半月前、私は奉公先の武家屋敷である村岡家で、主人の自室へお茶のお代わりを届けに向かっていた。
「ーーー旦那様、お代わりはいかがですか。」
ぴったり閉じられた襖の外から、私は中にいる主人に声をかけた。
「………ああ。」
その生返事の理由は、恐らくご趣味に夢中になっているためだろう。
私はホッと胸を撫で下ろし、失礼します、と断りを入れてから襖を開く。
思った通り。屋敷の主である忠光様は難しい顔をして、私には目もくれず、書見台に乗せた書物をじっと睨んでいた。今は読書に夢中なようだ。
少し視線を逸らすと、風を取り入れるために開けている窓から、晴れ渡った青空が見えた。
そうか、もう盆の時期。ここしばらく暑かったものね。
「……そういえば芙代、もうそろそろ藪入りだ。実家に帰るなら支度をしておけよ。」
書物に目を落としていた旦那様が、ふと思い出したように、私にそう言った。
そういえば確かに、そろそろ盆の藪入り(休暇)の頃か。毎日の仕事が忙しくて、日が経つのがあっという間に思える。正月のお暇以来だから、もう半年近く経つのね。
「はい、ありがとうございます。」
そう返せば、旦那様はまた思い出したように言う。
「ああ、そうか、お前はどこにも帰らぬか。」
「………。」
その言葉には悪意も憐みもない。ただ興味薄く事実を述べただけだ。
屋敷の当主である忠光様は、お年は30過ぎながら趣味に没頭する方だ。お勤めが休みな日は読書に励んだり、武芸の鍛錬をされたりとお忙しい。
その瞬間に興味が向くのはひとつだけ。今は蘭学の書物を読んでいるようだけど、私はあまり難しい読み書きが出来ないため、面白さが理解できないだろう。
そのため、“私”に関心を持っての発言では無さそうだ。私はまた、聞こえない程度の溜め息を漏らす。
旦那様だけじゃない。この屋敷の主人達は皆忙しない。だから、下女の家庭事情なんて一人一人覚えていられるわけもない。
旦那様の言葉に対して、私は心を殺し、顔色を変えることなく、「さようですね」と答えた。
空いた湯呑みに代わり、湯気の立つ煎茶を差し出す。
「失礼いたします。」
ひとつお辞儀をするけれど、旦那様から返事はなく、書物からも目を離さない。
私は極力存在感を消しながら、お盆を胸に抱いて部屋を後にした。