一人の赤子を前に、大勢の大人たちが集まっていた。
 彼らの目は期待に満ち溢れたように輝き、赤子を一点に見つめている。
 すると眼鏡を掛けた堅実そうな魔術師が、赤子の元まで歩み寄り、さっと右手をかざした。

「サチさんの魔力値は……『1』です」

 魔術師がそう言った瞬間、周囲の期待の眼差しは驚愕のものに変わった。
 赤子の父――キュルビス・グラシエールも、目玉が飛び出しそうなほど瞳を大きく見開き、体を小刻みに震わせている。
 対して赤子――サチ・グラシエールは、不穏な雰囲気だけを感じ取ったのか、年相応にわんわんと泣き始めた。
 泣きたいのはこちらの方だと、父は思わざるを得なかった。

 魔力値とは、魔法を使った際の力の強さをあらわしている。
 魔術師の才能と言い換えてもいい。
 そしてここ『魔術国家オルチャード』では、魔術師としての才能がすべてと言っても過言ではないのだ。
 数多くの凄腕魔術師を輩出し、魔法技術の発展と共に軍事力と経済力を大幅に成長させた国家。
 魔術師の育成に力を入れており、魔法の才能が血筋によるところが大きいことからも、魔術師の家系を優遇している。
 グラシエール侯爵家もそのうちの一つだ。
 古くから一流の魔術師を多く輩出して、国の発展に貢献し、社会的な特権や地位を与えられた。
 その立場を維持するためにも、グラシエール家は子の才能を伸ばし、魔術師として巣立たせなければならない。
 だが、グラシエール侯爵家の長女として生まれたサチは、『魔力値1』という絶望的な結果を叩き出してしまった。

「な、なぜだ……俺の子のはずだぞ……」

 父のキュルビスはいまだに鑑定結果を受け入れられずに放心している。
 そして何かの間違いだと言うようにサチの元に駆け寄り、堅実そうな魔術師に変わって今度は自ら鑑定魔法を使った。
 グラシエール家の伝統であるこの『鑑定式』では、交流のある名家の人間たちに子供の魔力値を披露することになっている。
 起源は様々だが、現在では子の才能を見せつけることで、名家としての品格を誇示することが密かな目的となっている。
 そんな鑑定式では第三者の国家魔術師――『魔力鑑定士』による魔力鑑定が必須なのだけれど、キュルビスは結果を認められずに自分の手で娘の才能を見ることにした。
 グラシエール侯爵家の現当主ゆえ、キュルビスも国家魔術師の資格とその実力を備えている。

「バ……カな……」

 しかしそんな彼が見たとしても、やはり結果は変わらなかった。
 サチの魔力値は1である。

「こんなにも小さな魔素は見たことがない。魔素の数は普通だというのに、なぜ魔力値だけ……」

 魔素。
 人の体内には『魔素』と呼ばれる不思議な力が宿っている。
 魔素は宿主の声――詠唱を聞き取り、それに応じて超常的な現象を引き起こしてくれるのだ。
 それこそが『魔法』。
 ゆえに魔法の威力は魔素の大きさに直結している。
 体内の魔素が大きいほど、魔法を使った際の威力は大きくなる。
 そして魔素を多く宿していると、それだけ数多くの魔法を使うことができるのだ。
 他にも魔素の色や性格を見ることで別の素質も知ることができる。
 そしてサチの場合は、魔素の数こそ普通なれど、その大きさが砂粒ほどしかなかった。

「これでは、魔法を発動させることはできても、まるで威力が発揮されないではないか」

 魔力値が100で魔素数が二十個だとしたら、100の威力の魔法を二十回使えることになる。
 逆に魔力値が1でも魔素数が百個あったとしたら、1の威力の魔法を百回使えることになるのだ。
 だがそれは、慰めにもならない。
 一般的な魔術師が初級魔法【燃える球体(フレイム・スフィア)】を使った際は、手の平から火の玉を出すことができるが、サチが使った場合はマッチにも満たないトロ火しか出すことができないだろう。
 そんなものを百発撃てたところで何の意味もない。やはり重要なのは魔素の大きさだ。
 だが、魔素の数は特訓次第で増やすことはできるものの、大きさは先天的に決まってしまっている。
 その大きさに関係しているのが親の魔素となり、親が大きな魔素を持っていると子供にも大きな魔素が宿るとされている。
 しかしどういうわけかサチには、その才能が受け継がれなかった。ゆえにこれ以上の魔力向上はどうしたって見込めない。

「ですがその代わりに、幸運値は『999』となっております」

「999?」

 魔力鑑定士のその言葉を受けて、キュルビスは眉根を深く寄せた。
 鑑定士は魔素の性質を見て、魔法の才能を数値化している。
 そんな彼の見立てでは、サチの魔力値は1だけれど、幸運値は999という並外れた結果らしい。
 国家魔術師の平均的な魔力値は150で、幸運値はせいぜい50といったところなので、確かに驚異的な数値であることに間違いはない。
 だが……

「こ、幸運値が999で何の意味がある! 魔術師にとってはまるで不要な才能ではないか!」

 そう。幸運値が高いからといって、それがなんだという話である。
 魔素の“輝き”によってその者の運の良さ……『幸運値』を測ることはできるけれど、魔術師には無用の産物だ。
 幸運値が高いからといって魔法の威力が上がるわけではない。
 日常生活で多少は良いことがある、というくらいである。
 ゆえに幸運値999と聞いた周りの者たちは、くすくすと小さな笑い声を漏らしていた。
 この度の鑑定式は、グラシエール家で初めての恥晒しの場となってしまった。

「グ、グラシエール家の面汚しが……!」

 この時より、サチへの期待は完全に消え去り、家内での扱いもぞんざいなものに変わった。



 三年が経ち、サチに物心がつき始めた。
 そして彼女は次第に、自分が冷遇されていることに気付き始める。
 そうと思ったきっかけは、一つ歳上の兄の存在だった。
 兄――マイス・グラシエールは、自分とは違って、グラシエール家の人間に相応しく魔法の才能が充分にあった。
 そして父から溺愛されており、あらゆるものを買い与えられていた。
 欲しがったものは当然ながら、明らかに不必要な宝石や装飾品、広めの個室や専属の家政婦十数人など。
 その他にも勉学のための筆や紙、書籍の類もふんだんに揃っている。
 屋敷の隅の小さな部屋で、ボロ布のような服を着せられて、最低限の生活だけをさせてもらっている自分とはまるで違う扱いだ。
 何よりも、年端もいかないサチに格差を感じさせたのは、兄マイスに献上されている豪華な食事だった。

「……おいしそう」

 グラシエール家の屋敷の厨房は、サチの部屋のすぐ近くにある。
 そこから漂ってくる良い香りに、サチはいつも誘われてしまい、厨房のドアの隙間を覗いて兄の食事を羨ましそうに眺めている。
 照り輝いたお肉に新鮮なお魚。水々しくてハリのある果実だけでも分けてもらえないかと、固いパンと薄いスープだけを口にしているサチは思わずにはいられなかった。
 おかげで肉付きの兄とは正反対にサチは細々としていて、櫛を入れているはずの銀髪も栄養不足で色艶がほとんどない。
 しかしサチは、自分がこのように冷遇されているということを、幼いながらも納得していた。
 なぜなら自分には、魔法の才能がないから。
 この国において……魔術師の名家グラシエール家にとって、“魔法の才能”は“人間の価値”そのもの。
 だから才能無しの自分は価値のない人間なのだ。
 それなのにこうして家に置いてもらって、ご飯を食べさせてもらっているだけでも充分すぎる。
 それにいずれは家政婦さんたちと同じように、家の手伝いもさせてもらえて、その成果に応じて学校に通わせてもらうこともできるそうなので、サチはそうできる日を今か今かと心待ちにしているのだ。
 ゆえにサチはこの現状に満足し、平穏な日々が過ごせることに深く感謝をしていた。

 しかし月日が経ち、サチが五つになって間もなくの頃――
 その生活は一変することになる。
 兄が、名家の集いで知り合った友人と、屋敷内で遊んでいる際のことだった。
 マイスは父の部屋に黙って入り、中に飾ってある宝石やら骨董品を友人に見せることにした。
 その時に誤って、父が大事にしている壺を落としてしまい、派手に割ってしまった。
 その壺は先祖代々より受け継がれている、国から贈呈された記念品らしい。
 するとマイスは、父に叱られるのが嫌だったのか、こんな嘘を吐いた。

「サ、サチが壊しました」

 普段から交流のない出来損ないの妹を、身代わりに使ったのだ。
 六つの男児が必死に頭を回したとするのなら、妥当な誤魔化しだったとも言えるだろう。
 さらに説得力を高めるために、こんな一言も付け加えた。

「わ、私と違って冷遇されていることに腹を立てて、父上が大切になさっている壺を砕いているところを見ました」

 父キュルビスは当然、怒り心頭でサチの部屋に押し掛けた。
 そして溺愛している兄の言葉を容易に信じて、サチに罵声を浴びせた。
 今回の一件だけでなく、これまで募らせてきた不出来な娘への怒りも含めて、キュルビスは尽くせる限りの罵詈雑言を放った。
 それに対してサチは……

「な、何のことでしょうか?」

 当然ながら、訳がわからずに小首を傾げた。
 身に覚えのない罪で叱責されて、彼女はひどく困惑した。
 するとその態度がますます癇に障ったようで、キュルビスは一層熱を上げてサチを罵った。

「恍けるな! 自分が冷遇されているからと私の壺を割ったのだろう! せめてもの情けでお前のような無能でも屋敷に置いてやっていたというのに、なんと腹立たしい娘なのだ!」

 そしてキュルビスは、いよいよ募りに募った怒りを爆発させた。

「サチ、お前をこのグラシエール家から勘当する! 二度とその惚けた面を私たちの前に見せるな! おい、御者に馬車を出させてこいつをどこぞの森にでも捨ててこい!」

 こうしてサチはグラシエール家を追い出されてしまった。
 誰も彼女のことを庇おうとはせず、この件の火種を蒔いた兄も他人事のようにサチが連れて行かれるところを眺めていた。
 むしろ自分の罪が明るみにならずに済んで、深く安堵している様子すら見えた。
 やがてサチを連れた馬車は深くて暗い森に辿り着き、急かすようにサチを下ろした。

「も、申し訳ございませんサチ様!」

 主人の命令には逆らうことができず、御者はサチを残して早々に馬車を走らせた。
 一人ぼっちになったサチは、自分が置かれた状況を必死に理解しようとした。

「ここ、どこ……?」

 人気のない暗い森。
 そこに何も持たされずに置いて行かれてしまった。
 お金はもちろんのこと、火を起こす道具やらナイフもない。
 薄汚れた衣服だけを身に纏った、ただの細身な銀髪少女がそこにいるだけだった。
 五歳の頭でも、自分が家を追い出されてしまったということは少なからず理解できた。
 そしてどうしてこの場所に置いて行かれて、御者が逃げるように馬車を走らせたのかも、やがて知ることになる。

「グガアアアァァ!!!」

 サチがその場で立ち尽くしていると、どこからか獣の呻き声が聞こえてきた。
 そしてその声の主はすぐに木陰から姿を現した。
 針のように尖った黒毛。人間の大人を優に越す巨躯。刃物のように鋭利な牙と爪。
 黒狼の姿をした巨大な怪物が、餌を求めてやってきた。

「ま……魔獣……!?」

 魔獣。
 世界各地に蔓延る獰猛な獣たち。
 基本的に肉食のものが多く、特に人を好んで食らう習性を持っている。
 というのも、魔獣は人間と同じように魔素を宿していて、魔素を利用することで様々な力を発揮することができる。
 そして人を食らうことで体内の魔素を成長させることができ、その味が魔獣にとって至極の美味であるとされているのだ。
 ゆえに魔素を持っている人間の匂いに敏感で、この黒狼もサチから放たれる魔素の気配に誘われてやって来た。

「たす……けて……!」

 魔獣は魔素を帯びた硬質な皮膚――『魔衣(まごろも)』を持っている。
 そのため剣や爆薬が効きづらく、一般的な討伐方法では傷一つ付けることができない。
 魔衣という防護膜を剥がすのに最も効果的なのは、魔素を利用した魔法による攻撃だ。
 ゆえに古くから魔獣討伐を担ってきたのは魔術師であり、昨今も魔獣殺しを生業としている魔術師は数多く存在する。
 だがサチは、そんな魔術師の名家に生まれながら魔法の才がなく、どころかナイフの一本も持っていないため勝ち目なんてまるでなかった。

「誰か……助けて……!」

 ハッハッハッと息を荒くして涎を垂らす黒狼に、サチは心の底から恐怖する。
 逃げ出そうと思ったけれど、恐ろしさのあまりに身がすくんでまったく動くことができなかった。
 そしてサチは理解する。自分が家を追い出されただけではなく、完全に捨てられてしまったということを。
 無能は消えろ。役立たずは死ね。そう言いたいのだとサチは悟った。
 巨大な黒狼が、サチの小さな体に飛び掛かる。

「【敵はすぐそこにいる――紅蓮の猛火――一球となりて魔を撃ち抜け】」

 刹那、どこからか女性の美しい声が響いてきた。

「【燃える球体(フレイム・スフィア)】」

 同時に、凄まじい勢いで黒狼の横腹に真紅の火球が直撃し、巨躯が森の彼方まで吹き飛んでいく。
 黒狼はその一撃を受けただけで息絶えて、完全に動かなくなってしまった。
 目紛しく変わる状況に、サチが思わず放心していると、やがて黒狼を吹き飛ばした人物が森の闇から姿を現した。
 狼の毛よりも真っ黒なローブ。華奢でありながら女性らしい体つきをしたシルエット。
 その人は目深まで被っていたフードを取り払い、三つ編みにした黒髪を揺らしながら、表情のない美顔を覗かせてきた。

「大丈夫ですか、お嬢さん?」

「……」

 サチにとってこれが、初めての幸運だったと言えるだろう。
 賢者マルベリーと出会った。