「言おうかどうか迷ってたんだけどね…、この前公爵さま孤児院に来たの」
「何か御用だったの?」
「ナディアが元気がないけど、何か心当たりはないか、って聞かれたわ。公爵さま、本当にナディアの事が大事で仕方ないみたいね」

 それを聞いて、ナディアは胸が一気に熱くなるのを感じる。ローズのお茶会の後、ずっと暗い気分だったのは確かで、リュカもしきりにお茶会で何かあったのか、と気にしてくれていたのはナディアもわかっていた。けれど、あの時はこの痣のことを誰かに話してどうこうしようという思考などなかったし、本当にどうしようもなかったのだ。

「そうだったの…」

 わざわざ孤児院に足を運んでアリスを訪ねるほど、リュカが自分のことをそんなに気にかけていてくれたとは思いもよらなかったナディアは、嬉しさと同時に申し訳なさがこみ上げてきた。

 自分が一人で落ち込んでいたせいでリュカを煩わせてしまったのだ。つくづく、自分の不甲斐なさを感じてならない。

「んもー、そんな顔しないの!公爵さまは、ナディアの事が大事だから心配してくれてたの!ナディアが落ち込んでたのが悪いんじゃないの!」
「アリスには私の心の声が聞こえるの?」

 まるで心を読んだかと思うほど的確な励ましの言葉に、ナディアは驚いてそんなことを聞いてしまう。

「ばかねぇ、何年一緒にいると思ってるのよ。ナディアの考えてることなんか手に取るようにわかるわ」
「アリス…ありがとう…。私、もう少し自分に自信を持ちたい…」

 自分のことをこんな風に大切に思ってくれている人たちがいる。その人達に、少しでも返すにはどうすればいいのか。そう考えた時、ナディアの頭の中に浮かんだのが自分に自信を持つことだった。

 自信を持つには、何をどうすれば良いのかなんてさっぱりわからないけれど、ナディアはそう思った。

「そうね…、ナディアは、心優しくて穏やかで、家族思いで友達思い。孤児院も手伝ってて、こうして誰の助けも嫌がらずに手を差し伸べる。誰にでも分け隔てなく優しくできるあなたは私の自慢でしかないのよ。私だけじゃないわ、院長だってリリアーヌさんだってテオだって、孤児院のみんなだってナディアの事が大好きよ。まったく、どこをどうすればそんなに自信が持てないのか、私には理解できないくらいよ」

 まくしたてるようにそう言われ、ナディアは固まる。見下ろすアリスの緑色の瞳は潤んで揺れていたからだ。

(私が自信を持ちたいのは、アリスにこんな顔をさせたくないから…)

「まぁ、家は貧乏だけど家格は一応伯爵で、今は公爵さまっていう超絶イケメン彼氏に愛されてる。…ナディアの周りには、これだけたくさんの人がいるの。それは、みんなナディアの痣に同情してるから?違うでしょ?それはナディアが一番わかってるはずだし、わかっていなくちゃいけないことだと、私は思うわ」
「アリス…」

 ナディアが何も言えずにいると、アリスはもいだリンゴを手に台から降りてくる。それをカゴに入れると、汗を拭うように袖で涙を乱暴に拭きとった。

「何が言いたいかっていうとね、つまり」

 その幼さを残した愛らしい顔に満面の笑顔を浮かべる。

「みんな、ナディアの事が大好きってこと」

 ナディアは、たまらず目の前のアリスに抱き着いた。力の限りアリスの細い体を抱きしめれば、ナディアの背にもアリスの腕が回される。同じくらいの背丈の二人は、お互いの頬をすり寄せるように抱擁を交わした。

「アリス…、ありがとう…、ごめんなさい…っ…、私も大好き。愛してるわ、アリス」

 本当に、心からアリスが愛おしかった。

「二人って、実はそっちの気があったの?知らなかったなぁ」

 ナディアとアリスは涙を拭いながら離れて、声の主を仰ぎ見る。いつの間にか、ノアが二人のそばに立って微笑ましそうな眼差しを向けていた。ブラウンの髪は汗で濡れて額に張り付いているし、白い端正な顔には土もついている。今の彼は、誰が見てもとても公爵子息には見えないかもしれないが、依然としてその爽やかさと気品が失われないのはさすがだ。

「ちょっと、邪魔しないでくれる?せっかくナディアといちゃついてたのに!」
「アリスってば」
「ごめんごめん、でもそろそろ終わりみたいだから呼びに来たんだ」
「あら、そうだったの」

 周りを見渡すと確かにみんな片付けを始めていた。確かに日も暮れ始めて薄暗い。

「日が落ちるのも早くなってきたわね」
「そうね、さ、私たちも片付けを手伝わなくちゃ」
「その台とリンゴは僕が運ぶから、二人はそっちのやつを片づけてきて」

 ノアはリンゴがたくさん入った重たいカゴを背負い、手に台をもって足早に去っていった。

「ノアさま、すっかり働き者ね」
「確かに…、私たちに指示までして。慣れって恐ろしいわ」

 ノアの背中を見送りながら、関心の声を漏らす二人だった。



 自分たちのもいだぴかぴかのリンゴを手に上機嫌で帰宅したナディアを待っていたのは、リュカだった。出迎えた母に応接室にリュカを待たせているから、と知らされたナディアは、急いで応接室へと向かう。

「お帰りなさい、ナディ」
「お待たせしました」

 ふわりとした笑みを浮かべて出迎えたリュカは、駆け寄るナディアの手にあるそれを見て目を丸くした。

「リンゴ、ですか?」
「あっ、そうなんです。今日はリンゴの収穫をみんなで手伝っていて、……リュカさまはリンゴはお好きですか?」
「え、えぇ」
「よかったです!では早速剥いてきますね!」

 嬉しそうに弾むナディアの腕をリュカが掴んだ。自分の向かう方とは反対に力がかかり、体勢を崩しそうになったがリュカがそれを受け止める。リュカを背中に感じたのと同時に、シトラスがふわりと舞い降りてきた。それは、ナディアに作ってもらったものよりも、甘さ控えめの香り。

「ナディ」

 甘い響きの声と共に耳元に吐息が触れる。ただ、名前を呼ばれただけなのに、心臓が飛び跳ねる。

(久しぶりに会えて、舞い上がってるんだわ)

「リンゴは、後でいただきますね」

 手元から奪われたリンゴはテーブルの上に置かれる。くるりと振り向かされたかと思えば、そのままリュカの腕の中に抱きしめられた。

「りゅっ、」
「少しだけ…お願いです」

 切なそうなその声に、ナディアは抵抗の手を緩めてそのままリュカの胸に添える。とくとくと規則正しい胸の鼓動は気持ちを落ち着かせてくれる気がする。

「ノアも、一緒だったんですか」

 心臓がヒヤリと凍え、足元が竦んだ。一瞬の間にさまざまな出来事がナディアの頭の中を通り過ぎていった。言わなくては、と思いながらもずっと先延ばしにしてきてしまったノアの事。
 リュカが孤児院に来たとアリスから聞いた時にも、ノアと鉢合わせしている可能性も考えなかったわけじゃなかった。

「……はい。手伝って貰いました。あのっ」
「――――言わなくて良いです。友だちなんでしょう?」

 リュカが今、どんな顔をしているのか、顔を見て話したかったナディアは、両手を押して距離を取ろうとするも、抱きしめるリュカの腕はびくともしない。

「はい……、ノアさまはお友達です。孤児院のことも気にかけて、子どもたちも懐いていて文字を教えて頂いたり孤児院の手伝いもお願いしています……。黙っていて申し訳ありません……」
「謝る必要はありません。以前、孤児院に行った時にアリスから聞いています」

 と、そこでようやく腕が緩み、体が離れる。見えたリュカの顔はいつも通りの笑顔だった。