◇

 無我夢中で走り続け、辿り着いた駅前公園の木陰でようやく足を止めて息を整える。

「ぜぇ……ぜぇ……」

「はぁ、はぁ……」

 振り返るが追っ手はいない。どっとふき出る汗。運動部で持久力のある陽菜といえどもやはりそれなりに息が切れたようで、二人して公園の片隅でへたり込みしばし無言の時を費やす。

「なん、なの、もう……。なんで、月乃が、いるの……」

 やがて切れ切れの息と共に吐き出される陽菜の愚痴。

 今は八月の猛暑まっただなかだから、さすがに息苦しさと暑苦しさを覚えたのだろう、陽菜がマスクを外して汗を拭った。

「驚かせて、ごめん……たまたま、バスで、通りがかって……」

 そう答えながらも、ふと、晒け出された彼女の口元にうっすら浮かんだ青痣が目が留まる。自然と顔を顰めてしまった私を見て、陽菜が慌てて右腕で顔を隠した。

「それ……」

「なんでもないし」

「そんなわけないじゃない」

「部活でちょっとぶつけただけだし、なんでもないって言ってんでしょ」

「なんでもなくないよ! 叔母さんに殴られたの?」

「……」

 つい強い口調で問いただすと、陽菜は肯定を示すように黙り込んだ。

 やはり叔母にやられたのだろう。一時期は私がその立場にいたため特に驚きはしなかったが、あの叔母が実の娘である陽菜にまで手を挙げるとは想定外だった。

「黙ってちゃわからないよ」

「うちを出て行った月乃には関係ないでしょ。ほっといてよ」

「ちょ、ちょっと待ってってばっ」

 そっけなく言い放ってその場から立ち去ろうとする陽菜の腕を取る。

「……っ」

「確かに関係ないかもしれないし、正直今でも陽菜に対して腹が立ってる部分はあるけど……でも、それとこれは話が別でしょ! 陽菜があんなわけのわからない男と連むなんてどう考えても変じゃん。叔母さんと何かあったの?」

 自分でも引くぐらいお節介な台詞だったし、私の変わりぶりに陽菜も驚いていた。

 かつての自分ならこんなに堂々と他人に意見しようだなんて微塵も思わなかったはずなのに。

 閊えを祓う作業で培われた精神か、今はただ、後悔したくない一心でまっすぐに陽菜を見つめると、彼女はしばし俯いて黙り込んでいたのだが……。

「あんたが……」

「……うん?」

「月乃が……出てくから……いけないんだよ……」

 やがて声を震わせながらそう吐露した。

 俯いた陽菜の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。

「陽菜……」

 正直、今でも陽菜のことは憎い。叔母を嗾け、マウントを取り続けてきた十数年間。おかげでどれだけ私はストレスを溜め込み、時に死を意識するまで至ったか。

 腹は立つが……陽菜については全部が全部、悪い思い出ばかりでもなかった。

 小学生の頃、両親がいない境遇を馬鹿にされクラスの男子にいじめられていた時に助けてもらったこともあったし、進路についてはっきり意見が言えない私の代わりに、さりげなく叔母さんに提言してくれていたこともあった。

 数は少ないけれどところどころ助けられたのも事実で、それを思い返すとあまりにも弱々しく肩を震わせて泣く彼女を、どうしたって蔑ろにはできなかった。

「やっぱり何かあったんだね」

「……ひっぐ」

「誰にも言わないから全部話して」

 意を決してそう告げると、陽菜は一瞬驚いたようにこちらを見たけれど、抱え込んでいた想いが溢れ出したかのように止めどない涙を流しはじめ、思いのたけをぽつりぽつりと語り始めた。

 私の家出により、叔母のストレスの捌け口が全て陽菜に向いてしまったこと。

 毎日小言を言われ、時に暴力を振るわれたり、それまで私が一手に引き受けていた家事掃除洗濯も全て陽菜が負担する羽目になったこと。

 また、私がいなくなったことで普段あまり家に帰らない父親からも愚痴をこぼされるようになり、元々不仲だった両親の仲がさらに悪化しつつあること。

「うちのパパとママ、あまりうまくいってなかったの知ってるでしょ……。ママ、今まではそのストレスを月乃にぶつけることでなんとかバランスを保ってたけど、それが崩れて私にも手を挙げるようになって。もちろんそれは自業自得だから仕方ないんだけど……でも、そんなママを見て、今度はパパが『自分の娘にまで暴力を振るうとはなんだ』って、家の中が荒れるようになっちゃって。私は自分が暴力を受けることよりも、パパとママが顔を合わせるたびに激しい口論をするのを見るのが何よりも耐えられなくて……」

「そう……」

 そこまで聞いて、陽菜の言いたいことは大体理解ができた。

 陽菜の父親――私にとっての叔父――は、もともと子ども嫌いな人らしく普段あまり家にも帰らず、まともに会話を交わしたことすらないような人だった。

 そういう事情もあって私を引き取ることになった当時は散々叔母さんと揉め、『あんたのせいで夫婦仲が険悪になった』とまで言い聞かされてきた。

 叔母さんがことごとく私を邪険に扱っていたのはきっとそのせいだろう。

 どうしようもない事情だとはいえ迷惑をかけたのは事実だし、耳の痛い話だ。

「私が家にいると悪循環になっちゃうから、最近はなるべく家に帰らないようにしてたんだけど、友達の家にいてもすぐバレて友達の親にまで連絡回されるから、結局どこにも行けなくて……それで、街でうろうろしてる時にさっきの人たちに出会ったの」

「なるほどね……。あいつらと一緒にいたのは今回が初めてじゃないよね?」

「……うん。今日で三回目かな。一回目は夕方ごろ駅前で声かけられて公園で話して終わって、二回目は深夜だったんだけど駅近くのカフェでお茶して終わった。二回ともいい暇つぶしにはなったけど、奴ら、馴染みの店に行こうってしつこくて。断るのすごい大変だった」

「それはそうでしょう、よく二回も断れたね」

「私、ああいう奴らの扱いには慣れてるから」

 そっけなく答える陽菜だが、言い寄る男が多く百戦錬磨の対応をしてきた彼女の言葉にはそれなりの説得力があった。

「だけど……三回目の今日はさすがに断れなかった。いや、断れなかったんじゃなくて、断らなかったっていった方が正しいかな。家のことで色々精神的に参っちゃってたからもうどうにでもなれって感じで……。でも、車に乗る寸前で、やっぱりよくないって気持ちが強くなって躊躇ってたら月乃が現れたからびっくりした」

 小さく頷いて相槌を打つ。本当に間一髪だったというわけだ。

 陽菜は一通りの経緯を話すと気持ちが少し落ち着いたようで、目元を拭いながら深呼吸を繰り返していた。

「そっか。そうだったんだね。それで陽菜が浮かない顔してた理由もわかったけど、それならどうして設楽先輩のところへは行かなかったの?」

「それは……」

 別に嫉妬をしているというわけではなく単純に疑問に思ってそう尋ねると、陽菜は急に苦々しい表情になってそっぽを向いた。

「別にいいじゃんそんなの」

「よくないよ。彼氏なんでしょう? 先輩だったらきっと助けてくれたと思うし、暗い時間に町をほっつき歩くより遥かに安全だったと思うよ」

「……」

「それに、先輩、こないだ偶然町で会った時も陽菜のこと心配してたし、せめて連絡の一つくらいは……」

「え、うそ! そんなはずないって! だって光亮先輩、陽菜のことなんか微塵も……」

「……え?」

「あっ」

「ちょっと待って、『陽菜のことなんか微塵も』ってどういうこと? 付き合ってるんでしょ?」

「……」

 引っかかった言葉に疑問を感じてそう尋ねると、陽菜はしばしむすっとした顔で何かを言い淀んでいたが、やがて観念したように暴露した。

「付き合ってない」

「へ?」

「私と光亮先輩、本当は付き合ってない。あれ……嘘だから」

「なっ、え、ちょっ……ええ? どういうこと⁉」

 突然のカミングアウトに目を白黒させる。

 陽菜はまるで悪びれる様子もなくむすっとした顔で私を睨んでいるのだが、わけがわからない。叔母さんや叔父さんのことは一旦脇に置き、陽菜の発言を胸中で咀嚼しようとしたが無理だった。どう頑張っても理解が追いつかない。

「ちょっと待って説明して」

「どうもこうもないし。もともと私が一方的に先輩を好きなだけで、夏祭りもしつこく何度も誘ってようやくOKもらえたってだけだし」

「ちょ、それならそう言ってくれたらよかったじゃん!」

「だって……。『彼氏』とでも言わないと格好つかないし、月乃に取られたら嫌だと思って……」

 陽菜は恨みがましい目で私を見てぶつぶつ愚痴をこぼしているのだが、そもそもそこからおかしい気がする。

「わっ、私なんかが先輩に相手にされるわけないじゃない。買い被りすぎだよ!」

「買い被ってないし、その謙遜、なんか超むかつくんですけど」

「え、いや、謙遜っていうか……」

「頭いいくせに……なんで私が月乃を夏祭りに誘ったかわからないの?」

 不満げにそう問われ首を傾げる。

 夏祭りの日、確か陽菜は『今日友達みんな忙しくて月乃以外に頼れる人いなかった』と、そう言っていたはずだ。そこにはなんの疑問も持たなかったわけなのだが、そもそもそれ自体が嘘だったということなのだろうか?

 適切な解答が浮かばず返事に詰まる。そんな私を横目に、陽菜は続けた。

「光亮先輩が指名したんだよ、月乃を。『従姉妹の七瀬さん、呼んでくれたら行ってもいい。こっちももう一人呼ぶから』って」

「……っ⁉」

 耳を疑うようなその発言に絶句する。

「え、ちょちょちょちょっと待ってどういうこと⁇ なんでそうなるの⁉」

「それはこっちが聞きたいよ! そもそも私、二人のバイト先が一緒だったなんて全然知らなかったし。……でもまぁそれを聞いて、あらかた察しはついたけどさ」

「察し……?」

 言われてみれば、陽菜に先輩とバイト先が同じことを告げた時、『どうりで』と言っていたっけ。彼女には何か思い当たる節があるのかもしれない。

 狼狽えながらも努めて冷静に、自分なりの考えを伝えておく。

「いやでもさ、別に深い意味なんてないと思うよ? バイト先が一緒だから気を遣って呼んでくれたってだけな気も……」

「忖度しない光亮先輩のことだし、そんな理由ならわざわざ私を介さず直接月乃を誘ってるでしょ」

「そっ、それはそうだけど、でも、だって……」

「でももだってもないから!」

「うっ」

「私も気になってなんで月乃なのか聞いたけど、『面白そうだから』としか言わないし絶妙な感じではぐらかすから、どう考えても光亮先輩は月乃のことが好きとしか思えないんですけど⁉」

「いやいやいやそれはないって! て、っていうか私、一度先輩に告白してフラれてるから!」

「は⁉ なにそれマジで? まぁ光亮先輩モテるからそんなのは別に驚かないけど。いやでもそれ、照れてただけとか、月乃の勘違いとか、フった後にやっぱり好きになったとか色々あんでしょ⁉ 私そういう勘外したことないし、絶対そうとしか思えないから!」

「お、思い過ごしだよそれは……!」

「いーや、絶対そうだね」

 必死の攻防戦も虚しく、陽菜は『光亮先輩は月乃が好き』という暴論でこの件を片付け、「なんでよりによって月乃なの、ちょーむかつく」と息巻いた。

(う、うーん……。それはないと思うんだけどなあ)

 謙遜ではなく心底そう思ったけれど、もはやなにを言っても無駄そうなので無言で逡巡する。

 密かに告白した時のことを思い返すが、照れているという感じではなかったし、答えも勘違いしようのないNOだった。

 確かにフラれた後に仲良くなったのはあるけど……バイト先の先輩後輩としての範囲に過ぎないといえばそうだろう。

(……そういえば先輩、お寺近くの公園で会った時、陽菜のこと他人行儀に『神崎さん』呼びしてた。あの時は単にそれが先輩流なんだろうと思ってたけど、まさか本当に他人だったとは……)

 妙に納得してしまう自分。いずれにせよ、陽菜と設楽先輩が恋人同士じゃなかったという事実に困惑を隠せず複雑な気持ちにはなったけれど、私がフラれたことは揺るぎのない事実だし、先輩も先輩なりに何か事情があって私を祭りに呼んだのだろうとそう結論づけることにする。

「と、とにかく! 設楽先輩を頼れなかった理由はわかったから、それについてはひとまずおいといて。どうせ今日は家に帰る気ないんでしょう?」

「……。帰る気あるならあんな奴らについていってない」

「そうだよね。じゃあ、今日のところは私もお世話になってるお寺にお邪魔させてもらう?」

「……え、でも」

「和尚さん、話せばわかる人だしきっと受け入れてくれると思う。もちろんずっとお世話になるわけにはいかないけど、このまま街をふらふらしてたってなにも解決しないし、一度腰を据えて今後のことを考えた方がいいんじゃないかな」

「……」

 努めて冷静にそう告げると、陽菜は考え込むようやや黙り込んでから小さく頷いた。

 今でも彼女に対して釈然としない気持ちはあるけれど、私のせいで陽菜の家族がバラバラになりかけているのは事実だし、これが私にできるせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。

「じゃ、行こう。部屋、多分私と一緒になっちゃうけどいいよね」

「……泊めてくれるなら別になんでもいいし。大事になった困るから今日は帰らないってママには自分から連絡いれとく」

「うん、できるようならそれがいいと思う」

「一方的に連絡して返信は見ないようにするだけ。それぐらいならできる」

 頷きを返すと、互いに目も合わさず立ち上がる。

 傾き始めた太陽を見上げると、こめかみに滲んだ汗が吸い寄せられるように地面に流れ落ちていった。

 陽菜は何かを言いたそうに口を開きかけたけれどそれが声になることはなく、無言で公園を後にし、バスに乗る。



 ――その日、陽菜は和尚さんのご厚意により無事にお寺に泊まることができ、生まれてはじめて従姉妹と二人並んで布団に入った。

 消灯時間が過ぎても陽菜は長らく掛け布団に包まって泣いているようだったが、それが何に対する涙なのか、また、それに対してどんな言葉をかけていいのか皆目検討がつかず、結局なにも言えないうちにやがて彼女は安らかな寝息を立て始めた。

 疲れていたのか、とても穏やかに眠ったようで一人静かに安堵する。

 もし私が陽菜と本物の姉妹として血が繋がっていたら、私たちはもっと違った形で支え合っていけたのかな……なんて、そんな無意味なことをぼんやり考えながら、私も瞼を閉じ、陽菜の後を追うよう深い眠りについた。