。いわゆる気疲れだ。
 駿介が案内してくれたのはバスケットコートを見渡せる体育館の二階だった。萌の他にも見学をしている人が何人かいて、これなら目立たないな、と少しだけホッとする。

 体育館に着くまでに聞いた話によると、今は部内で紅白戦をしている最中で、来週の金曜日までに部員全員が三回ずつ試合に出場し、その成績次第でレギュラーが決まるらしい。駿介が出るのは三戦目らしく、アップが終わった後は萌のところに来て試合の解説をしてくれた。
 バスケットは想像していた以上に複雑なスポーツで、駿介が説明してくれなかったら、きっと見ていてもよく分からなかっただろう。

「何で今のは三点なの?」
「スリーポイントのラインがあるんだよ。そのラインの外側からシュートを打って、入ったから三点」
「へぇ……。あのつり目の人、すごく上手だね」

 スリーポイントラインというのはゴールから離れたところにある。その外側から綺麗なフォームでボールを投げ、リングに当たることなくすとんとゴールに入った。
 黒髪でつり目の男の人は、シューティングガードというポジションらしい。シュートを攻撃の軸にして戦うポジションだ。

「俺もシューターだからさ、一番のライバルは切島先輩なわけ」
「ふーん。先輩って、三年生?」
「そう。バスケではわざとファウルを取ってフリースローをもらうみたいな戦略もあるんだけど、切島先輩はそういうことしないんだよ。相手にどんなにぶつかられても、怒ったりせずにプレイで黙らせる感じ」

 それがフェアでかっこいいんだよなぁ、と駿介が呟く。萌は話を聞きながら、切島を目で追う。
 バスケ初心者の萌にも分かる。切島は別格で上手い人だ、と。まだ全員のプレイを見たわけではないけれど、きっとこのチームのエースは切島なのだろうと思った。

「矢吹くんはあの人のこと尊敬してるんだね」
「まあな。でも、負けるつもりはねぇよ」

 駿介の不敵な笑みと共に、試合終了の笛が鳴る。勝ったのは切島のいるチームだった。

「雨宮さん、俺は次の試合で審判だから一旦降りるけど、よかったら三試合目まで見ていってよ」
「うん。せっかく来たんだし、矢吹くんの試合まで見ていくよ」
「絶対勝つからさ」

 そう言い残して、駿介は一階のコートに降りて行った。ほどなくして試合が始まるが、駿介の解説がないとやはりまだルールは分からない。本で勉強したことはあるが、実戦を見たほうがよほど勉強になる。これが百聞は一見にしかずか、と萌が一人で感心していると、隣から鈴の音のような声が聞こえてきた。

「あの……萌ちゃん、だよね?」
「えっ?」
「二組の、雨宮萌ちゃん」

 萌より少しだけ小さな背の女の子が、こちらを見つめている。丸くて大きな瞳に、艶やかな赤い唇。お人形のように整った顔立ちをした少女が、やわらかな笑みを浮かべて首を傾げた。

「あれ? 違った?」

 制服の赤いリボンが、彼女が一年生であることを示している。同じ学年で萌の知らない女の子、つまり中央小学校出身の子なのだろう。

「えっと……ごめんなさい、もしかして同じクラス?」

 まだクラス全員の顔と名前を覚えられていない萌は、眉を下げて問いかける。一応訊ねてはみたが、おそらく違うクラスの子だと、萌は確信していた。
 こんな美少女が同じ教室にいたならば、話したことがなかったとしてもさすがに覚えているはずだからだ。女の子はふわりとやわらかく笑い、「私は三組なの」と答えた。
 隣のクラスの女の子だった。でもそれならば、どうして萌の名前を知っているのだろう。こてんと首を傾げてみるが、もちろん答えが出るはずもない。

「私、白星美羽です」

 しらほしみう。名前の響きまでかわいい。名は体を表すとはこのことか、と萌が感心していると、美羽は上目遣いで萌のことを覗き込んだ。

「萌ちゃん、有名なんだよ」

 すっごくかわいいって、と付け足された言葉に、萌は頰が熱くなるのを感じた。どう考えても萌より目の前に立つ美羽の方がかわいい。何とも言えぬ恥ずかしさが押し寄せて、頰を手で押さえると、美羽がちょこんと萌の隣に立った。

「試合、一緒に見てもいいかな?」
「あっ、うん、もちろん! ……でも私、ルールとかあんまり分からなくて」
「私なんとなく分かるよ。教えてあげるね」

 とびっきりの笑顔を向けられて、同性なのにきゅんとしてしまう。かわいい、この子は絶対男子にモテるだろう。
 美羽と並び立ちながら、二回戦を観戦する。説明はたどたどしかったが、美羽は意外にもバスケに詳しいようで、丁寧に教えてくれた。
 解説なしで試合を見ても、初心者の萌にはきっと分からなかっただろう。どうして美羽が萌に声をかけてくれたのかは分からないが、萌としては非常にありがたかった。

「あ、三試合目、駿くんが出るみたい」

 駿くんという言葉にとっさに反応出来なかったのは、自分をここに連れてきた男の名前が駿介だということを忘れていたからだ。
 数秒遅れで「あっ、矢吹くんのことか」と萌が呟くと、美羽がくすくすと小さく笑う。

「なんか不思議。中央小の子で、駿くんのことを苗字で呼ぶ人っていないから」

 そういうものだろうか、と考えてみて、納得する。確かに萌も、同じ小学校だった子のことは苗字ではなく名前で呼んでいるからだ。

「試合始まるみたいだよ」

 美羽が一階を指差すのと同時に、ホイッスルが鳴り響く。駿介のチームで一番背の高い人がボールを弾き、ポイントガードと思われる人にボールが渡る。相手チームのディフェンスを巧みにかわしながら、ゴール近くまでボールを運び、少し後ろにいた駿介にパスをする。
 駿介のシュートはゴールへ吸い込まれるように入っていった。レギュラーを取ると宣言していただけあって、どうやら実力はあるらしい。
 その後も駿介のシュートが外れることはなかった。ディフェンスに阻まれて、危なっかしいシュートもあったが、ボールは全てリングに吸い込まれていったのだ。

「矢吹くんって上手いんだねぇ」

 萌がしみじみと言うと、隣にいた美羽が嬉しそうに目を輝かせる。

「そうなの! 駿くんは運動神経が抜群でね、バスケも上手だけど、サッカーもすごく上手いんだよ!」

 自分のことのように嬉しそうに語る美羽は、きっと駿介のことが好きなのだろう。
 こんなにかわいい子に好かれているなんてちょっと羨ましいな、と萌は心の中で呟く。
 三試合目終了の合図が鳴った。十五点の差をつけて、駿介のチームが勝利した。ぱちぱちと拍手をしながら、美羽が「駿くんすごい!」と声を上げる。駿介もその声に気づいたようで、二階にいる萌達に向かってガッツポーズをしてみせる。

「じゃあ矢吹くんの試合も見終わったし、私は部活に行こうかな」
「えっ? 萌ちゃん行っちゃうの?」

 眉を下げて寂しそうな顔をする美羽に、萌は笑いかける。

「うん。今日はありがとう、解説してもらえて助かったよ」
「ううん、特別なことは何もしてないよ。……あの、萌ちゃん。また、話しかけてもいいかなぁ?」

 不安気な表情で上目遣いに問いかけてくる美羽は、やっぱりかわいかった。こんな風にかわいく頼まれたら、どんな頼みごとでも聞いてしまうだろうな、とバカなことを考えながら萌は頷く。

「もちろんだよ。またね、美羽ちゃん」

 小さく手を振ると、美羽がやわらかな笑顔と共に手を振り返してくれた。萌は入部したばかりの吹奏楽部に向かうべく、体育館を後にした。
 翌週の月曜日から、萌は美羽に話しかけられることが増えた。廊下ですれ違うときはもちろん、わざわざクラスに遊びに来てくれることもある。美羽と同じ小学校出身の百合絵曰く、かなり人懐っこい子らしい。

「美羽はかわいくて性格もよくて人懐っこいから、もうモテるとかの次元を超えてるのよ。ファンクラブができる勢いだから」

 それはすごい話だ。ファンクラブなんて、テレビで見るアイドルのようだ。
 萌が感心していると、美羽は恥ずかしそうに頬を染めて、眉を下げた。

「そんなことないよ……。それにほら、肝心の好きな人にはなかなか振り向いてもらえないし……」
「好きな人って矢吹くん?」
「えーっ! なんで萌ちゃんまで知ってるの……!」

 赤くなった頰を両手で押さえる美羽に、百合絵が笑いながら言葉を返す。

「美羽の態度分かりやすいもんね?」
「うん、恋する女の子って感じですごくかわいかった」
「えええ、恥ずかしい……!」

 ぱたぱたと熱くなったであろう頰を手で仰ぐ美羽に、教室の中が少しだけ騒がしくなる。やっぱり美羽はかわいいな、と言っている男子の声に、萌は思わず同意の声を上げそうになった。

「それにしても駿介も変わってるよねぇ。これだけかわいい子に好かれてるのに見向きもしないなんて」
「えっ、矢吹くんってそうなの? 美羽ちゃんと矢吹くん、お似合いだから付き合っててもおかしくないのに」

 萌が首を傾げるのと、右肩にずしんと重みがかかるのはほとんど同時のことだった。びっくりして振り向くと、そこには話題の中心になっていた駿介の姿。

「俺がなんだって?」
「あっ、駿くん、ち、違うの……!」

 美羽が慌てたように声を上げるが、駿介はちらりと一瞥しただけで、萌と百合絵の方に向き直る。
 その反応を見て、萌の頭に一つの考えがよぎった。
 もしかして、矢吹くんはあんまり美羽ちゃんのことが好きじゃないのかな。
 しかしまさかそんなことを口に出来るはずもなく、気づかないふりをして笑みを貼り付ける。

「矢吹くん重いんだけど」
「んー? だってなんか雨宮さんが俺の噂話してたみたいだから?」

 実際はそんなに体重をかけられているわけではないので、そこまで重くはないのだが、駿介に好意を抱いている美羽がどう思うのか、とそればかり考えてしまう。
 早く離れてほしい一心で、ぐい、と駿介の身体を押すが、ぴくりとも動かない。思いの外筋肉のついた身体にびっくりして、萌は驚きの声を上げる。

「矢吹くん、腹筋すごくかたいね!?」
「そりゃあ鍛えてるからな」
「へー……私なんて全然だよ……毎日筋トレしてるのになぁ」

 トランペットを吹くには体力と肺活量が必要なので、毎晩地道なトレーニングに励んでいるのだ。しかし、駿介のようなガッチリとした筋肉は全くつく気配がない。萌も一応女子なので、腹筋を割りたいと思っているわけではないが、それでも吹奏楽に必要な程度の筋肉量は欲しいと思っている。

「へー雨宮さん、筋トレとかするんだ」
「あ、うん。吹奏楽部だから、腹筋とか背筋がしっかりしてると、音も安定するんだよ」

 駿介にトレーニングの方法を訊いてみようか、と思いついて口を開きかけたとき、ふいに視線に気づいて言葉を飲み込む。
 すぐそばで駿介と萌の会話を聞いていた、美羽と百合絵の視線が痛い。彼は美羽の好きな人なのだから、もう少し気をつかえばよかった。
 慌てて駿介から距離を取り、曖昧に笑って誤魔化す。きっと駿介からしたら急に避けられたように感じてしまうだろう。悪いことをしてしまったような気分になって、別の話題を頭の中で必死に探す。

「あっ! そういえば矢吹くんって、サッカーも上手いんでしょ? 美羽ちゃんが褒めてたよ」
「ん? まぁそれなりに?」
「なんでサッカー部じゃなくてバスケ部にしたの?」

 どっちも上手いのなら、どちらに入ってもよかったはずだ。割合は少ないらしいが、兼部という方法もあるらしいので、両方を選ぶことも出来たのだろう。
 あえてバスケットを選んだのには何か理由があるのか。そんな素朴な疑問だったのだ。しかし、美羽が気まずそうに俯いたのが視界の端に見えて、萌はじわりと嫌な汗がにじむのが分かる。

「サッカーでもよかったんだけどさ、あっちはマネージャーありなんだよ」
「うん……?」

 マネージャーがいてもいいのではないだろうか。男の子の気持ちは分からないけれど、かわいい女の子がマネージャーとして補佐してくれれば、やる気も出そうなものだけれど。

「本気でサッカーを好きなやつがマネージャーになるならいいけど、そうじゃないやつもいるじゃん?」
「うーん……サッカー部の男の子目当てってこと?」
「そうそう。そういう下心みたいな半端な気持ちで部活に挑まないでほしいよなぁ」

 そういうやつがいたら面倒だから、バスケにしたんだ。
 そう言った駿介は爽やかな笑顔を浮かべていたけれど、目の奥が笑っていなかった。モテる人も大変なんだなぁ、と萌が変に感心していると、脇腹をちょんとつつかれる。百合絵だった。

「でもさぁ、駿介が部活に真剣なように、恋に真剣な子がいてもよくない?」

 ぐいと身を乗り出して百合絵が言った言葉を、駿介は否定することはしなかった。

「それは別に個人の自由じゃん? 俺とは価値観が合わないってだけで」

 美羽が顔を真っ赤にして俯いた。そこでようやく萌は自分の失態に気がついた。
 駿介のことを好きな美羽は、もしかしてサッカー部のマネージャーがやりたかったのではないだろうか。でも駿介はサッカー部を選ばなかった。
 事情を知らなかったとはいえ、美羽に不利な情報を聞き出してしまった。落ち込んでいる美羽に申し訳なくて、萌も慌てて声を上げる。

「でも私も恋に真剣なの、素敵だと思うよ! そういう理由でマネージャーを始めて、だんだんサッカーを好きになる子だっているんじゃないかな?」
「萌ちゃん……」

 俯いていた美羽が顔を上げて、萌を見つめる。その目がうっすら涙に濡れていたので、罪悪感に襲われた。

「……雨宮さんって本気で恋したことある?」
「えっ、なに急に」

 ぐい、と駿介に顔を近づけられて、思わずのけぞる。恋、という単語を聞いて一番に頭に浮かんだのは、幼馴染の顔だった。
 でも正直なところ、萌には分からない。恋というものがどんな感情なのか。陸に抱いている好きという気持ちが、恋と呼ばれるそれなのか、分からないのだ。

「…………ないと思うけど」

 萌が答えるのとほぼ同時に、背中に衝撃が走る。後ろから抱きつかれたのだと理解し、慌てて相手を確認すると、同じ小学校だった沙羅だった。

「萌は好きな人いるよね? 陸くん!」
「沙羅ちゃん……陸ちゃんはそういうんじゃ……」
「誰?」
「あっ、私沙羅っていうの! 矢吹駿介くんだよね? キミすごい有名だよ」

 話してみたかったんだぁ、という沙羅の言葉に、萌は思わずこぼれそうになったため息を飲み込む。
 沙羅はいい子だが、新人アイドルや若手俳優が大好きで、ミーハーなところがある。イケメンな駿介が萌と話しているのを見て、話に混ざってきた、というところだろう。
 ふいに顔を上げると、百合絵が強張った表情を浮かべているのが確認出来た。その表情に、なぜだか嫌な汗がにじむ。

「ね、みんなそろそろ教室に戻って席につかないと、先生来ちゃうよ!」

 にこっと萌が笑みを浮かべて、場を取り成すように両手を叩く。美羽がそうだね、と笑って、駿くん帰ろうと駿介に声をかける。駿介も頷いて、その場を離れていった。やはり駿介目的だったらしい沙羅も、あっさりと自分の席に戻っていく。
 ようやく静けさを取り戻した自分の周りに、ホッと息を吐くと、いつもよりやけに落ち着いた百合絵の声が静かに響く。

「ねぇ、萌ってさぁ」
「ん?」
「男子との距離、近いタイプ?」

 その言葉に棘があるのが分からないほど、萌は鈍くない。駿介との距離が近すぎる、と遠回しに言われているのだ。
 小学生の頃から美羽と百合絵は仲が良かったようだし、突然萌が彼と仲良くし始めたら気に入らないのも当然だろう。
 駿介との距離感は気をつけるようにしよう、と心に決めて、萌は笑いながらそんなことないよと答えるのだった。
 中学生は意外と忙しい。授業時間も小学生のときより長くなり、部活動や委員会もある。萌の入った吹奏楽部は、どちらかといえば緩い部活であり、あまり練習時間が長い方ではない。しかし部活によっては上下関係が非常に厳しく、練習時間も長いと聞く。
 土曜日や日曜日のお休みの日には、陸の通っているリトルシニアの野球チームの応援にも行っている。硬球での練習はまだ慣れないらしく、難しいと嘆いていたが、陸の目はきらきらと輝いていた。幼馴染が全力で野球を楽しんでいるという事実は、萌を元気にさせてくれた。
 そんなお休みを目前に控えた木曜日。給食を持って放送室に向かうと、やはり先に駿介が辿り着いていた。

「曲の準備出来てるぞ」
「うん、ありがとう。放送流しちゃうね」

 萌がアナウンスを流すと、駿介が音楽を流し始める。まだ二回目だというのに手際がいい。

「美羽がリクエストだっていって音源を渡してきたんだけど、流していいんだよな?」
「あ、美羽ちゃん持ってきてくれたんだね。流して大丈夫だよ」

 きっと駿介と話すきっかけが欲しかったのだろう。健気だなぁ、と思わず笑みを浮かべていると、駿介に頭を小突かれる。

「なにニヤニヤしてんだよ」
「えー? 別に?」
「考えてることダダ漏れだからな」

 ぺし、と優しく頭を叩かれて、萌はじとりと駿介を睨む。
 駿介は萌の視線など気にした様子もなく、昼食に手を伸ばした。萌も倣ってフォークに手を伸ばし、ミートソーススパゲッティを器用に巻き取る。

「この間矢吹くんが教室に来たとき、百合絵ちゃんに言われたんだけどね」
「んー?」

 興味なさそうな相槌に、萌は苦笑をこぼしながら言葉を続ける。

「私って男子との距離が近いんだって」
「…………そうか?」
「でもどっちかというと、私じゃなくて矢吹くんじゃない? 距離感が近めなの」

 別に悪いことではないと思うけど、と付け足しながらスパゲッティを口の中に放り込む。麺は少し伸びているけれど、ソースは想像していたよりも美味しかった。

「ふーん。あんまり言われたことないけど、気をつけるわ」
「まぁ矢吹くんみたいなモテる人は、その距離感も含めて人気なのかもしれないから、直す必要はないかもしれないけど」

 少なくとも駿介に好意を抱いている女の子からしたら、頭をぽんと叩かれたり、唐突に肩を組まれたり、そういうボディタッチだって嬉しいに違いないのだ。
 たまごスープを一口飲むと、じわりと身体が温まるのを感じる。萌には恋心はよく分からないけれど、きっと恋をしていたら毎日が楽しいのだろう。羨ましいな、と呟くと、駿介が音源の入れ替えをしているところだった。美羽の持ってきた曲は、最近流行りの恋愛ソング。片想いの切なさと楽しさを歌った曲で、可愛らしい曲調は美羽のイメージにぴったりだった。

「羨ましいって何が?」

 どうやら萌の先ほどのひとりごとはしっかり聞こえていたらしい。少しだけ恥ずかしい気持ちになりながら、フォークをくるくる回し、スパゲッティを巻きつける。

「恋してる子って、なんだかそれだけでかわいく見えるでしょ? それに好きな人がいたら、毎日楽しそう」
「……楽しいことばっかりではないんじゃない? 俺も分かんないけど」

 その言葉に、食べかけのスパゲッティがはらはらと解けていく。

「私に本気で恋したことある? とか訊くくらいだから、てっきり矢吹くんは恋したことあるのかと思ってたんだけど!」

 なんだか騙された気分だ。何なら彼女でもいそうな雰囲気だったのに。
 駿介は目を丸くし、ふはっと吹き出すと、萌の髪をぐしゃぐしゃと雑に撫でた。

「だから距離感!」
「今は放送室に二人しかいないんだから問題ないだろ」

 誰かに見られる心配もないし、という意味なのだろうが、もしも萌がこれで勘違いしてしまったらどうするつもりなのだろう。ちゃんと責任を取ってくれるのだろうか。
 頰を膨らませて不満を露わにしてみせるが、駿介は全く見ていない。

 興味がなさすぎるでしょ、私に! 別に好きになってもらいたいとかそういうのではないけども!

 膨れたままもくもくご飯を食べていると、ようやく気づいたらしい駿介が頰を突いてくる。

「そういえば今日、試合なんだよ」
「へ?」

 レギュラー決めのラストの試合! と言いながら歯を見せて笑う駿介はどこまでも爽やかで、眩しいなぁ、とすら思う。
 駿介は今のところ負け知らず。得点に絡むシーンも多く、レギュラーも射程圏内だと言う。

「ただラストの相手は切島先輩なんだよなぁ」
「切島先輩って、あの……黒髪でつり目の?」
「そ。一回見に来たから分かると思うけど、あの人がうちのバスケ部のエースなんだ」

 切島先輩を超えなきゃ、俺はエースになれない。
 そう言った駿介の目がどこまでもまっすぐだったので、萌はなぜか会ったばかりの彼を応援したくなってしまった。

「……試合、見に行ってもいいかなぁ」
「えっ、見に来てくれんの? もちろん大歓迎! 雨宮さんの方の部活は平気?」

 吹奏楽部はゆったり練習してるから、と萌が笑うと、駿介も楽しそうに笑った。