◇
それから五日ほどが過ぎたある夕暮れのこと。
その日は朝からアルバイト先で午前中のシフトをこなし――施設に入る必要がなくなったため辞めずに済んだのだ――、午後は父の弁当屋に赴き簡単な作業を手伝うといった忙しない一日を終えて帰路についた私だったのだが、お寺近くにある木槿が両脇を彩る細い小道を進んでいると、花壇奥の寂れた公園にある人影を見つけた。
夏休み中だというのに折目正しく制服を着こなし、隅にあるベンチに腰掛け、真剣に何かを考えるような眼差しでぼんやり足元を見つめて口元を強く引き結んだその人は……。
一瞬目を疑ったがやはり間違いではない。
――設楽先輩だ。
「え、先輩……?」
思わず声をあげ、歩みを止める。
設楽先輩ははっとするように顔を上げてから、こちらを見た。
「……っ! 七瀬さん?」
「お久しぶりです。こんなところでどうしたんですか?」
「あ、いや……ちょっと考え事してて……」
そう言って、酷使した目を労るような仕草で目頭をぐっと押さえ、苦笑する先輩。
いや、苦笑というか、無理矢理笑顔を作ったようにも見えた。
どうしたんだろう、少し様子が変だ。
どこか元気がないように見えるし、そもそも――先輩に会ったのはあのドタキャンになったお祭りの日以来で、あれ以降、先輩はアルバイト先でのシフトも欠勤が続いていた。
店長いわく家庭の事情らしいが、何かあったのだろうか。
「七瀬さんこそなんでこんなところに。家この辺なの?」
「いや、その、ちょっと色々ありまして……」
聞きたかったことを逆に尋ねられ、返答に詰まる。
一口にこの辺と言っても、公園の左側には墓地が広がっているし、右側には片手で数えるほどの一軒家と崩れかけのアパート一棟、それとお世話になっているお寺しか建っておらず、その先は行き止まりだ。
微妙に言葉尻を濁すと先輩はすぐに察してくれたようで、
「そう。じゃあ墓参りとかかな。いずれにしてもすごい奇遇だね。よかったらここ座って」
「あ、はい……」
手持ち無沙汰に突っ立っていた私に着席を促してくれた。
先輩の様子が気になっていたから私としては嬉しかったけれど、あまり顔色がいいようには見えないし心配だ。
「……」
「……」
おまけにしばらく続く沈黙。
元々口数が少ない人のなので仕方がないと言えばそうなのだが、なぜこんなところにいたのか説明がないってことは先輩にもそれなりに答えにくい事情があるのかもしれない。こちらからは簡単に聞けるような雰囲気でもないので、しばし無言の時を共有していると、
「――先週の祭りの日、急に行けなくなってごめん」
気を遣ってくれたのか、先輩が唐突に口を開いた。
「いえ、気にしないでください。っていうか先輩、妙に夏祭りのこと聞いてくるから変だと思ってたら、私の従姉妹の神崎陽菜と約束してたんですね。言ってくれればよかったのに……」
若干恨みがましい目をしてそう返すと、先輩は少し笑ったようだった。
「ごめんごめん。驚かせようと思って」
「驚いたなんてもんじゃないです。おかげで寿命が縮みましたよ」
「え、そんなに?」
「当たり前じゃないですかっ。だってまさか先輩と陽菜が……」
――付き合っていただなんて。
その言葉尻は吐き出す前に飲み込んだ。
口にするとなんだか現実味が増してしまい、余計にダメージが深刻化すると思ったからだ。
まさか同じ人に二度も失恋するなんて……。
先輩はどんより落ち込む私を怪訝そうに見つめてから首を捻った。
「俺と神崎さんが……どうしたの?」
「あ、いや。なんでもないです。今さら野暮ですよね」
「……?」
惨めになるのでこの話題はやめておこう。
目を瞬いている先輩を横目に口籠もりながらも気を取り直し、本題に戻る。
「それよりあの日、何かあったんですか? 陽菜が心配してましたよ」
喧嘩になってしまったとはいえ、陽菜だって気にしていたのは事実だ。
あの時彼女はナンパだのなんだのと騒いでいたけれど、きっとそれは本心ではなかったに違いないし、私はいまだ先輩にはそれなりの理由があったと思っている。
だからこそなんとはなしに尋ねたつもりだったのだが、やはりその件になると先輩はどこか浮かない顔で遠くを見つめた。
「うん。ちょっと、ね。それについては……今はまだごめん。落ち着いたら話すよ」
儚げに微笑む先輩の表情はどこか傷ましく私の目に映る。
明確な答えが得られなかったとはいえ、そこには精一杯の誠意が込められているようで、これ以上の追及は無意味に感じた。
「わかりました。無理はなさらないでくださいね。気が向いたら話してもらえればそれで構いませんので」
「ありがとう」
「いえ。私よりも陽菜の方が……」
「あ。そうそう。神崎さんといえば……」
「……?」
「昨日かな。たまたま町で彼女を見かけて、祭りの件を謝ろうと思ったんだけど……ちょっと様子が変だったんだよね」
「え?」
ふと思い出したようにそんなことを切り出した設楽先輩。
「変って……どうかしたんですか?」
「んー。なんだろ。本当になんとなくなんだけど、目は虚ろで、話しかけてもどこか心ここに在らずって感じで、まともに会話できなかった」
「え。陽菜が設楽先輩を相手に、ですか?」
「うん。しかもよくわからない男連れてた。一人か二人」
「……」
それは確かにおかしい。
今までの人生、散々陽菜から自慢話に近い恋話を聞いてきたけれど、彼女はなんだかんだ言って一途で、うまくいかなかった時なんかは愚痴りこそしてもすぐに男を乗り換えるだなんてことは決してしなかった。むしろしつこいぐらい執着するタイプである。
設楽先輩の件だって、一回ドタキャンされたぐらいで自棄になって他の男と街をほっつき歩くようなタイプでも決してないし、男友達に相談していたというパターンもないだろう。
なぜなら、『そういう相談は高確率で相手の庇護欲を刺激しちゃうから、男友達よりも女友達を相談相手に選んだほうが絶対にいい』と、本人が豪語していたからだ。
モテる彼女のことだからきっと何か経験則があるに違いないし、真に迫っていたことを記憶している。
つまり、やはり先輩の懸念は的を射ていて、どう考えても陽菜らしからぬ行動であることは確かなのだ。
「確かに変ですね、それ」
「でしょ? 気になったけど、『連れはただの友達』って言い張ってたし、ちょっと目を離した隙にいなくなっちゃったからそれっきりなんだけど……。もし顔を合わせてたり連絡取れてるなら、なにか変わった様子とかなかった?」
「あ、えっと。それが今、ちょっと喧嘩中でして……」
痛いところを突かれ、言葉尻を濁す。
うちの複雑な家庭の事情を気軽に話すわけにもいかず、
「でも、気に留めておきます。お祭りの件は仕方のないことですし、あまり気にされないでくださいね」
とだけ伝えると、先輩は目を細め、安堵するように「ありがとう」と言った。
正直、陽菜とはもう顔も合わせたくないとまで思っていたけれど、そんな話を聞いてしまうとなんとなく気になってしまうのは事実だ。
――と、その直後、先輩の携帯電話がメッセージの受信音を奏でる。
「……ごめん。バスが来たみたい」
「これから帰るところだったんですね」
「うん。七瀬さんはこれからお寺行くの?」
「あ、はい」
「そっか。じゃあまたね」
別れの挨拶を交わし、バス停に向かう先輩の後ろ姿を見送る。
夕焼けの緋を纏って細い道を行く先輩の後ろ姿は、どこか物寂しげに見えた。
あの祭りから七日――たった一週間だけど大きく変わった私を取り巻く環境。
いまだ先輩に対する未練は消えないけれど、落ち込むたび下を向くしかなかった私はもういない。数々の苦難や挫折が自分自身を強くしてくれていたのだと改めて知ったし、好きな人の幸せを心から願えるようにもなった。
全ては成外内の神様のおかげだ。
また明日、感謝の気持ちを込めて神様にお供物をしに行こう。
そんなことを考えながら前を向き、お寺への道を歩き出した。
それから五日ほどが過ぎたある夕暮れのこと。
その日は朝からアルバイト先で午前中のシフトをこなし――施設に入る必要がなくなったため辞めずに済んだのだ――、午後は父の弁当屋に赴き簡単な作業を手伝うといった忙しない一日を終えて帰路についた私だったのだが、お寺近くにある木槿が両脇を彩る細い小道を進んでいると、花壇奥の寂れた公園にある人影を見つけた。
夏休み中だというのに折目正しく制服を着こなし、隅にあるベンチに腰掛け、真剣に何かを考えるような眼差しでぼんやり足元を見つめて口元を強く引き結んだその人は……。
一瞬目を疑ったがやはり間違いではない。
――設楽先輩だ。
「え、先輩……?」
思わず声をあげ、歩みを止める。
設楽先輩ははっとするように顔を上げてから、こちらを見た。
「……っ! 七瀬さん?」
「お久しぶりです。こんなところでどうしたんですか?」
「あ、いや……ちょっと考え事してて……」
そう言って、酷使した目を労るような仕草で目頭をぐっと押さえ、苦笑する先輩。
いや、苦笑というか、無理矢理笑顔を作ったようにも見えた。
どうしたんだろう、少し様子が変だ。
どこか元気がないように見えるし、そもそも――先輩に会ったのはあのドタキャンになったお祭りの日以来で、あれ以降、先輩はアルバイト先でのシフトも欠勤が続いていた。
店長いわく家庭の事情らしいが、何かあったのだろうか。
「七瀬さんこそなんでこんなところに。家この辺なの?」
「いや、その、ちょっと色々ありまして……」
聞きたかったことを逆に尋ねられ、返答に詰まる。
一口にこの辺と言っても、公園の左側には墓地が広がっているし、右側には片手で数えるほどの一軒家と崩れかけのアパート一棟、それとお世話になっているお寺しか建っておらず、その先は行き止まりだ。
微妙に言葉尻を濁すと先輩はすぐに察してくれたようで、
「そう。じゃあ墓参りとかかな。いずれにしてもすごい奇遇だね。よかったらここ座って」
「あ、はい……」
手持ち無沙汰に突っ立っていた私に着席を促してくれた。
先輩の様子が気になっていたから私としては嬉しかったけれど、あまり顔色がいいようには見えないし心配だ。
「……」
「……」
おまけにしばらく続く沈黙。
元々口数が少ない人のなので仕方がないと言えばそうなのだが、なぜこんなところにいたのか説明がないってことは先輩にもそれなりに答えにくい事情があるのかもしれない。こちらからは簡単に聞けるような雰囲気でもないので、しばし無言の時を共有していると、
「――先週の祭りの日、急に行けなくなってごめん」
気を遣ってくれたのか、先輩が唐突に口を開いた。
「いえ、気にしないでください。っていうか先輩、妙に夏祭りのこと聞いてくるから変だと思ってたら、私の従姉妹の神崎陽菜と約束してたんですね。言ってくれればよかったのに……」
若干恨みがましい目をしてそう返すと、先輩は少し笑ったようだった。
「ごめんごめん。驚かせようと思って」
「驚いたなんてもんじゃないです。おかげで寿命が縮みましたよ」
「え、そんなに?」
「当たり前じゃないですかっ。だってまさか先輩と陽菜が……」
――付き合っていただなんて。
その言葉尻は吐き出す前に飲み込んだ。
口にするとなんだか現実味が増してしまい、余計にダメージが深刻化すると思ったからだ。
まさか同じ人に二度も失恋するなんて……。
先輩はどんより落ち込む私を怪訝そうに見つめてから首を捻った。
「俺と神崎さんが……どうしたの?」
「あ、いや。なんでもないです。今さら野暮ですよね」
「……?」
惨めになるのでこの話題はやめておこう。
目を瞬いている先輩を横目に口籠もりながらも気を取り直し、本題に戻る。
「それよりあの日、何かあったんですか? 陽菜が心配してましたよ」
喧嘩になってしまったとはいえ、陽菜だって気にしていたのは事実だ。
あの時彼女はナンパだのなんだのと騒いでいたけれど、きっとそれは本心ではなかったに違いないし、私はいまだ先輩にはそれなりの理由があったと思っている。
だからこそなんとはなしに尋ねたつもりだったのだが、やはりその件になると先輩はどこか浮かない顔で遠くを見つめた。
「うん。ちょっと、ね。それについては……今はまだごめん。落ち着いたら話すよ」
儚げに微笑む先輩の表情はどこか傷ましく私の目に映る。
明確な答えが得られなかったとはいえ、そこには精一杯の誠意が込められているようで、これ以上の追及は無意味に感じた。
「わかりました。無理はなさらないでくださいね。気が向いたら話してもらえればそれで構いませんので」
「ありがとう」
「いえ。私よりも陽菜の方が……」
「あ。そうそう。神崎さんといえば……」
「……?」
「昨日かな。たまたま町で彼女を見かけて、祭りの件を謝ろうと思ったんだけど……ちょっと様子が変だったんだよね」
「え?」
ふと思い出したようにそんなことを切り出した設楽先輩。
「変って……どうかしたんですか?」
「んー。なんだろ。本当になんとなくなんだけど、目は虚ろで、話しかけてもどこか心ここに在らずって感じで、まともに会話できなかった」
「え。陽菜が設楽先輩を相手に、ですか?」
「うん。しかもよくわからない男連れてた。一人か二人」
「……」
それは確かにおかしい。
今までの人生、散々陽菜から自慢話に近い恋話を聞いてきたけれど、彼女はなんだかんだ言って一途で、うまくいかなかった時なんかは愚痴りこそしてもすぐに男を乗り換えるだなんてことは決してしなかった。むしろしつこいぐらい執着するタイプである。
設楽先輩の件だって、一回ドタキャンされたぐらいで自棄になって他の男と街をほっつき歩くようなタイプでも決してないし、男友達に相談していたというパターンもないだろう。
なぜなら、『そういう相談は高確率で相手の庇護欲を刺激しちゃうから、男友達よりも女友達を相談相手に選んだほうが絶対にいい』と、本人が豪語していたからだ。
モテる彼女のことだからきっと何か経験則があるに違いないし、真に迫っていたことを記憶している。
つまり、やはり先輩の懸念は的を射ていて、どう考えても陽菜らしからぬ行動であることは確かなのだ。
「確かに変ですね、それ」
「でしょ? 気になったけど、『連れはただの友達』って言い張ってたし、ちょっと目を離した隙にいなくなっちゃったからそれっきりなんだけど……。もし顔を合わせてたり連絡取れてるなら、なにか変わった様子とかなかった?」
「あ、えっと。それが今、ちょっと喧嘩中でして……」
痛いところを突かれ、言葉尻を濁す。
うちの複雑な家庭の事情を気軽に話すわけにもいかず、
「でも、気に留めておきます。お祭りの件は仕方のないことですし、あまり気にされないでくださいね」
とだけ伝えると、先輩は目を細め、安堵するように「ありがとう」と言った。
正直、陽菜とはもう顔も合わせたくないとまで思っていたけれど、そんな話を聞いてしまうとなんとなく気になってしまうのは事実だ。
――と、その直後、先輩の携帯電話がメッセージの受信音を奏でる。
「……ごめん。バスが来たみたい」
「これから帰るところだったんですね」
「うん。七瀬さんはこれからお寺行くの?」
「あ、はい」
「そっか。じゃあまたね」
別れの挨拶を交わし、バス停に向かう先輩の後ろ姿を見送る。
夕焼けの緋を纏って細い道を行く先輩の後ろ姿は、どこか物寂しげに見えた。
あの祭りから七日――たった一週間だけど大きく変わった私を取り巻く環境。
いまだ先輩に対する未練は消えないけれど、落ち込むたび下を向くしかなかった私はもういない。数々の苦難や挫折が自分自身を強くしてくれていたのだと改めて知ったし、好きな人の幸せを心から願えるようにもなった。
全ては成外内の神様のおかげだ。
また明日、感謝の気持ちを込めて神様にお供物をしに行こう。
そんなことを考えながら前を向き、お寺への道を歩き出した。