奥さまと八代の逢い引きを、又吉と二人で見てしまったその日から、どうにも離れられなくなった。

情を交わす二人の様子を、月明かりの下で盗み見た。

早く逃げ出してしまいたかったのに、手を掴んで離さない又吉のせいで動けなかった。

そういえばあの日の晩も、こんな大きすぎる満月の夜だったっけ。

「こんな奴らのことなど、何とも思ってはおりませぬ」

 声に出して言ってみて、益々馬鹿らしくなった。

「……こんな奴らって、どいつのことだよ」

 いいことなんて、何にもなかった。

貧しい水呑百姓の生まれだ。

気がつけば泥にまみれて暮らしていた。

土を掘り、草を抜き、日に焼かれるだけの日々が過ぎてゆく。

そうしなければ生きてゆけぬから、ただ目の前の、やれと言われたことだけをやってきた。

その理由なんて考えたこともない。

それでも町の枝豆売りや茶屋娘などより、よっぽど良い身分だと信じて疑わなかった。

馬鹿だった。

 田畑の間を走り回っていた。

幼い時分には、石を見つけて投げ捨てるだけでほめてもらえた。

百姓として生きることに、なんの疑問を抱いたこともない。

若旦那や八代に顔を覚えられていたのをいいことに、両親が村名主である旦那さまに奉公の話しを持ちかけた。

なかなかに渋られていたのが、一昨年にようやく雇ってもらえた。

 うれしかった。

地を這うような野良仕事から解放された。

毎日まともな着物を着て掃除や洗濯に明け暮れた。

これでお給金までもらえるだなんて。

そんな人生を想像したこともなかった。

一生懸命に働いた。

食うにも困らなくなった。

次の年季も勤めないかと言われ、天にも昇るような気分だった。

 この前の秋の出替りで、お富が入ってきた。

ずっと働いていたお松さんの代わりだ。

四十を超え、お役御免を申し出たお松さんと違って、十を過ぎたばかりのお富には手を焼いた。

知恵も回らず力もないお富に、あれこれと仕事の要領を教えるのには骨が折れた。

まだ遊びたい盛りだ。

殴りつけたこともある。

怒鳴り散らしたこともある。

投げつけた薪で怪我もさせた。

だけどそれで、こんな恨みを買うこともないじゃないか。

野良仕事で泥の中に埋められるより、よっぽどマシだ。

お富と又吉が恋仲だろうがなんだろうが、あたしは知らない。どうだっていい。

だけど、少しでも世話を受けた相手に向かって、どうしてこんな仕打ちが出来るのだろう。

 又吉のことは何とも思っていないと、何度説明しても誰も耳を貸さなかった。

調子にのるあの男の顔を見るたびに、吐き気がした。

便利に思っていたことは間違いない。

又吉に頼めば大概のことはやってもらえた。

 誰の邪魔にもならないように、誰の迷惑にもならないようにと、そうやって生きてきた。

自分は不幸なのだと、誰からも認められるような困難もなく、かといって幸せかといわれれば、そうでもない。

どうすれば幸せになれるかだなんて、そんなことを考えたこともなかった。

 今ではもう、遠い昔の話しだ。

あぜ道を裸足で走り回っていたら、屋敷へ招かれた。

何事かと思い誘いに乗ってみれば、ほぐした鯛を混ぜた握り飯が差し出された。

「昨晩、若旦那の祝言があってね。その祝い膳の残りだよ」

 まだ若かりし頃の奥さまが自ら差し出したそれは、塩のよく効いた握り飯だった。

その座敷の奥に干されていた真っ白な打掛の艶やかさが、今も目に焼き付いている。

染み一つ無い純白の、その汚れ無き白に憧れた。

 眼前の月が眩しく輝く。

目の前を大きな蛇が横切った。

冷たい鱗がぬめりと光る。

遠くでカサカサと物音が聞こえた。

「誰か! 誰かお助けを!」

 無言のまま足早に駆け出す足音は、イノシシだったか? 

ここでこうして縛り付けられたまま一夜を明かしたその後に、何が待っているのだろう。

傷の手当てくらいはしてもらえるかもしれない。

それはお富か又吉なのか。

お富ならイヤミばかりを言いながら、いい加減な仕方で終わるのだろうな。

又吉なら着物を全部脱げとか言ってくるかもしれない。

 喉の渇きにゴクリと唾を飲み込む。

動かした口の端から、また血が流れ始めた。

これで本当に変われるのなら、安いもんだ。

 若旦那の手が伸びて、あたしの頬に触れた。

そのまま顔は近づいて、唇を重ねる。

灯明皿の火が消え、初めて男の腕に身を預けた。