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 その翌日の夕暮れ時、私は商店街で買った紙パックのお酒と、おまんじゅうの紙包を携えて再び成外内神社へやってきた。

 敷地内に足を踏み入れると、杜の軒先にぶら下がったいくつかの硝子鈴が風に吹かれて微かにりんと鳴った。まるで歓迎の唄でも奏でているかのようだ。

 この硝子で作られた小鈴は確か縁結びの鈴だと誰かに聞いたことがある。長年そこにくくりつけられているためだいぶ薄汚れてはいるけれど夕焼けの緋が透明の球体に反射して、美しく光り輝いて揺れているのが眩しく目に映る。

 それを横目に神饌を神様の前に置き、お賽銭を捧げる。鈴緒を手にしてがろんがろんと重い音を夕焼けの空に響かせると、二礼、二拍手、そして。

 ――神様……。

 両手を合わせて目を瞑り、心の中で神様の名を呼んだ時のこと。

《来たか、人の子よ》

 社から声が聞こえてきてどきっとする。

 視線を彷徨わせていると、昨日と同じ着流し姿に狐の面を被った神様が、社の後ろからそっと現れた。

「神様っ!」

 やはり夢ではなかった。また会えた嬉しさで飛びつきたくなる衝動を必死に抑えつつ、地面におでこをぶつける勢いでお辞儀をする。

「こっ、こんばんはっ!」

《畏まらんでよい。まぁ座れ》

 神様はそう言って、昨日と同じ社の石段に腰をかけた。

 それに倣うように自分も腰掛け、昨晩と同じように神様と同じ方向を向いたまま口を開く。

「ご報告が遅れてすみません。ちょっと色々とありましたもので……」

 相手は神様だしもしかしたらすでに全てお見通しかもしれないと思ったけれど、きちんと自分の口から報告するのが筋だろうとそう告げると、

《よい。申してみよ》

 神様は穏やかな口調でそう仰られたので、ここに至る経緯を語る。

 神様と別れた後、叔母夫婦の家を飛び出したこと。

 図書館で時間を潰そうと思ったら、アルバイト先の山川さんに会ったこと。

 彼女と失くし物を一緒に探していたら怪しい二人組の男に絡まれ、撃退したこと。

 それがきっかけで、昨日は山川さんの自宅にお邪魔させてもらったこと。

「変な人たちに絡まれた時はどうしようかと思いましたけど……神様がよりよい方向にご縁を結んでくれたおかげで、野宿せずにすみました。本当にありがとうございました」

《ん?》

「……?」

《いや、ちょっと待て》

「え?」

 まずは感謝の気持ちを述べようとした私に、神様は怪訝な声色を挟む。

《山川という娘の件は……まぁ、その、ごほん、ともかくとしてだな。そんな二人組の男、私は知らぬぞ》

「へっ⁉」

 神様の唐突なカミングアウトに耳を疑う。

「え、えっ。で、でも……」

《確かに『死んだ気になって』とは言ったが、まだ約束を半分も果たしておらぬおぬしをわざわざそんな危険な目にあわせるわけがなかろう》

「え……ええええー⁉」

 思わず素っ頓狂な声をあげる私。

 あれは神様の結んだご縁ではなかったのかという驚きと、自分では閊えをクリアにしていたつもりだったがまだ半分も果たしていなかったのかというダブルの驚きで、つい目を白黒させる。

「そ、そんな! てっきり私……」

《まったく、いくら私がいるといえ、できることには限りがあるのだ。無茶をするんじゃない》

「ご、ごめんなさい」

 思いのほか、真剣な声色で注意されてしまった。

 そりゃそうだよね。生まれ変わらせてくれるとは言ったけれど、だからといって私だけ何か特別扱いするようなことはできないだろうし。

 もう少し慎重に、謙虚に行動しよう……。

《まぁ無事だったんなら今回の件はそれでよい。……それで、その後は?》

「あ、はい。その後は……山川さんのご両親にお会いして、それで……」

 私はそれからの出来事を順を追ってご報告した。

 山川さんのお宅にお邪魔し、手厚くもてなされたこと。

 その後、住職をされている山川さんのおじいちゃんのところに案内され、家庭の事情を相談した結果、お寺の宿坊と呼ばれる宿泊施設にしばらくは無料で身を寄せさせてもらえるようになったこと。

「もちろん、ずっとお世話になるわけにはいかないんですけど。でも、しばらくは朝早くお寺のお掃除をしたり、修行中のお坊さんたちと一緒にお経を唱えたり、座禅を組んだり、炊事のお手伝いをすることを条件にそこに居候させてもらえることになったので、そちらに身を置かせてもらってる間に気持ちの整理をつけて、落ち着き次第、専門の相談所に連絡しようと思っています」

《そうか。そこまで決めておったか》

「はい。もし専門の施設へ保護される場合、しばらくは自由に外出ができなくなると聞いたので、今のうちに母のお墓やお世話になったアルバイト先の方々にそれなりのご挨拶をしておこうと思ってます」

 ぽつん、とそう告げると、神様は噛み締めるように《そうか……》と呟いた。

「もちろん、アルバイト先の方たちに家庭の事情までは話せないですけど、せめて自分の口から辞めることぐらいは伝えておきたいんです」

《なるほど。よい判断だな》

 背中に柔らかい声が降ってくる。

 この考えには神様も賛成のようでほっとした。

 ――とはいえ、不安の種は尽きない。

 無事に保護してもらえるのかとか。

 施設に入れてもらえたところで期限を過ぎた後はどうなるのだろうかとか。

 そもそも施設に相談するまでの間、叔母さんや陽菜に居場所を突き止められて何か報復されたりしないだろうかとか。

 考え出したらキリがないが、叔母さんに関しては、何よりも世間体を気にする彼女のことだから外にいる限り度を超えるような乱暴や嫌がらせはされないだろうと結論づけて、自分自身を鼓舞するしかないだろう。

《母親か……》

 そんなことを考えていると、ふと、神様が呟きを漏らした。

「はい」

《確かこの界隈の事故で亡くなったんだったな?》

「あ、えっと……。場所は確かにこの近辺なんですが、事故で亡くした、というより私が殺したようなものなんです」

《……ほう?》

 そういえば神様には、『自分のせいでたった一人の肉親を失った』とは言ったが、その辺の経緯を詳しく話していなかった。

 といっても神様のことなのできっと何もかもお見通しなのだろうとは思ったけれど、改めて事情を説明することにする。

「私が保育園児の頃、園のイベントで家族ぐるみのバーベキューパーティーがあって、それで……」

 眼下に広がる夕暮れの街並みをぼんやり眺めながら、私は過去の記憶を辿った。