◇
ざあざあと降り頻る雨は本格的な熱気と湿気を纏って、あたり一帯を豪雨の渦に呑み込んだ。
傘を持っていなかった私は、ずぶ濡れになりながらもふらふら歩き続け、祭り会場付近にある小高い丘の麓までやってくる。
手入れもされず草木が伸び放題になったその丘の片隅には、天に昇るような細い石段があって、古ぼけた灯篭に両脇を囲われたそこをまっすぐに上っていくと、今にも崩れ落ちそうな鳥居が姿を現す。蔓延った蔦が絡まないよう肩を窄めてそこをくぐれば、軒先に透明な鈴を物寂しくぶら下げた社が町を見下ろすようにぽつんと佇んでいる。
成外内神社――それがこの小さな神社の名前。
手水舎もなければ、賽銭箱もない。
滅多に人がくることもなければ、誰かに崇められるようなこともほとんどない。
あまりにも廃れすぎて神様がいるのかさえわからないようなこの神社は、地元の人たちからは『なりそこないの神社』や『なりそこないの神様』などと揶揄され敬遠されている。
それでも私は、昔からこの静かな場所が好きだった。
いつから馴染みの神社となっていたのかそれすら記憶にないぐらい長い付き合いで、私にとっては心の拠り所のような場所だったから、少しの間だけ雨宿りをさせてもらおうと――といっても、すでに浴衣はびしょ濡れになってしまっているからあまり意味はないかもしれないけれど――神様にお辞儀をしてから近くに幹を構える御神木の下に身を寄せ、ごろごろと稲光をちらつかせる暗雲を見上げる。
しばらくは止みそうにないな、と途方に暮れた。
でも、ちょうどよかったかもしれない。
憤懣やるかたない思いが雨水とともに流されていくようで、幾ばくかの落ち着きを取り戻す。
(これからどうしよう)
しかし心の中は暗澹としていた。
陽菜に歯向かうということは、叔母さんに背いたも等しい。
家に帰ったら陽菜と叔母さんの双方からひどい仕打ちを受けるだろう。もう設楽先輩という心の拠り所もないし、強い孤独を感じた。
侘しい。苦しい。寂しい。
帰りたくないけど行くあてもない。
雨のせいか否か、視界の端が涙でうっすらと滲む。
歯を食いしばって眼下に広がる成外内町の景色を見つめた。
ここは小高い丘の頂付近。柵を乗り越えて飛び降りれば間違いなく命を絶つことができるだろう。そうすれば、お母さんにも会える。
「……」
そう思うと、ぼろぼろ涙が溢れて止まらなかった。
お母さんに会いたい。
お母さんの作った温かいご飯が食べたい。
お母さんに会って取り留めのない話がしたい。
お母さんと一緒にテレビを見てくだらないことで笑いたい。
お母さんにごめんねって言いたい。
「神様……どうか――」
耐え難い衝動の波がきて、ふらりと足が前に出る。
無音だった。無音で色のない世界。
希望も何もない。息が詰まりそう。
もう何もかも手放して、このまま闇に呑まれてしまいたい……と思ったその時、あたりがカッと白く光った。
「……っ!」
あまりの眩しさに、咄嗟に腕で視界を庇う。
ゴロゴロ、ピシャン――!
(か、雷……?)
いや、それにしてはものものしい光り方だった気がしないでもない。
よほど近くに落ちたのだろうか? いずれにしても我に返るには絶妙なタイミングだった。腕を下ろし、そろりと目を開ける。黒い闇の中で、降り注ぐ雨が地面で激しい白波を立てていた。
ふと、顔を上げると――。
《あー……うん》
「え……」
杜のすぐそばに、うっすらと浮かび上がる細長い影。
《ごほん。ええと、名を……呼ばれた気がするのだが……》
「ひっ!」
若々しい声で語りかけてくる『それ』――きつねの面を被り、すらりとした体躯に黒っぽい着流しを纏った、やや靄がかっている人影――に、思わず目を丸くする。
「き、っきゃあああっ……お、おばっ、おばっっ、おばけーーッ‼」
《なっ! ぶ、無礼者っ。『神』に向かって『オバケ』はないだろう!》
反射的に出てしまったその台詞。あまりの動揺に頭の中は半分パニックで、失礼だとか無礼だとか考える余裕は全くなかった。
その神様(らしい?)はさも心外だというようにこちらを窘めてくるんだけれど、声色も雰囲気も若々しくて全く神様っぽさがないし、そもそも狐の顔をした人にいきなり『神だ』なんて名乗られたっておばけ以上に実感が湧かない。
「かかかか神……様⁉ ほ、本当に、本当に神様なの⁉」
《どこをどう見たって『神』だろう。おぬし、呼び出しておいて無礼にもほどがあるぞ》
むっとしたように言う神様。がちがち震えながらも冷静になって考えてみれば、確かにこれだけ豪雨の中に立っているというのに全く濡れている気配がないことや、目を凝らすと若干光る粒子のようなものを全身に纏っているあたり、人ならざる空気を感じる。
「ごっ、ごごごごごめんなさいっ。で、でも、あの、その……」
《なんだ。言いたいことがあるならはっきり言え》
「えっと、その、まず狐のお顔が怖くて……」
《――顔?》
こくこく頷く。あたりが真っ暗ななか、時々発生する稲光が反射して狐のお面がすうっと闇夜に浮かび上がってくるから、実際かなり不気味だった。
正直にそう申し上げると、
《そうか。この顔がそんなに怖いか……。とはいえ、神が人前で素顔を晒すなど前代未聞。うーむ……》
神様は少し迷ったように顎に手をあてて考える。
《……! そうだ、ではこうしよう。縁結びの神らしく、おぬしにとっての『理想の器』を今ここで顕現してみせよう》
と、得意げな声色でそんな提案をしてきた。
仰っている意味はよくわからないけれど、そういえば確かに、この成外内神社の神様は、縁むすびや夫婦和合としての神徳があるとされているんだっけ。
「り、理想の器を顕現、ですか……?」
《ああ。それならおぬしも神の存在を信じるだろうし、畏れも取り除けて一石二鳥だ》
「仰ってる意味がよくわからないのですが、具体的にどうすれば?」
《目を閉じ、そうだな……想い人の顔でも強く念じればいい》
「おっ、想い人⁉ で、でもそれはっ……」
《心配しないでもまだ縁を結ぶわけではないし、姿を借りるだけだ。よいから早く》
「え、あっ、はいっ」
急き立てられるように言われ、慌てて目を閉じる。
困ったな……。想い人、いるにはいるけれど、設楽先輩を思い浮かべたところで陽菜に迷惑がかかったりはしないだろうか。
「……」
でもまぁ、神様も『縁を結ぶわけではない』って言ってるし、他に気になる人もいないから素直に思い浮かべることにしよう。
思い切って先輩の顔を脳裏に思い描く。
凛々しくて、優しくて、穏やかで、温かい眼差しをした設楽先輩の顔。すると――。
――ガラガラ、ピシャン!
「……っ!」
急に近くで雷が落ちるような音がして、びくっと肩を跳ね上がらせる。
ざあざあざあ。夜のしじまに響く絶え間のない雨音。
《目を開けてよいぞ》
神様の声が聞こえて言われるがまま恐る恐る目を開けると、狐のお面を外した神様が立っていた。
「な……」
その顔は設楽先輩そのものになっていて、思わず心臓が跳ね上がる。
「せ、先輩っ‼」
《どうだ。これなら文句ないだろう》
ふん、と鼻を鳴らす神様に、何度も肯いてみせる。
うわあ。どうしよう先輩だ。黒目黒髪の先輩と違って目の色は少し茶色がかっているし、髪の毛の色も美しい黄金色に輝いているものの、顔も背格好も見れば見るほど設楽先輩そのものすぎて余計に直視できなくなってしまう。
「文句どころか私には神々しすぎます……」
《……ったく。急にしおらしくなりおって》
肩をすくめた神様はふうと一息つくと、両腕を体の前で組んで踵を返す。
《とにもかくにもここにいては風邪を引く。ついてこい》
神様はそう言って、小さな社に向かって歩き出した。
ざあざあと降り頻る雨は本格的な熱気と湿気を纏って、あたり一帯を豪雨の渦に呑み込んだ。
傘を持っていなかった私は、ずぶ濡れになりながらもふらふら歩き続け、祭り会場付近にある小高い丘の麓までやってくる。
手入れもされず草木が伸び放題になったその丘の片隅には、天に昇るような細い石段があって、古ぼけた灯篭に両脇を囲われたそこをまっすぐに上っていくと、今にも崩れ落ちそうな鳥居が姿を現す。蔓延った蔦が絡まないよう肩を窄めてそこをくぐれば、軒先に透明な鈴を物寂しくぶら下げた社が町を見下ろすようにぽつんと佇んでいる。
成外内神社――それがこの小さな神社の名前。
手水舎もなければ、賽銭箱もない。
滅多に人がくることもなければ、誰かに崇められるようなこともほとんどない。
あまりにも廃れすぎて神様がいるのかさえわからないようなこの神社は、地元の人たちからは『なりそこないの神社』や『なりそこないの神様』などと揶揄され敬遠されている。
それでも私は、昔からこの静かな場所が好きだった。
いつから馴染みの神社となっていたのかそれすら記憶にないぐらい長い付き合いで、私にとっては心の拠り所のような場所だったから、少しの間だけ雨宿りをさせてもらおうと――といっても、すでに浴衣はびしょ濡れになってしまっているからあまり意味はないかもしれないけれど――神様にお辞儀をしてから近くに幹を構える御神木の下に身を寄せ、ごろごろと稲光をちらつかせる暗雲を見上げる。
しばらくは止みそうにないな、と途方に暮れた。
でも、ちょうどよかったかもしれない。
憤懣やるかたない思いが雨水とともに流されていくようで、幾ばくかの落ち着きを取り戻す。
(これからどうしよう)
しかし心の中は暗澹としていた。
陽菜に歯向かうということは、叔母さんに背いたも等しい。
家に帰ったら陽菜と叔母さんの双方からひどい仕打ちを受けるだろう。もう設楽先輩という心の拠り所もないし、強い孤独を感じた。
侘しい。苦しい。寂しい。
帰りたくないけど行くあてもない。
雨のせいか否か、視界の端が涙でうっすらと滲む。
歯を食いしばって眼下に広がる成外内町の景色を見つめた。
ここは小高い丘の頂付近。柵を乗り越えて飛び降りれば間違いなく命を絶つことができるだろう。そうすれば、お母さんにも会える。
「……」
そう思うと、ぼろぼろ涙が溢れて止まらなかった。
お母さんに会いたい。
お母さんの作った温かいご飯が食べたい。
お母さんに会って取り留めのない話がしたい。
お母さんと一緒にテレビを見てくだらないことで笑いたい。
お母さんにごめんねって言いたい。
「神様……どうか――」
耐え難い衝動の波がきて、ふらりと足が前に出る。
無音だった。無音で色のない世界。
希望も何もない。息が詰まりそう。
もう何もかも手放して、このまま闇に呑まれてしまいたい……と思ったその時、あたりがカッと白く光った。
「……っ!」
あまりの眩しさに、咄嗟に腕で視界を庇う。
ゴロゴロ、ピシャン――!
(か、雷……?)
いや、それにしてはものものしい光り方だった気がしないでもない。
よほど近くに落ちたのだろうか? いずれにしても我に返るには絶妙なタイミングだった。腕を下ろし、そろりと目を開ける。黒い闇の中で、降り注ぐ雨が地面で激しい白波を立てていた。
ふと、顔を上げると――。
《あー……うん》
「え……」
杜のすぐそばに、うっすらと浮かび上がる細長い影。
《ごほん。ええと、名を……呼ばれた気がするのだが……》
「ひっ!」
若々しい声で語りかけてくる『それ』――きつねの面を被り、すらりとした体躯に黒っぽい着流しを纏った、やや靄がかっている人影――に、思わず目を丸くする。
「き、っきゃあああっ……お、おばっ、おばっっ、おばけーーッ‼」
《なっ! ぶ、無礼者っ。『神』に向かって『オバケ』はないだろう!》
反射的に出てしまったその台詞。あまりの動揺に頭の中は半分パニックで、失礼だとか無礼だとか考える余裕は全くなかった。
その神様(らしい?)はさも心外だというようにこちらを窘めてくるんだけれど、声色も雰囲気も若々しくて全く神様っぽさがないし、そもそも狐の顔をした人にいきなり『神だ』なんて名乗られたっておばけ以上に実感が湧かない。
「かかかか神……様⁉ ほ、本当に、本当に神様なの⁉」
《どこをどう見たって『神』だろう。おぬし、呼び出しておいて無礼にもほどがあるぞ》
むっとしたように言う神様。がちがち震えながらも冷静になって考えてみれば、確かにこれだけ豪雨の中に立っているというのに全く濡れている気配がないことや、目を凝らすと若干光る粒子のようなものを全身に纏っているあたり、人ならざる空気を感じる。
「ごっ、ごごごごごめんなさいっ。で、でも、あの、その……」
《なんだ。言いたいことがあるならはっきり言え》
「えっと、その、まず狐のお顔が怖くて……」
《――顔?》
こくこく頷く。あたりが真っ暗ななか、時々発生する稲光が反射して狐のお面がすうっと闇夜に浮かび上がってくるから、実際かなり不気味だった。
正直にそう申し上げると、
《そうか。この顔がそんなに怖いか……。とはいえ、神が人前で素顔を晒すなど前代未聞。うーむ……》
神様は少し迷ったように顎に手をあてて考える。
《……! そうだ、ではこうしよう。縁結びの神らしく、おぬしにとっての『理想の器』を今ここで顕現してみせよう》
と、得意げな声色でそんな提案をしてきた。
仰っている意味はよくわからないけれど、そういえば確かに、この成外内神社の神様は、縁むすびや夫婦和合としての神徳があるとされているんだっけ。
「り、理想の器を顕現、ですか……?」
《ああ。それならおぬしも神の存在を信じるだろうし、畏れも取り除けて一石二鳥だ》
「仰ってる意味がよくわからないのですが、具体的にどうすれば?」
《目を閉じ、そうだな……想い人の顔でも強く念じればいい》
「おっ、想い人⁉ で、でもそれはっ……」
《心配しないでもまだ縁を結ぶわけではないし、姿を借りるだけだ。よいから早く》
「え、あっ、はいっ」
急き立てられるように言われ、慌てて目を閉じる。
困ったな……。想い人、いるにはいるけれど、設楽先輩を思い浮かべたところで陽菜に迷惑がかかったりはしないだろうか。
「……」
でもまぁ、神様も『縁を結ぶわけではない』って言ってるし、他に気になる人もいないから素直に思い浮かべることにしよう。
思い切って先輩の顔を脳裏に思い描く。
凛々しくて、優しくて、穏やかで、温かい眼差しをした設楽先輩の顔。すると――。
――ガラガラ、ピシャン!
「……っ!」
急に近くで雷が落ちるような音がして、びくっと肩を跳ね上がらせる。
ざあざあざあ。夜のしじまに響く絶え間のない雨音。
《目を開けてよいぞ》
神様の声が聞こえて言われるがまま恐る恐る目を開けると、狐のお面を外した神様が立っていた。
「な……」
その顔は設楽先輩そのものになっていて、思わず心臓が跳ね上がる。
「せ、先輩っ‼」
《どうだ。これなら文句ないだろう》
ふん、と鼻を鳴らす神様に、何度も肯いてみせる。
うわあ。どうしよう先輩だ。黒目黒髪の先輩と違って目の色は少し茶色がかっているし、髪の毛の色も美しい黄金色に輝いているものの、顔も背格好も見れば見るほど設楽先輩そのものすぎて余計に直視できなくなってしまう。
「文句どころか私には神々しすぎます……」
《……ったく。急にしおらしくなりおって》
肩をすくめた神様はふうと一息つくと、両腕を体の前で組んで踵を返す。
《とにもかくにもここにいては風邪を引く。ついてこい》
神様はそう言って、小さな社に向かって歩き出した。