魔術学園に行くと決めた日から、着々と準備を進めた。
 王立ハーベスト魔術学園の入学試験は、ちょうど三ヶ月後らしく、現在は出願期間だという。
 その間に王都ブロッサムまで行き、出願を済ませて入試に臨むことになるらしい。
 そのために私はますます魔法の勉強に精を出し、さらに実戦形式の訓練にも手を出し始めた。
 マルベリーさんによると、魔術学園の入学試験は毎年、筆記試験の他に魔獣との戦闘を想定した実技試験もあるらしい。
 だから今の内から実戦に慣れておけば、試験が幾分か楽になるとか。
 それにどうやら重視されるのは実技試験の方らしい。
 魔術師は魔法技術を発展させる存在ではあるものの、元来は魔獣討伐を生業とする人たちのことを指すから。
 まあ座学だけじゃ退屈になっちゃうし、体を動かして魔法を学べるならそっちの方がいいよね。

「入学試験を見越して、サチちゃんには森に出てくる小さな魔獣を倒してもらおうと思います。いつもは私が行っているんですけど、今日からはサチちゃんにお願いしますね」

「うん、任せておいて!」

 そんな感じでマルベリーさんのお手伝いと訓練を両立させつつ、入試の準備を進めた。
 まさか魔獣討伐のお手伝いまでさせてもらえるとは思わなかったけど、森の主を一撃で倒したことで私の力を認めてくれたらしい。
 一人で森を徘徊しても大丈夫だろうという判断のようだ。
 それからというもの、私は家でマルベリーさんに魔法を教えてもらい、それを魔獣討伐にて実戦する日々を繰り返した。
 そして魔術学園への入学出願期限まで、残り一ヶ月となった頃。

 いよいよ出発の日となった。

「忘れ物はありませんか?」

「うん、たぶん大丈夫」

 私はマルベリーさんからもらったお揃いのローブを靡かせながら、背負ったバッグの中を改めて確認し、マルベリーさんに頷き返す。
 ついでに懐の中にも手を入れて、分厚いお財布が入っていることも確かめておいた。
 これは入学資金に充ててほしいとマルベリーさんが渡してくれたお金だ。
 どうやら国家魔術師時代に相当な額のお金を貯め込んだらしい。
 でもこの森に閉じ込められていることもあり、使い道がまったくなかったそうだ。
 それをようやく使う機会が訪れたということで、意気揚々と貯金を引っ張り出してきたのは記憶に新しい。
 これでしばらくは生活には困らないと思う。
 何から何まで与えてもらって、またマルベリーさんに大きな恩が出来てしまった。
 その恩返しをするためにも、気合を入れて入学試験に挑まないと。

「んじゃあ行ってくるね」

「はい、行ってらっしゃい」

 背中のバッグを背負い直して、私は十年間過ごした家に背中を向けようとした。
 でも、その寸前で、マルベリーさんの表情が視界の端っこに映る。
 相変わらず感情の起伏が窺いづらい無表情。
 と思ったら、なんだか落ち込んでいるように眉を落としている気がした。

「どうしたのマルベリーさん?」

「あっ、いえその、自分で提案したことなのに、いざその時になると、やっぱり思うところがあるというか……」

「……?」

 最初はその言葉の意味がわからなかった。
 自分で提案したこと? いざその時?
 しかしすぐに台詞の意味を理解して、私は思わずにやけてしまう。

「なになにー? もしかしてマルベリーさん寂しいのぉ?」

「うっ……」

 魔術学園に行ってみないかと提案してくれたのはマルベリーさんだ。
 でもいざ私がお家を出て行くとなったら、寂しくなってしまったらしい。
 まあそもそも、捨てられた私を拾ってくれたのは、この森で一人でいるのが寂しかったからって言ってたもんね。
 またマルベリーさんは独りぼっちになってしまうのだ。

「うーん、マルベリーさんがどうしてもって言うなら、まだ少しだけここにいてもいいんだけど。でも早くマルベリーさんをこの森から出してあげたいからなぁ」

「い、言いませんよ。子供じゃないんですから」

 マルベリーさんは仄かに頬を赤らめてムッとした。
 こうしてマルベリーさんを揶揄うことも、しばらく出来なくなっちゃうのかぁ。
 密かに残念な気持ちになっていると、次いでマルベリーさんは申し訳なさそうにしゅんとした。
 今日は珍しく、マルベリーさんの色んな表情が見れる。

「これ以上サチちゃんをこの森に留めておくのも、すごく心苦しいと思っているんです。これまで私が、サチちゃんのことをこの森に縛り付けていたと言っても過言ではありませんから。サチちゃんには早く、広い世界を見てもらいたいんですよ」

 この森に縛り付けていた、か。
 私はそんな風に思ったことないんだけど。
 でもどうやら責任を感じているらしい。

「マルベリーさんは何も悪くないよ。私は好きでこの森の家にいたわけだし、ここまで育ててくれたことに感謝しかしてないんだから、マルベリーさんはもっと胸を張っていいんだよ」

「……サチちゃん」

「せっかくの大きなおっぱいがもったいないじゃん」

「今の私の感動を返してください」

 すっかり見慣れたジト目の睨みをもらい、私は“てへっ”と僅かに舌を見せる。
 あの日、グラシエール家から捨てられて、森の魔獣に襲われた時。
 マルベリーさんが助けに来てくれなかったら、私の人生はそこで終わっていた。
 その後、マルベリーさんが家に置いてくれて、ご飯を食べさせてくれなくても、私の命はそこで途絶えていただろう。
 私はマルベリーさんに生かされて、マルベリーさんのおかげで今こうして笑うことができているのだ。
 だから……

「私の恩返し、期待して待っててよね」

「……はい」

 そうしてようやく私は、マルベリーさんに背中を向ける。
 目の前にはただ森の道だけが伸びていて、後ろからはマルベリーさんの熱い視線を感じた。
 この道を進み始めたら、もうしばらくはマルベリーさんの顔を見ることができなくなる。
 そう思った途端、私の胸中に色んな感情が生まれた。
 瞬間、私は後方を振り返って、飛びつくようにマルベリーさんに抱きついた。

「サ、サチちゃん!?」

「マルベリーさん成分ちゅーにゅー」

 仄かに甘い香りに鼻腔をくすぐられながら、私は力一杯マルベリーさんに抱きつく。
 どれくらいそうしていただろうか。
 たぶん十秒にも満たないくらいだっただろうが、それだけで私は元気を取り戻すことができた。
 顔を上げるとそこには、私の大好きな、恥ずかしがっている様子のマルベリーさんの赤面があった。
 最後にこれを見られて幸運だと思う。

「行ってきまーす!」

 今度こそ私はマルベリーさんに背を向けて、森の道を走り出した。
 あぁ、柄にもないことをしてしまったと、今さらながら顔が熱くなってくる。
 たぶん私も緊張しているんだ。
 実家で冷遇されていた短い時を除き、咎人の森から出るのはこれが初めてになる。
 一人で外の世界に触れるのは未体験の領域だ。
 それに、マルベリーさんに魔法の基礎は叩き込んでもらったけど、魔術学園の入学試験に合格できるかどうかはわからない。
 私の能力は、普通の魔術師とはかけ離れたものになっているから。
 本当にこの力は通用するのだろうか。国家魔術師になることができるのだろうか。
 それらの不安を誤魔化すために、私はあんな真似をしてしまった。
 そんな言い訳を誰に言うでもなく心の中でこぼしていると、突然道の脇から黒い影が飛び出してきた。
 私は咄嗟に足を止めて、その黒い影を注視する。

「グルウウウゥゥゥ!」

 一言で例えると黒い狼。
 針のように尖った黒毛。人間の大人を優に越す巨躯。刃物のように鋭利な牙と爪。
 この辺りでは見ない珍しい魔獣だった。
 と思ったら、その姿にはどこか見覚えがあった。

「あれ? 君、どっかで見た顔だけど、もしかしてあの時の魔獣の息子くんか何か?」

「グルウゥゥ!」

 私がこの森に捨てられた直後、すぐに襲い掛かってきた黒狼の魔獣。
 あの時は怖くて動けなくて、マルベリーさんが助けに来てくれなかったら食い殺されていただろうけど……

「グラアアアァァァ!!!」

 当時の記憶を思い起こさせるように、黒狼はまったく同じ要領で飛び掛かって来た。
 対して私は、体が竦んで動かなくなってしまうということはなく、今度は自信を持って魔獣と向き合う。

「【生か死か――死神の大鎌――ひと思いに敵の首を刈り取れ】」

 これが私の、成長した証だ。

「【悪魔の知らせ(デス・ノーティス)】!」

 瞬間、右手から怪しい光が放たれた。
 同時に漆黒のモヤが黒狼の全身を包み込み、僅かに呻き声を漏らす。
 すると黒狼は飛び掛かってきた勢いのまま、私の横をただ通り過ぎて、雑に地面に倒れてしまった。
 視線を落とすと、黒狼はすでに息をしていなかった。
 これが私の得意魔法――即死魔法の【悪魔の知らせ(デス・ノーティス)】。

「マルベリーさんに焼き焦がされなかっただけ、マシだと思ってよね」

 あの時のマルベリーさんと同じように一瞬で黒狼の魔獣を倒すと、私は再び森の道を駆け出した。
 この力で私は魔術学園の入学試験を突破する。
 そしていずれは国家魔術師として名前を揚げて、マルベリーさんを咎人の森から解放してあげるんだ。
 よしやるぞー! と意気込みながら、私はおよそ十年ぶりに深い森を出た。



――――――――



 マルベリー・マルムラードは、遠ざかる愛弟子の背中を見つめながら密かに思う。

(また、独りぼっちになっちゃいました)

 賑やかな時間がまるで嘘だったみたいに、今は辺りが静けさに包まれている。
 マルベリーは生まれた時からこの独りぼっちの静けさを耳に馴染ませていた。
 元々マルベリーは、身寄りのない捨て子として、孤児院を兼ねた教会で育てられていた。
 その中で彼女は、唯一他の子供たちと歳が上に離れていて、集団に馴染むことができなかった。
 元より人見知りな性格なので、歳の差がさらに彼女を隔絶させる要素となったのだ。
 やがて孤児院を離れることになった時も、マルベリーは相変わらず独りぼっちだった。

『みんなには他の教会に移ってもらうね』

 お世話になっていた教会が、資金不足で孤児院としての活動を維持できなくなった。
 子供たちは各地の別の教会に移ることになったのだけれど、当時最年長だったマルベリーは順番を最後に回されて、一人だけ移転先が決まらずに教会に残っていた。
 それを心苦しく思ったマルベリーは、それ以上の長居を避けるために思い切って独り立ちを決意する。
 自分に魔法の才能があることも知っていたので、彼女は生きるために仕方なく魔術師としての道を歩むことにしたのだ。

『また、独りぼっちになっちゃいました』

 そして彼女は若くして、魔法で日銭を稼ぎながら、その日その日をとりあえず生きるような生活を送った。
 生まれながらにして魔素の声が聞こえる特殊な体質を持っていたこともあり、マルベリーは孤児院時代にあらゆる魔法を習得していた。
 だから仕事は、探せばそこそこにはあった。でもあまり快適な日々だったとは言い難い。
 資格を持たない魔術師が、魔法だけで食べていくのは相当難しいことだから。
 何よりマルベリーは当時、まだ十二歳という物事をあまり知らない少女だったため、完璧に独り立ちしろというのが無理な話だ。
 それからやがて彼女は、魔術学園への入学を決意することになる。
 その理由としては、生活基盤を安定させるために国家魔術師の資格を取りたいと思ったのもそうだが……
 “魔導師”としての力が暴走してしまい、必要以上に魔素の声が聞こえるようになってしまったからだ。

『うぅ……静かに……静かに、してください……!』

 魔素の声が必要以上に聞こえるというのは、常人では想像できない類の苦痛だった。
 四六時中、理解不能な声が大音量で、脳内に直接響き渡るような感覚。
 日増しにその音は大きくなっていき、止める術も抑える方法もマルベリーは知らなかった。
 どうすれば魔素の声を止めることができるのか。止めることはできないまでも抑えることはできないのか。
 そもそもどうして自分にはこんな力があるのか。
 独りぼっちの運命を嫌がった自分が、寂しさを紛らわせるために魔素の声を無意識に求めてしまったのだろうか。
 マルベリーはそんな風に自分を疑いすらした。
 それらを調べるために、マルベリーは魔術学園への入学を決めたのだった。
 ただ、そこでもやはりマルベリーは、相変わらず独りぼっちだった。

『あいつ、魔素の声が聞こえるんだってよ』

『魔導師ってやつでしょ。近くにいたら災いが起きるんだってさ』

『気味悪いよね。なんか一人でブツブツ言ってるし』

 魔導師の力を抑える方法を教わるために魔術学園に入学したので、必然自分が魔導師ということを学園側に伝える必要があった。
 するとどこからかその情報が漏れてしまったらしく、瞬く間に学園中にマルベリーのことが広まってしまった。
 魔導師という異端の力を持っていることを。
 そして魔素の声に苦しむ様子のマルベリーを不気味がり、学園の生徒たちは誰も近寄ろうとしなかった。
 結果的に卒業までに魔導師としての力を抑える方法はわかったものの、マルベリーは学園生活をずっと孤独なまま過ごした。
 そして卒業後、国家魔術師になった後も、マルベリーの孤独な日々は続いた。
 たった一人で魔素の声と向き合う毎日。
 新しい魔法を生み出して、それを研究会に発表し、また魔素の声を聞き届ける。
 魔法の研究自体は好きなので、それを苦に思ったことはなかったが、どこか心に穴が空いたような毎日だと思っていた。
 そんなある時、巨大魔獣の群れによる大災害が王都に降り掛かった。

『魔導師による災いだ!』

 原因不明の大災害に見舞われて、都の人たちは魔導師のマルベリーに疑いの眼差しを向けた。
 過去に同じように魔導師の住む町に魔獣被害が起きたこともあり、マルベリーが原因だという声を誰も疑いすらしなかった。
 そしてマルベリーは人里を追い出されて、咎人の森に幽閉された。

『また、独りぼっちになっちゃいました』

 生まれた時も独りぼっち。孤児院でも独りぼっち。学園でも独りぼっち。
 そしてついには、魔術国家オルチャードでも独りぼっちになってしまった。
 でも、独りぼっちになるのは慣れっこだ。
 だから全然大丈夫。
 独りぼっちになるなんて、いつものこと……

『う……うぅ……!』

 いつものこと……ではなかった。
 独りぼっちなのは前から変わらないけれど、誰かに存在を否定されるのはこれが初めてだった。
 それがよもや国中の人間から拒絶されて、薄暗い辺境の森に閉じ込められるだなんてまるで思ってもみなかった。
 一人は好きだ。むしろ誰かといると落ち着かない性格だから。
 だがさすがに、周囲におぞましい魔獣が蔓延る、安全が保証されていない閉鎖的な空間で、ただ一人孤独な戦いを強いられるのは心が参る。
 何よりこの先一生、人里に立ち入ることはおろか、この薄暗い森を出ることすらできないというのは、想像を絶する孤独感があった。
 ただただ単純に寂しい。
 そして一年半もの間、マルベリーは人と顔を合わせることもなく、ただ湿っぽいこの森でたった一人の時間を過ごした。
 彼女は、生きる目的や希望を、完全に見失っていた。
 一時は自らこの命を絶とうとまで考えたほどだ。
 そんな時……

『誰か……助けて……!』

 森の中で、久方振りに他人の声を聞いた。
 マルベリーにとってこれが、初めての幸運だったと言えるだろう。
 魔術師の名家から捨てられた少女、サチと出会った。
 自分と似た境遇の少女ということで見捨てることができず、何より誰かと話をするのがこれほどまでに心を満たしてくれるのだと改めてわかり、マルベリーはサチを拾うことにした。
 それからというもの、空虚だった日々に暖かいお日様が差したかのように、とても楽しい毎日になった。
 サチは神様に愛されているのではないかと思うくらい、幸運に満ちた存在だった。
 何をするにも運が味方についてくれて、悪い日というのが一日もなかったように思う。
 怪我や事故や病気がないのは当然と言わんばかりで、森の奥地まで出掛けようとなった日は必ず天気が良くなるし、木の実拾いや香草採取を手伝ってもらう時は、半年に一度見るか見ないかの超希少物が確実に手に入っていたし。
 パンを落としてもジャムを塗った面ではなく逆側が必ず下になる、どころか上手い具合に皿まで落ちて割れることなくパンをキャッチするほどだし。
 見ていて飽きることがない存在だった。
 果てには欠陥だらけと言われている確率魔法を確実に成功させて、賢者とまで呼ばれた自分をあっさりと追い抜いていくし。
 そんな愛弟子を見送り、マルベリーは今一度思う。

(また、独りぼっちになっちゃいました)

 しかし、もう寂しくはない。
 なぜならマルベリーは、本当の意味での独りぼっちではなくなったから。
 明るい未来を確信して、マルベリーは静かに微笑み、愛する弟子の帰りを森の家で待つのだった。