「な、なにって…別に…」
「嘘ついてもバレバレだからね。ナディア、明るさが戻ってきたっていうか…なんか吹っ切れたような顔してるもん」
「そ、そう…?」
そんなに顔に出ていたのか、とナディアは驚く。それと同時に、やっぱりアリスに隠し事はできないなと改めて思った。
「で、何があったの?」
アリスに促され、ナディアはリュカに痣を見せたこと、綺麗だと言ってもらえたことをかいつまんで話す。するとアリスは「さすが、公爵さま!」と嬉しそうに叫んだ。
「やっぱり愛の力は偉大だわ…」
「なに言ってるのよ、アリスったら」
(そんなんじゃ、ないのに)
「例え誰がなんと言おうと、ナディアは綺麗なの。私だってそう思ってるし今までも伝えてきたでしょう?なのに、ナディアはぜーんぜん取り持ってくれなかったじゃない。なのに、公爵さまに一回言われただけで、そんなぽっぽしちゃってー!くー!悔しい!負けた!」
ことあるごとにリュカがナディアを愛している、と言うアリス。何を言っても言いくるめてくるから、ナディアも半分諦めている。
「私そんなつもりじゃ…なかったのだけど…、なんだかごめんね」
「謝らないでよ、ちょっと…余計みじめになるじゃない」
しおれるアリスにナディアは謝りながら、渡されたリンゴをカゴにそっと入れていく。
「でも…、ナディアが公爵さまに愛されてる自信が持てないの、ちょっとわかった気がする…。あの美しさは、確かに怖気づくのも無理はないっていうか…」
「そうでしょ…、あんなに綺麗な人が私みたいな…って、あれ?アリスって、公爵さまに会ったことあったかしら?」
「あー…」
アリスは何か観念したような顔をナディアに向けると、口を開いた。
「言おうかどうか迷ってたんだけどね…、この前公爵さま孤児院に来たの」
「何か御用だったの?」
「ナディアが元気がないけど、何か心当たりはないか、って聞かれたわ。公爵さま、本当にナディアの事が大事で仕方ないみたいね」
それを聞いて、ナディアは胸が一気に熱くなるのを感じる。ローズのお茶会の後、ずっと暗い気分だったのは確かで、リュカもしきりにお茶会で何かあったのか、と気にしてくれていたのはナディアもわかっていた。けれど、あの時はこの痣のことを誰かに話してどうこうしようという思考などなかったし、本当にどうしようもなかったのだ。
「そうだったの…」
わざわざ孤児院に足を運んでアリスを訪ねるほど、リュカが自分のことをそんなに気にかけていてくれたとは思いもよらなかったナディアは、嬉しさと同時に申し訳なさがこみ上げてきた。
自分が一人で落ち込んでいたせいでリュカを煩わせてしまったのだ。つくづく、自分の不甲斐なさを感じてならない。
「んもー、そんな顔しないの!公爵さまは、ナディアの事が大事だから心配してくれてたの!ナディアが落ち込んでたのが悪いんじゃないの!」
「アリスには私の心の声が聞こえるの?」
まるで心を読んだかと思うほど的確な励ましの言葉に、ナディアは驚いてそんなことを聞いてしまう。
「ばかねぇ、何年一緒にいると思ってるのよ。ナディアの考えてることなんか手に取るようにわかるわ」
「アリス…ありがとう…。私、もう少し自分に自信を持ちたい…」
自分のことをこんな風に大切に思ってくれている人たちがいる。その人達に、少しでも返すにはどうすればいいのか。そう考えた時、ナディアの頭の中に浮かんだのが自分に自信を持つことだった。
自信を持つには、何をどうすれば良いのかなんてさっぱりわからないけれど、ナディアはそう思った。
「そうね…、ナディアは、心優しくて穏やかで、家族思いで友達思い。孤児院も手伝ってて、こうして誰の助けも嫌がらずに手を差し伸べる。誰にでも分け隔てなく優しくできるあなたは私の自慢でしかないのよ。私だけじゃないわ、院長だってリリアーヌさんだってテオだって、孤児院のみんなだってナディアの事が大好きよ。まったく、どこをどうすればそんなに自信が持てないのか、私には理解できないくらいよ」
まくしたてるようにそう言われ、ナディアは固まる。見下ろすアリスの緑色の瞳は潤んで揺れていたからだ。
(私が自信を持ちたいのは、アリスにこんな顔をさせたくないから…)
「まぁ、家は貧乏だけど家格は一応伯爵で、今は公爵さまっていう超絶イケメン彼氏に愛されてる。…ナディアの周りには、これだけたくさんの人がいるの。それは、みんなナディアの痣に同情してるから?違うでしょ?それはナディアが一番わかってるはずだし、わかっていなくちゃいけないことだと、私は思うわ」
「アリス…」
ナディアが何も言えずにいると、アリスはもいだリンゴを手に台から降りてくる。それをカゴに入れると、汗を拭うように袖で涙を乱暴に拭きとった。
「何が言いたいかっていうとね、つまり」
その幼さを残した愛らしい顔に満面の笑顔を浮かべる。
「みんな、ナディアの事が大好きってこと」
ナディアは、たまらず目の前のアリスに抱き着いた。力の限りアリスの細い体を抱きしめれば、ナディアの背にもアリスの腕が回される。同じくらいの背丈の二人は、お互いの頬をすり寄せるように抱擁を交わした。
「アリス…、ありがとう…、ごめんなさい…っ…、私も大好き。愛してるわ、アリス」
本当に、心からアリスが愛おしかった。
「二人って、実はそっちの気があったの?知らなかったなぁ」
ナディアとアリスは涙を拭いながら離れて、声の主を仰ぎ見る。いつの間にか、ノアが二人のそばに立って微笑ましそうな眼差しを向けていた。ブラウンの髪は汗で濡れて額に張り付いているし、白い端正な顔には土もついている。今の彼は、誰が見てもとても公爵子息には見えないかもしれないが、依然としてその爽やかさと気品が失われないのはさすがだ。
「ちょっと、邪魔しないでくれる?せっかくナディアといちゃついてたのに!」
「アリスってば」
「ごめんごめん、でもそろそろ終わりみたいだから呼びに来たんだ」
「あら、そうだったの」
周りを見渡すと確かにみんな片付けを始めていた。確かに日も暮れ始めて薄暗い。
「日が落ちるのも早くなってきたわね」
「そうね、さ、私たちも片付けを手伝わなくちゃ」
「その台とリンゴは僕が運ぶから、二人はそっちのやつを片づけてきて」
ノアはリンゴがたくさん入った重たいカゴを背負い、手に台をもって足早に去っていった。
「ノアさま、すっかり働き者ね」
「確かに…、私たちに指示までして。慣れって恐ろしいわ」
ノアの背中を見送りながら、関心の声を漏らす二人だった。
*
自分たちのもいだぴかぴかのリンゴを手に上機嫌で帰宅したナディアを待っていたのは、リュカだった。出迎えた母に応接室にリュカを待たせているから、と知らされたナディアは、急いで応接室へと向かう。
「お帰りなさい、ナディ」
「お待たせしました」
ふわりとした笑みを浮かべて出迎えたリュカは、駆け寄るナディアの手にあるそれを見て目を丸くした。
「リンゴ、ですか?」
「あっ、そうなんです。今日はリンゴの収穫をみんなで手伝っていて、……リュカさまはリンゴはお好きですか?」
「え、えぇ」
「よかったです!では早速剥いてきますね!」
嬉しそうに弾むナディアの腕をリュカが掴んだ。自分の向かう方とは反対に力がかかり、体勢を崩しそうになったがリュカがそれを受け止める。リュカを背中に感じたのと同時に、シトラスがふわりと舞い降りてきた。それは、ナディアに作ってもらったものよりも、甘さ控えめの香り。
「ナディ」
甘い響きの声と共に耳元に吐息が触れる。ただ、名前を呼ばれただけなのに、心臓が飛び跳ねる。
(久しぶりに会えて、舞い上がってるんだわ)
「リンゴは、後でいただきますね」
手元から奪われたリンゴはテーブルの上に置かれる。くるりと振り向かされたかと思えば、そのままリュカの腕の中に抱きしめられた。
「りゅっ、」
「少しだけ…お願いです」
切なそうなその声に、ナディアは抵抗の手を緩めてそのままリュカの胸に添える。とくとくと規則正しい胸の鼓動は気持ちを落ち着かせてくれる気がする。
「ノアも、一緒だったんですか」
心臓がヒヤリと凍え、足元が竦んだ。一瞬の間にさまざまな出来事がナディアの頭の中を通り過ぎていった。言わなくては、と思いながらもずっと先延ばしにしてきてしまったノアの事。
リュカが孤児院に来たとアリスから聞いた時にも、ノアと鉢合わせしている可能性も考えなかったわけじゃなかった。
「……はい。手伝って貰いました。あのっ」
「――――言わなくて良いです。友だちなんでしょう?」
リュカが今、どんな顔をしているのか、顔を見て話したかったナディアは、両手を押して距離を取ろうとするも、抱きしめるリュカの腕はびくともしない。
「はい……、ノアさまはお友達です。孤児院のことも気にかけて、子どもたちも懐いていて文字を教えて頂いたり孤児院の手伝いもお願いしています……。黙っていて申し訳ありません……」
「謝る必要はありません。以前、孤児院に行った時にアリスから聞いています」
と、そこでようやく腕が緩み、体が離れる。見えたリュカの顔はいつも通りの笑顔だった。
「あの……、リュカさまの恋人役として、他の男性と変な噂が立たないよう今まで以上に気を付けますので……」
(どうか、契約を、終わらせないでください……)
「ノアのことは、今のままで構いませんよ。ただの、友人ですからね? ただの」
ただの、を強調するリュカを不思議に思いながらも、契約を解除されない事にほっと胸をなでおろす。
(良かった……)
「それに、ナディ。あなたは恋人役ではありません。正真正銘、私の恋人です」
(それは……どういう意味……?)
「わかりましたか?」
「は、はい……」
オパールグリーンの瞳は慈愛に満ちている。どこか、悲し気な雰囲気を纏って、揺れているようにも見える。ナディアはリュカの言葉の真意を理解できないまま頷いてしまう。
「――キスをしても?」
「え?」
「先ほどから、ずっと我慢してるんです、実は」
かぁぁぁ、と頬を染め上げるナディア。
(そ、そんなこと聞かれても……!)
「まぁ、嫌と言われても、しますが」
「――ッ」
不敵な笑みを浮かべる、リュカの整った顔が迫り奪われる唇。
「っは、りゅ、リュカさま……、あの、私、砂埃まみれで……んんッ」
ナディアの抵抗も虚しく、リュカはやめないどころか激しくなるばかりで、息をするのも立っているのもやっとこさ。
「おっと」
とうとう膝から崩れ落ちるナディアを、リュカの腕が抱える。再度抱きしめられて、リュカの胸に顔をうずめて羞恥でいっぱいになった己の姿を見せまいとやり過ごした。
そんなナディアを知ってか知らずか、リュカは彼女の栗毛を指に滑らせて弄んでいる。手触りを確かめるかのように、梳いてはパラパラと流してを繰り返す。
「ナディ。私はもう……あなた無しでは生きていけそうにありません」
耳元で呟かれた言葉に耳を疑った。
あの、天下のリュカ・ベルナール公爵の口から生きていけないなどという言葉が出たとは誰が信じるだろうか。
(そんなわけ……あるわけないのに……)
どうせリュカの戯れだと、ナディアはどう返せば良いかわからなくて困惑する。
自分が少しでもリュカの支えになるのなら、求められている限りはリュカのそばに居たいと思って今日まで来たナディアにとって、その言葉は至高の言葉となったことだろう。
(それは……私の言葉だわ……)
リュカを失う時を、ナディアは恐れていた。
いつか必ず、そう遠くない未来、リュカが自分に飽きる時が来るとナディアは確信している。
これ以上深入りして苦しむのは自分だとわかっているのに、どんどん惹かれていくのを止められない。
(こんな気持ち、知らなかった……)
いっそのこと、知らないままの方が良かったと思う時がくる。それでも、この思いを手放すことなどナディアにはもう出来ない。
リュカの腕の中、ナディアは幸せなのに泣きたい気持ちになった。
孤児院の食堂にナディアは一人でいた。いつものように用事を済ませていたナディアは、物音に気づいて手を止める。振り返ると、そこにはノアが立っていた。
「やぁ」
太陽の日差しの下でノアが微笑む。
「こんにちは、ノアさま」
ここに来るときはいつも軽装のノア。軽装、とは言っても上質なシルクのシャツにジャケットを羽織るその姿は、この町には不釣り合いだった。それでも、すっかり孤児院の常連になったノアの存在をこの町は快く受け入れている。それもすべてはノアの温かな日差しのような人となりの賜物である。
「何してたの」
ナディアの手元を覗き込む。
「足りない食器の数を数えていたんです」
テーブルの上に広げられた食器は、どれも年季が入ったものばかり。中には欠けているものもある。
なるほど、とノアはナディアの向かい側に腰を下ろした。
「子どもたちが割ったりしてしまうので、最近足りなくなってきて……。必要な数だけ買い足そうと思って」
「そっか、僕の家で使っていない食器でも持ってこようか? 使われずに眠ってるのが山ほどありそうだよ」
「ありがとうございます」
アリスがいたら「これだからお坊ちゃまは」というセリフが聞こえてきそうだとナディアは苦笑した。
「でも、大丈夫です。もうすぐバザーがあるので、きっと安く買えると思います」
ノアの家にある食器一枚で、孤児院の数日分の食事が賄えるだろう。いや、それ以上かもしれない。そんな食器を子どもたちに使わせるなんて、とてもじゃないができない。割ってしまった日には目も当てられないだろう。
「バザー?」
「はい、町内で年に数回開かれる催しで、各人が不要になったものを持ち寄るんです。年の瀬に開かれる今度のバザーは屋台も出てちょっとしたお祭り騒ぎですよ」
「へぇ、面白そう。僕も行ってみたいな」
「――ったく、これだからお坊ちゃまは。庶民を冷やかしにでも行くつもり? やめてよね、社会見学じゃないんだから」
ピシャリと放たれた言葉に、ナディアとノアが振り返る。
「アリス」
両手に大量の皿を持っていたアリスは、足でドアを閉める。庶民の暮らしでは何の変哲のないシーンだが、孤児院に来たばかりの頃、ノアがよく目を丸くしていたのを思い出した。
まさしく「いい所のお坊ちゃま」であるノアが、こうしたレディの大雑把な振舞いを目にする機会はなかったに違いないから無理もない。それから考えると、ノアもすっかり庶民の生活に慣れたものだとナディアは思った。
「アリス、手伝うよ」
厳しい物言いにノアを心配するナディアだったが、当の本人は気にする素振りもなく、それどころか素早く立ち上がるとアリスの手から皿を受け取った。
「気が利くじゃない」
(素直にありがとうって言えばいいのに……)
そう思うが、ナディアは口には出さないで二人を見守る。
「僕はお坊ちゃまだからね、困っているレディは放っておけないんだ」
慣れとは恐ろしいもので、最近ではノアはアリスの嫌味に返すようにまでなっていた。アリスはアリスで、そんなノアを「言うようになったじゃない」と鼻で笑う。
「――おいおい、開けといてくれても良いんじゃないか?」
閉まったばかりのドアが再び開いたかと思えば、テオが姿を見せた。その手にはアリスと同様に食器を持っていた。
「あ、ごめん、テオ。忘れてた」
「ったく、気が利かないヤツ。――――よっこらせっと」
「あ、テオ、ゆっくりね」
ナディアの忠告にテオは「わかってるって」と返しながらそっと食器をテーブルの上に置いた。
「これで全部だな」
「ありがとう」
「結構減ってるわねぇ。こりゃ足りないわけだ」
「新しい子も入ってきたしね……」
決して喜ばしいことではないが、つい最近新しい子どもが一人孤児院に連れてこられた。年齢はアーチュウと同じ頃の女の子で、両親を流行り病で亡くしたらしい。
「来週のバザーに連れてってあげよう」
悲しみが癒えない少女の顔が浮かんだのだろう、アリスの提案にみんなが頷く。
「僕も連れてってね」
爽やかに笑うノアを、誰が拒めようか。さすがのアリスも肩をすくめるだけだった。
*
「――ナディアさま、終わりました。目を開けて大丈夫ですよ」
リュカの邸宅、リュカの母親の部屋で支度をしていたナディアは、オルガの声で目を開けた。
鏡に映った自分の顔に、目を見開く。
「どうですか? 完全には消せませんが、前髪で少し隠してみましたし、痣もほとんどわからないくらいですよ」
オルガの言葉通り、ナディアの左目の周りの痣は、欲見なければわからない程に薄くなっていた。痣のない自分の顔を見るのは初めてのことで、ナディアは一瞬言葉を失った。
「前髪は鬱陶しくありませんか?」
伸びてきた前髪は、痣をかばうように右から斜めに編まれていた。左目にすこしかかっているのが気にならないかどうかを心配しているのだろう。オルガの問いかけにナディアは「大丈夫です」と返す。
今日は、これからサロンへ行くリュカの同伴のため、オルガに支度を手伝ってもらっていた。
そこでナディアは、オルガに化粧でシミを薄くできないかどうか訊ねたのだった。
これまでほとんどを家と孤児院で過ごしていたナディアにとって、仮面をつけていてもなんの問題もなかった。しかし、リュカと行動を共にすることが増え、やはり仮面をつけて公の場に行くのは一目を引くし、マナー的にも問題があるということを身に沁みたのだった。
ナディアの突然の申し出にも関わらず、オルガは嫌な顔ひとつせず二つ返事で了承し、ほかの使用人におしろいの手配を指示して、テキパキと準備を進めてくれた。
「本当に、お美しいです。旦那さまが見たら卒倒してしまわないか……」
「ありがとうございます、こんなに薄くなるとは思っていませんでした。昔、母が試しに塗ってくれたことがあったのですが、全くと言っていいほど消えなかったので」
「普通のおしろいじゃぁそうでしょうね」
「これは特別なものなのですか?」
そう言うと、オルガは両腕を腰に当てて胸を張った。
「これは、大奥様のシミ隠しのために作られた特注のおしろいなんですよ」
特注、という言葉を聞いてナディアは青くなる。
「そ、そんな、特別なものを……私のために……申し訳ございませんっ」
自分の図々しく頼んでしまったばかりに、そんな大層なものを買わせてしまった、と浅はかな自分を内心罵った。しかし、オルガはその恰幅のよい体を揺らして「大丈夫ですよ」と笑う。
「ナディアさまですから、ご用意したのです。ご心配には及びません、旦那さまにも許可は頂いておりますからね。これなら、仮面をつけなくてもよろしいのではありませんか?」
「……不快に思われないでしょうか……」
もう一度鏡に目を移せば、情けない顔をした自分と目が合った。
――――忌々しい。
ローズに浴びせられた言葉を思い出してしまう。
いつだって、周りからの視線に怯えて、殻に閉じこもるように仮面をつけて痣を隠してきたナディア。
今だって、自分に自信なんかこれっぽっちもない。
それでも、自分を信じてくれる人たちを裏切るようなことだけはしたくないと強く思う気持ちが、ナディアの背中を押した。
「なにをおっしゃいます! こんなにお美しいのに誰が不快になんてなるものですか!」
憤慨していうオルガに、ナディアは苦笑を浮かべた。これまでも数回オルガの世話になっているが、その度にナディアを元気づけてくれるとてもあたたかい存在となっていた。
「さ、旦那さまに早く見せてさしあげましょう」
促され、ナディアは立ち上がる。仮面のない開けた視界が眩しい。
リュカには二度ほど素顔を見られているが、それでも緊張が走る。騒がしい胸を必死に抑えながら、ナディアは階段を下りていった。
すると、階段下のホールをうろうろとさまようリュカの姿が目に留まり、ナディアは思わず歩を止めてしまう。まさかこんな所にいるとは思わず、心の準備が不十分だった。
「ナディアさま? どうしました?」
オルガの声で、リュカがこちらを仰ぎ見た。
「ナディ……」
「まぁ、旦那さま、そんなところで。待ちきれなかったんですねぇ」
オルガのからかいも聞き流して、リュカはナディアの目の前まで駆け上がってくる。刺繍や飾りが程よく施されたジャケットに品のあるフリルシャツを着こなしたリュカはいつもに増してカッコよく美しく、ナディアは見惚れてしまう。
しかし、リュカのオパールグリーンの瞳が、ナディアの顔を捉えた。ナディアよりも2段下に立ったリュカと目線が揃い、ナディアは居たたまれずに俯いてしまう。
(……やっぱり、仮面を付けてくればよかった……)
すでに心が折れてしまいそうになった。
「もっとよく見せてください」
そっと顎に指がかけられて正面を向かされたナディアは、恥ずかしさで視線をさまよわせる。
(仮面がないのが、こんなに恥ずかしいなんて)
「あの……変じゃありませんか?」
あまりにまじまじと見つめてくるリュカにいたたまれなくなったナディアは、照れをごまかすように問うた。
ややして、リュカはため息とともに「美しい」と感嘆する。そして、ナディアの手を取り、階下へとエスコートした。オルガはいつの間にか姿を消していた。
それからリュカと共に馬車に乗り込んで、目的地へと向かう。揺れる馬車の中、リュカの視線がいつも以上に刺さった。
「あ、あのリュカさま……そんなに見られては、恥ずかしいです」
「見るな、という方が無理ですナディ。あなたのブルーダイヤの瞳は、見る人を魅了する美しさがあります。本当なら、あなたをこのまま額縁に入れて飾っておきたいくらいです」
どう返せばよいのか、考えあぐねた挙句なにも返せなかったナディアは、ひとつため息をついた。ガタガタと揺れる馬車の中、ナディアの胸は不安でいっぱいだった。
リュカはこう言ってくれているが、これまでたくさんの人が集まる場で仮面を取ったことなどないナディアにとって周りがどういう反応を示すのかは未知数だった。
すると、ナディアの手にリュカの手がそっと重ねられる。
「――大丈夫ですよ」
見上げた先、柔らかく微笑むリュカに見つめられ、ナディアは小さく頷く。リュカの口から放たれたそのたった一言に、気持ちが落ち着いていくのを感じた。
グローブ越しに伝わる手のぬくもりに、強張った心がほぐされていくようだった。
*
連れてこられたのは、ロスシー伯爵の邸宅だった。今日はロスシー伯爵の手がける貿易事業の創業を祝うパーティで、伯爵夫人はノアの従姉弟にあたるためリュカも毎年出席しているのだと言う。
「比較的カジュアルなパーティなので、そんなにかしこまらなくて大丈夫ですよ」
豪華絢爛という言葉がまさに当てはまる邸宅を前にして、カチコチに固まるナディアにリュカが言った。
(そ、そんなこと言われても……)
ただでさえ仮面がなくて心もとないのに、リュカの親戚にも初めて会うのだからはいわかりました、とはいかない。。依然強張ったままのナディアにリュカは続ける。
「ロスシー伯爵夫妻はとても気さくな方ですしね。まぁ……夫人の方は少々あれですが……」
「あれ、というのは……?」
「毎年会う度に結婚はまだかまだかと言われ……、いつもこのパーティで私に令嬢を当てがってくるので苦手なんです」
「そう……ですか……」
(きっと、家格もリュカさまにふさわしい女性を連れてこられるんでしょうね……)
胸が締め付けられるような痛みが走った。
「でも、今日はエスコートする女性がいる旨を事前に伝えていますから心配せずとも大丈夫ですよ」
「えっ……」
考えていることがリュカに筒抜けで、ナディアはかぁっと顔を真っ赤に染めた。
「あ、あの……、私のことは、放っておいていただいても大丈夫ですので」
「どうして? 恋人のあなたを放っておくはずがないでしょう?」
さぁ、行きますよ、と促されてふたりは会場となる大広間へと歩を進めた。使用人と顔見知りのリュカは顔パスで入場し、辺りを見回すと比較的人の少ない隅へと向かう。既に賑わっている会場の中心には軽い人だかりができていて、恐らくそこに主賓であるロスシー伯爵夫妻がいるのだろう。
リュカは薄ピンク色をしたドリンクが入ったグラスをナディアに差し出した。
「ありがとうございます」
「夫妻はしばらく空きそうにないので食事をして待っていましょう。ここの料理はどれも美味しいですよ」
テーブルに並ぶ料理を少しずつ皿にとっていくリュカの側で、ナディアは冷や汗が止まらなかった。なぜなら、入場してからずっと周りの人たちの視線が突き刺さるように向けられていたからだ。
(リュカさまは有名人ですものね……)
これまで一人で出席していたリュカが女性をエスコートしてきたのだから、みんな物珍しさに注目するのも無理はない。
しかし、それらの視線はリュカだけでなく、ナディアに向けられたものがほとんどだった。
「――ナディ、どうしたのですか?」
「あ……、あの、視線が、気になって……」
「あぁ、みんなあなたの美しさに目を奪われているんですよ」
「そ、そんなはずありません……」
全力で否定するナディアに、リュカは苦笑した。これほどまでに美しいというのに、ナディアは自信がなさすぎた。
「さ、そこに座っていただきましょう」
正直なにも口に入る気がしなかったが、座れるのはありがたいとリュカについて行こうとした時、
「――リュカ!」
声とともにリュカの肩に腕がかけられた。
「ライアン」
「久しぶりじゃないか。今日は絶対来るだろうと思って俺もなんとか都合をつけたんだ」
満面の笑みで、ライアンが話しかける。よほどリュカに会えたのが嬉しかったと見える。
「わかりましたから、離れてください。料理を落としそうでしたよ」
小さな子どもをたしなめるように言えば、「悪い悪い」とライアンは頭をかいた。そして、ふとナディアへと視線を向ける。
「リュカ、こちらの美しいレディは……」
「お久しぶりでございます、ライアンさま」
一歩前に出て挨拶をすれば、ライアンは一瞬石のように固まったかと思うと、つぎには黒曜石の瞳を見開いて驚きを露わにした。
「えっ! まさか……、ナディアちゃん?」
はい、と頷くナディアの隣ではリュカが「誰だと思ったのですか」とあきれ顔を浮かべていた。
「この私がナディア以外の女性をエスコートするはずないでしょう」
「だよな……、……いや……、これは、たまげた……」
まじまじと顔を見つめられ、ナディアは恥ずかしさと不安から俯いた。ライアンでさえナディアの素顔を見てこんなに驚くのだから、ほかの人から見たら自分はどう思われるのか、不安で仕方がない。
「ごめんね、あんまり綺麗だったから見惚れちゃったんだよ。痣なんか全く気にならないね」
「ホントですか……? オルガさんに化粧で隠してもらったんです」
「どれどれ、もっと近くでよく見せて?」
リュカとナディアの間に割って入ると、ライアンはナディアの顔を覗き込む。「うん、大丈夫。これだけ近くで見ても薄っすらとしか見えないよ」と言ってにっこりと笑った。
肩から垂れる漆黒の髪は、相変わらず艶やかで美しい。
「ライアンさまは、今日はおひとりですか?」
「うん、今日はリュカに会いに来ただけだから。こいつってば忙しくて家に行ってもいないし、職場に行けば邪魔だって追い出されて……、休みという休みはぜーんぶナディアちゃんに持ってかれちゃうしねー」
「えっ、そ、そうだったのですか……? それは……申し訳ありません……」
「ナディアが謝ることではありません。もともとライアンに割く時間などありませんから」
「旧友を蔑ろにするなんて罰があたるぞ、リュカ」
ライアンが加わったことで、周りからの注目度は余計に高まってしまった程だが、談笑のおかげで幾分ナディアの緊張が解れていった。
「そろそろ、挨拶に行きましょうか」
さっきまでできていた人だかりが落ち着いたのか、人気もまばらになりナディアからも夫妻の姿を確認することができた。
「――あらっ? ベルナール公爵様ではありませんか」
甲高い声に振り向けば、そこにはローズとノアが連れ立っていた
ローズを見たナディアの胸がどくんと跳ねる。
ローズは目を輝かせ、頬を染めてリュカの元へと来ると恭しく挨拶をする。少し後ろに立つノアは、ナディアだと気づいたのかナディアのことを凝視して呆然としていた。
当のナディアは、体が硬直してしまったかのように体が動かせず、手に持ったグラスを落とさないようにぎゅっと握りしめ、俯いた。
リュカはナディアを隠すように一歩前に歩み出てローズに向き合った。
「ご無沙汰しております、ジラール公爵令嬢」
「嫌ですわそんな他人行儀な呼び方。どうぞローズとお呼びください――まぁ、シュバリエ公爵さまもご一緒でしたの! 先ほどからみなさんこちらを気にしていらしたので覗いてみれば、お二人がご一緒なら目立つのも致し方ありませんわね」
「いえいえ、今日の注目の的は私とリュカではなく、彼女のようです」
言いながらライアンは、ナディアの肩に手を置いて自身に引き寄せた。ナディアは、俯いたまま、ことが過ぎるのをまだかまだかと待っていたのに……、突然のことに驚いてライアンを見上げる。
やめてくれと目で訴えるも、ライアンは鋭い眼光をローズに向けていた。
顔は笑みをたたえているというのに、その凍てつくような目にナディアは愕然とする。こんなに冷たい表情のライアンを見るのは初めてだった。
「まぁ、確かに見目麗しいご令嬢ですこと。どうりで殿方に落ち着きがなかったのですね。ライアンさまのお連れさまなのですか?」
ふっ、とリュカが鼻で笑った。
その馬鹿にしたともとれる笑いに意を害したローズは怪訝な目をリュカへと向ける。
「ご令嬢、彼女はナディアです」
「っ⁉」
ローズの目は驚きに見開かれた。そして、その目はナディアへと注がれる。ローズがナディアの素顔を見たのは、子どもの頃の話だから、気づかなかったのも無理はなかった。
「……ご挨拶が遅れ、申し訳ありません……ローズさま」
「ナディア……」
ローズの驚きは次第に怒りへと変わり、グラスを持った手がわなわなと震え、今にも中身が零れそうだ。