貧乏伯爵令嬢は恋人アルバイト中!

***


ーーーーー忌々しい。

 吐き捨てられた言葉が、ナディアの胸に深く突き刺さって抜けない。
 けれども、不思議なことにローズへの憎しみや恨みつらみは無く、ぶつけられた言葉だけがナディアの中にずっしりと重くのしかかり、そこに居座っていた。
 ただ、ローズの言葉が、世間の言葉としてナディアは受け止めるべき言葉なのだと、それが「普通」なのだと思い知らされただけなのだ。
 いや、思い出された、と言うべきかもしれない。
 この顔の痣は、周りからすれば忌むべきものであり、晒してはいけないもの。自分は、ひっそりと陽にあたらぬように生きていくべきなのだ、と。

(わかっていたのに…)

 どうして忘れていたのだろう、と振り返るナディアの脳裡に浮かぶのはただ一人。オパールグリーンの瞳をした、彼の人。
 リュカと出会ってからだ、とナディアは思う。リュカと出会ってから、自分はとても欲張りになっていった気がする。リュカの周りは、みんなナディアの事を優しく受け入れてくれていた。リュカはいつも慈しむようにナディアを見つめ、甘やかすから。
 リュカはナディアがこうなった今も、変わらぬ優しさをくれている。どことなく、変わってしまった自分にリュカが戸惑っているのは感じているけれど、その優しさは相変わらずだった。

 リュカは、日向の人だ。
 自分とは、住む世界が違いすぎるのだ。
 しかし、リュカはすでにナディアにとって、簡単に切り離せる存在ではなくなっていた。

ーーーー怖い。

 失うのが、怖い。
 なんてわがままなのだろう、とナディアは自分の欲深さを知る。
『ベルナール公爵さまだって、あなたを不憫に思って同情してるに違いないわ。愛されてるなんて勘違いしてないわよね?』
 ローズの言葉が頭に響く。
 そんなことは、わかっている。
 わかっているから、苦しいのだ。
 ナディアは、そっと、隣に座るリュカを見上げた。自分は、リュカを失くして、生きていけるのだろうか、と。答えはイエスだ。きっと、生きていける。けれど、その人生はいかほどにつらく苦しい道だろうか。
 今、触ろうと思えば触れられる距離にいるのに触れないもどかしさと、以前のように触れてもらえなくなった寂しさを感じているだけで胸が張り裂けそうなくらい苦しいのに…。
 失った後のことなど、想像したくもなかった。

「…ごめんなさい、約束も取り付けず急に来て…。公爵さまにも、なんとお詫び申し上げればよいのか…」

 静寂を切り裂いたのは、コレットだった。
 ナディアの向かい側の椅子に腰を下ろしたコレットは、わざわざ、ナディアに会いに訪ねてきてくれたのだ。

「私のことは気にしなくて構いません」

 隣のリュカはナディアの隣でそう言った。柔らかい物言いに、ナディアは少しほっとする。

「ナディア…本当にごめんなさい。謝って済むことじゃないのは、わかっているけれど、どうしても謝りたくて…」

 申し訳なさそうに、眉尻を下げて言うコレットに、ナディアは出来る限りのほほ笑みを浮かべた。

「ありがとう、コレット。でもね、コレットに謝ってもらうようなことは何もなかったわ。だからどうか、そんなに気に病まないで」

 それは、紛れもないナディアの本心だった。ローズが言ったことはただの事実であり、コレットは家格が上のローズに逆らえなかっただけの話。誰が悪いとか、悪くないとか、そういう話ではないのだ。

「ローズさまに言われたことは、自分でもわかっていたことだし…、ローズさまのように私のこの痣で不快な思いをさせてしまうのも事実だと受け止めているわ」
「ナディア…、私はあなたの痣を醜いとか汚いと思ったことなんて一度もないわ」

 コレットの嘘偽りのない言葉に、ナディアはただ「ありがとう」と頷く。
 すると、膝に置いていたナディアの手があたたかさに包まれた。隣を仰ぎ見れば、オパールグリーンの瞳が、ナディアを優しく見下ろしている。

「私もです、ナディア。例えあなたの痣を不快に思う者がいようとも、そうでない者がいることもまた事実。それをどうか、忘れないでください」

 重ねられたリュカの手から、優しさが染みわたってくるようだった。
 ナディアは、二人の言葉に涙をこらえるのでいっぱいいっぱいで、やっとのことで頷いて見せる。
 コレットは、見つめ合う二人を見ながら「では、私はこれで」と椅子から立ち上がった。

「コレット、今日はわざわざ会いに来てくれて嬉しかった。ありがとう」
「私のほうこそ、会ってもらえて嬉しかった。ナディア、また会ってくれる?昔みたいに、二人で」
「もちろんよ、コレット」
「約束ね。ーー公爵さま、今日はお会いできて良かったです。お二人の時間を邪魔してしまい、申し訳ありませんでした」
「こちらこそ、会えてよかった。これからもナディアと仲良くしてください」

 見送りはいらないと言うコレットを玄関で見送った後、二人は応接間へと戻り、先ほどと同じ長椅子に肩を並べて座った。
 そして訪れる静寂。ナディアは急に緊張してきてしまった。

「あ、あの…、お茶を、入れ直して…わっ」

 立ち上がったところ、手を引っ張られて体勢を崩したナディアは、リュカの膝の上に着地。慌てて立ち上がろうと試みるも、両腕でがっちりとホールドされてしまった。

「…リュカさま、あの…」

 リュカの膝に横向きに座るナディアは、すぐ横にリュカの視線を感じて身じろぎをする。お腹に回された腕を両手ではがそうとしたけれどびくともしない。

 さっき、あれほど触れたい、触れられたいと願っていたはずなのに、いざ実現すると恥ずかしさが勝って逃げたくなる。



「ーーーあなたは、美しい」




「と、突然何を…」

 突然降ってきたリュカの言葉にナディアは振り向いた。

「ナディア…、その…」

 リュカにしては珍しく歯切れの悪さに、ナディアは不思議そうな目を向ける。

「私に、痣を見せてくれませんか…?」

 思いもよらない言葉に、顔を逸らしてしまった。心臓がドクンと飛び跳ねて、先ほどとは違う緊張で汗がにじむ手を握りしめた。

「…こ、こんな、醜い姿は…」
「誰が醜いと言ったのでしょう」
「それは…」

 やっとのことで絞りだした訴えは、リュカに即座に論破される。

「私は、醜いなどとは思いません。あなたのそれは、まるで白磁にあしらわれた濃紺の薔薇のようでした。ーーナディア、私は、あなたの全てを知りたい」

 歯の浮くようなセリフに、顔が熱を帯びる。決してそんな綺麗なものではないのに。

「それとも、私は見た目で人を判断するような低俗な輩だと思われているのでしょうか」
「…ずるいです、リュカさま…」

 そんな風に言われてしまえば、拒めなくなるではないか。言葉に詰まるナディアに、リュカは続ける。

「あなたの、苦しみを分けてくれませんか?」

(苦しみ…?)

 これが、苦しみなのだろうか、とナディアは自問した。

 そして、リュカに言われて初めて、自分が苦しんでいることに、気がついた。

 子どもの頃、ひどい言葉を浴びせられて以来、自分の心に居座っていたこの感情こそが、苦しみなのだ、と。
 この痣が忌むべきもので醜いものだと、当たり前のように感じていたナディアは、自分が苦しんでいるということに気づけなかったのだろう。

「喜びはもちろん、悲しみや苦しみも分かち合って共に歩んでいく。恋人というのは、そういうものではありませんか?」

 そして、目の前のリュカは、その苦しみを分かち合いたいと、それが恋人だ、と言っている。その意味を飲み込むのに、しばし時間がかかった。

 契約の恋人であろうとも、それは有効なのだろうか、とこんな状況でもそんなことがナディアの頭を過ぎったが、それはどうにか飲み込む。

 リュカがあまりにも、真剣だったから。

 ナディアはこみ上げる嬉しさと、不安とで震える手を、仮面の紐に伸ばしゆっくりと引っ張る。

 俯いていたナディアの鼻先を掠めて、仮面ははらりと落ちていった。



 それをサインに、リュカはナディアの頬に手を添えると、それこそ割れ物を扱うようにそっと自分へと向かせる。

 とても目を合わせられず、ナディアの瞳は伏せられる。そのまつ毛や唇は儚げに震えていた。

 リュカの指先が躊躇いがちに痣を隠していた栗色の髪を耳へとかけると、ナディアのそれが露わになり、白い肌に刻まれた痣は、陽の光に照らされて輝いているようにすら見える。

「とても綺麗です、ナディア」
「…っ」

 伏せられた瞳から涙が溢れ、痣の上を滑り頬を伝った。リュカは目じりにそっとキスを落とす。

「すみません、あなたの嫌がることはしないと言ったのに…」
「…私が、いつ嫌だと言いましたか…」

 泣きながら、いつものリュカの言葉をまねて返すナディアにリュカは目を丸くする。

 ナディアはリュカを真っすぐ見た。アイスブルーの瞳からまた一粒の涙がこぼれる。リュカが、仮面のないナディアの顔を目にするのは、これが二度目だ。けれども、その瞳に正面から見つめられたのは、初めてだった。
 ブルーダイヤのように透き通る瞳が、リュカを射抜く。その美しさに、リュカは息を呑んだ。

「この涙は…、うれし涙です」
「ナディ…」
「リュカさまに、綺麗だと言ってもらえて嬉しかったのです。ありがとうございます」

 恥ずかしそうに、けれども精一杯の笑顔で返すナディア。リュカの言葉は、とても嘘やお世辞を言っている様には思えなくて、すんなりとナディアの心に届いて、しみ込んでいった。

「ナディア」

 頬に触れるリュカの手に自らをすり寄せれば、目じりをなぞるように指先が涙を拭う。
 視線が交差した。
 視線を辿り、近づく吐息と混ざりあう二人のシトラス。
 そして、どちらともなく瞼を閉じた時、互いの唇が触れ合った。ただそれだけなのに、体に電気が走ったように痺れが駆け抜けていく。
 離れたナディアをリュカが追いかけようとした時、

ーーーーガチャッ

 勢いよく開かれたドアから、レオンとシャルロットが顔を出した。ナディアは反射的にリュカの腕を振りほどいて立ち上がった。その拍子に床に落ちた仮面を急いで拾って付け直す。

「リュカ遊ぼ!」
「お客さま帰ったでしょ?」

 リュカに気を取られていたおかげで、ナディアには目もくれず無邪気な笑顔を浮かべながらリュカの前までかけてくる二人。ナディアは平静を装うのに必死だった。

「二人とも、部屋に入る時はノックをしなくちゃダメでしょう」
「いいじゃん、お客さま帰ったし家族しかいないんだから」
「コレットは帰ったけど、公爵さまはまだいらっしゃるでしょう。失礼ですよ」
「えー?ねーねとリュカは結婚するんだからもう家族じゃん」

 不意に投げつけられた結婚というワードに、ナディアはドキリとする。

「け、結婚なんて、そんな…」
「ねーねは、リュカさまと結婚しないの?」
「シャルロット…」

 ナディアと同じアイスブルーの瞳を輝かせて問うシャルロットがナディアのドレスの裾を引っ張った。

「えっと…、先のことはわからないから…、け、結婚だなんてそんなこと、あんまり安易に口にするものじゃないわ」

 こういう時に限って何も言わないリュカの視線を背後に感じながら、ナディアは言葉を選んで二人をなだめるように言う。結婚なんて自分には縁のないものだとナディアは今も思っている。ましてや、リュカの爵位は公爵であり、ナディアの伯爵家とでは家格の差もあるのだし、リュカの立場を考えれば公爵夫人などナディアに勤まるわけがなかった。

「えぇ?だって、リュカが言ってたもん。ねーねと結婚するって」
「レオン、男同士の約束はどこかにいってしまったのかな?」

 その声に振り向けば、椅子に座ったまま優しい笑みを浮かべてこちらを見つめるリュカの姿があった。

「あっ、忘れてた!」

レオンのうっかりにくすくすと笑うリュカの姿にナディアは見惚れてしまう。こんなに、美しくて優しくて、完璧な人が、どうして自分なんかのそばにいてくれるのだろうか。考えても、答えなどわかるはずもなく、ナディアは胸が苦しくなるのだ。滲んでくる涙を、ナディアは瞬きをして散らした。

「そうだ、今から二人をパルフェの店に連れていきましょう」

 手をポンと叩いてリュカが立ち上がる。
 あの日の口約束を、リュカはちゃんと覚えていてくれて、果たそうとしてくれている。その優しさと誠実さに、ナディアは感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。

「パルフェってなに?美味しいの?」
「リュカさまとおでかけー!嬉しい!」

 はしゃぐレオンとシャルロットの手をひいて、リュカはナディアを振り向いた。

「ナディアも一緒に行くんですよ」
「あ、はい!すぐに参ります」

 ナディアは、返事をすると慌てて3人の後を追った。










「リュカさま、本当に……、本当に、ありがとうございます。心から感謝いたします」

 馬車の中、ナディアは隣に座るリュカを見上げて今日何度目かになる謝意を伝えた。孤児院での子どもたちの幸せそうな笑顔溢れる姿が思い出されて胸をまた熱くさせる。

 クリスマスイブの今日、リュカからの提案で孤児院でクリスマスパーティを開き、リュカから子どもたちに豪華な食事とプレゼントが振舞われたのだった。
 事前にアリスとテオに協力してもらい、子どもたちに欲しいものを聞いておいた。まさかプレゼントとして貰えるとは思ってもいなかった子どもたちは、小さな聖堂と呼ぶには粗末な広間に飾られたもみの木の下に置かれたキラキラと輝くプレゼントの箱を見て大興奮。
 自分の名が書かれたプレゼントを探し出し、息もつく間もなく開封していた。その姿のなんと眩しかったことか。

「私も子どもたちの喜ぶ姿が見れて嬉しかったです」

 リュカはその端正な顔に穏やかな笑みを浮かべてナディアを見つめ返した。伸ばした手は、ほんのりと朱に染まる頬に触れる。ひんやりと冷たい頬の滑らかな感触を堪能するように、指の腹や背、掌をすりすりと滑らせる。その甘さを帯びたくすぐったさに、ナディアは思わず首をすくめた。

「やっと二人きりになれました」

 そして、見つめられたまま顔が近づき、唇がそっと触れる。ナディアの予想に反して、一瞬で離れてしまった熱に、ナディアはあろうことか物足りなさを感じた。
 もっと触れてほしい、と(こいねが)う自分がいることに、驚きと恥ずかしさがこみ上げる。

(やだ……私ったら、はしたない)

「ナディ、これを」

 俯くナディアの視界に、小さな小箱が差し出される。ゴールドのリボンがかけられた赤い箱はナディアの手に握らされた。

「これは?」
「私からのクリスマスプレゼントです」

 開けてみて、と促されてリボンに手を掛ける。引っ張るとシュルシュルと心地良い音をたてて解けていった。

 蓋を開ければ、ゴールドの細いチェーンに小さな宝石が幾つも散りばめられたブレスレットがキラキラと輝きを放っていた。薄っすらと青みを帯びて透き通った宝石をナディアは初めて目にする。

「すごい……きれい……」
「ブルーダイヤです。あなたの美しい瞳の色と同じ」

 言いながら、リュカはブレスレットを取りナディアの右手首に着けた。シャランと音を鳴らして手首に馴染んだそれは、ナディアの白い肌によく映えた。

「思った通り、よく似合っています」
「ありがとうございます」

 以前のナディアなら、こんな高価なもの、と受け取ることを躊躇っていた。正直今でも一体リュカにどれだけ散財させているのかと思うと怖くなるナディアだったが、それよりも今はリュカがこうして自分の事を思って選び贈ってくれることが純粋に嬉しくてたまらない。

「大切にします。……あの、良ければこちらを」

 ナディアは足もとに置いていたカゴから少し大きめの封筒に入ったものをおずおずと差し出す。

「私に?」
「はい、こんな粗末なもので申し訳ありませんが、私からのプレゼントです……」

 流れるような所作で封筒から中身を取り出したリュカは、それをみて目を見開いた。

「これは、ナディアが?」
「は、はい……、裁縫はあまり得意ではないのですが、私に贈れるものはこの程度のものしかなくて申し訳ありません」

 それは、リュカのイニシャルを刺繍した白い絹のハンカチーフだった。いつも貰ってばかりのリュカに、何か少しでも返したいと思ったナディアが思いついたのがこれ。高価なものは買えるはずもないし、リュカは好きなものは自分で買うだろうし、と考えた挙句のプレゼント。

 たとえ、使われなくても良い。リュカのことを思って一針一針刺したこのハンカチーフは、お金では買えない世界に一つしかないハンカチーフ。心優しいリュカなら、きっと受け取ってくれるだろうとナディアは思い、決めたのだ。

「ナディ……ありがとうございます。今まで生きてきた中で、一番嬉しいプレゼントですーーーー」

 ふわりといつものシトラスに包み込まれた。
 抱きしめられる直前、リュカの喜んだ顔が見えてナディアは胸がいっぱいになる。

(こんなもので、こんなにも喜んでもらえるなんて)

「毎日使います。ーーあ、ちゃんと毎日洗濯しますよ」

 おどけて言うリュカに、ナディアから笑い声がこぼれる。

「ふふ。では、洗い替え用にもう1、2枚ご用意しますね」
「それはとても嬉しい申し出ですが」

 少し離れたリュカは、申し訳なさそうにナディアの手を取った。そして指先をいたわるように撫でる。

「私の大切なナディアにこれ以上傷ついては欲しくないので、遠慮しておきます」
「あっ…これは……」

 リュカのさするナディアの指先には、針の刺し傷がいくつもあった。

(恥ずかしい……っ)

「傷だらけになりながら私のために作ってくれたんですね。本当に、あなたと言う人はーーーー」
「あ、リュカさま、そ、そんな」

 ナディアの荒れた指先にリュカの口づけが落とされた。手を引っ込めようとしたが、それをリュカは許さない。何度も触れる柔らかなリュカのそれにナディアは目をぎゅっと瞑って耐えた。

「ナディ……。私だけの可愛いナディア」

 指先を彷徨っていたリュカの唇が、つぎにはナディアの唇にたどり着く。握られた手を引かれ、腰を抱き寄せられてさらに密着する体。
 ぎゅっと閉じた唇は、とうとう抗えずにリュカの舌を受け入れる。

「…んぁっ」

 鼻から抜ける甘い声に、リュカの理性が試される。いつも思う、このまま全てを食べてしまえたらどれほど幸せか、と。けれどそれはやはり出来ないリュカは、名残惜しくも唇を解放する。しかし、当のナディアは蕩けてしまいそうな艶っぽい眼差しをリュカに向けていた。

「……っ」
「んん、」

 ちぎれそうになる理性をどうにかつなぎ留めて、リュカは眼下の白い首筋に唇を押し付けた。強く吸えば、ほんのりと赤い花びらが咲く。やり方は聞いて知っていたが、試したことなど一度もなかったそれを見て、リュカは己が満たされていくのを感じていた。

 自分のもの、という(マーク)が、くっきりと目の前の愛しいナディアに刻まれている。

 数日もすれば消えてしまうとわかっていても、ナディアのすべてを手に入れられない今のリュカには充分だった。

「りゅ、リュカさま…」

 腕の中、逃れようと身をよじるナディアの耳元でささやく。

「ナディア、いつか、あなたのすべてを私にください」
「っーーーー」

 リュカは慌てふためくナディアを強く抱きしめたーーーー



 ……ーーーー馬車はいつの間にか停車していて、外では御者が一人寒空の下、声をかけるタイミングを見計らっていた。



クリスマスSS ー完ー


(本編再開)



 リュカは、執務室で椅子に深く腰掛けて天を仰いでいた。
 深く息を吐く。
 目を閉じれば自ずと思い浮かぶ、ブルーグレーの美しい瞳。
 そして溢れる涙。
 仮面を取ったナディアの顔が、頭からはがれなかった。

 ナディアの瞳は、これまで目にしてきたどんな宝飾品よりも、美しく、透き通りリュカを真っすぐ射抜いた。

『この涙は…、うれし涙です』

 ナディアのあれほどまでに強いまなざしを今まで見たことがなかったリュカは、正直度肝を抜かれた思いだった。

 恥ずかしそうに、けれども精一杯の笑顔で返すナディアがたまらなく愛おしくて、あの時レオンとシャルロットが来なかったら押し倒してしまっていたかもしれない。

 同時に可愛い二人を思い出して、リュカの顔がほころぶ。

『えー?ねーねとリュカは結婚するんだからもう家族じゃん』

 ふって湧いたリュカの事を、当然のごとく「家族」の様に接してくれるレオンとシャルロット。年の離れた兄妹というよりも、リュカにとっては自分の子どもといった方が近い存在のように感じている。

 今では、リュカにとって、ナディアだけでなくレオンとシャルロットも替えがたい存在となっていた。

(ナディアは……結婚についてどう思っているのでしょうか……)

 シャルロットに『リュカさまと結婚しないの?』と尋ねられて『先のことはわからない』と濁していたナディア。あの時、リュカには彼女がどんな表情をしていたのかは見えなかった。

 ナディアへの想いが確たるものになった今、リュカは今すぐにでもナディアと結婚したいと思っている。
 しかし、そうするには、ナディアの気持ちを確かめなければならない。

(相手の気持ちを知るのがこれほど怖いとは)

 拒絶されることへの恐怖が、いつもリュカを怯ませる。

 これまで一方的に寄せられる好意を受け流すだけだったリュカにとってそれは、知ることのなかった感情。
 今さらながら、ろくでもない付き合いしかしてこなかった愚かな自分を責めた。

 しかし、いつまでも怖がって逃げているわけにはいかないのはリュカも重々承知。
 どこかで腹を括らなければならないのだ。

「はぁ……」

 もう一度でたため息は、深く重たかった。




 リュカがレオンとシャルロットをパルフェの店に連れて行ってくれたあの日。

 馬車に乗って街へお出かけなんて、久しぶりのことに大はしゃぎの二人を優しいまなざしで見つめるリュカの姿にナディアはそこはかとない愛しさを感じていた。

 リュカに痣を見せてほしいと言われて、ナディアは戸惑いはしたが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
 それはきっと、リュカが自分で言ったように見た目で判断するような人ではない、とナディア自身が確信していたからかもしれない。

 あの時リュカが自分にくれた言葉は、確かにナディアの心の枷を少し軽くしてくれた。

 ローズからの言葉が、完全に払拭されたわけでは決してなかったが、ナディアの心は少なからず軽くなった。ずっと、心にのしかかっていたこの痣に対する想いが、リュカによって取り払われていくようだった。

 あの日だけではない。
 ナディアは、もうずっと、リュカに救われている。ナディアだけでなく、ナディアの家族までもを大切に扱い、ナディアが大事に思っているものまで同じように大事にしてくれるリュカに、ナディアは言葉では言い表せないほどの感謝を感じていたし、たくさんのものをもらった。

 ドレスや装飾品のことではなく、ナディア一人では到底手にすることの出来なかった気持ちだ。

(リュカさまとずっといられたら…)

 いつからか、ナディアの胸にはそんな願いが浮かんで来るようになった。

 始まりは、居酒屋での下働きがバレて、半ば脅される形で始まったこの関係が、気づけばリュカの優しさに完全に絆されてしまっていた。

(身の程知らずも良いところね)

 そもそも、これは契約であって本当の恋人ではないし、家格さえも釣り合いが取れるものではない。リュカに愛されているなど思い違いも良いところだ、とナディアはことあるごとに暗示のように自分に言い聞かせていた。

 しかし、リュカの仕事がまた忙しくなってきてしまい、会うこともままならない状態が続いていた。
 ナディアは、またリュカに出会う前と変わらず、孤児院と家の往復と町人からの頼まれごとに精を出す毎日を過ごしていた。

「悪いなぁ、収穫が追っつかなくってよぉ」

 今日は、リンゴ農家のダンの所の手伝いにきていた。毎年この時期になると町中の子どもが駆り出されるのだ。その中にナディアと孤児院の子どもも混じっていた。

「気にしないでください。私もみんなも楽しみにしてるので」

 手伝いが終わると必ず一人ひとつリンゴがもらえるのを、ナディアは楽しみにしていた。もちろん、孤児院の子どもたちもしかりだ。果物は高級なため、めったに口にできないから。

 梯子や台を駆使してみんなでもぎ取ったリンゴはぴかぴかと輝いて見えた。今日はとても気持ちのいい秋晴れで、澄んだ空気が清々しい。

「あ、そこの高いところは僕が取るから無理しないでいいよー!」

 大きな声が農園に響く。

 ノアだった。手伝いの話をしたら自分も行く、と買って出てくれたのだ。背の高いノアがいれば大助かりだ、とナディアもアリスも内心でガッツポーズをとった程。

「ノアってば、明日はへとへとになって起きられないんじゃない?」

 走って行くノアの後姿を見ながらアリスはくすくすと笑った。

「確かに…引っ張りだこだから疲れちゃうわね…申し訳ないことしちゃったかしら」

 不安に思うナディアの肩をアリスがばしっと叩く。思いのほか力が強くてナディアはジンと痛む肩をさすった。

「良いのよ、お坊ちゃまはあれくらい揉まれとけば」
「アリスってノアさまには辛口よね…」
「そりゃそうよ、私の推しカップルの邪魔を…、っと、何でもない何でもない。ほら、私たちも働かなきゃ」
「え、あ、そうね…」

 アリスに言われてナディアも慌てて持ち場に戻る。

「そう言えば、公爵さまとなんかあったー?」

 アリスの乗る台が倒れないように支えていると、上から声が降ってきた。


「な、なにって…別に…」
「嘘ついてもバレバレだからね。ナディア、明るさが戻ってきたっていうか…なんか吹っ切れたような顔してるもん」
「そ、そう…?」

 そんなに顔に出ていたのか、とナディアは驚く。それと同時に、やっぱりアリスに隠し事はできないなと改めて思った。

「で、何があったの?」

 アリスに促され、ナディアはリュカに痣を見せたこと、綺麗だと言ってもらえたことをかいつまんで話す。するとアリスは「さすが、公爵さま!」と嬉しそうに叫んだ。

「やっぱり愛の力は偉大だわ…」
「なに言ってるのよ、アリスったら」

(そんなんじゃ、ないのに)

「例え誰がなんと言おうと、ナディアは綺麗なの。私だってそう思ってるし今までも伝えてきたでしょう?なのに、ナディアはぜーんぜん取り持ってくれなかったじゃない。なのに、公爵さまに一回言われただけで、そんなぽっぽしちゃってー!くー!悔しい!負けた!」

 ことあるごとにリュカがナディアを愛している、と言うアリス。何を言っても言いくるめてくるから、ナディアも半分諦めている。

「私そんなつもりじゃ…なかったのだけど…、なんだかごめんね」
「謝らないでよ、ちょっと…余計みじめになるじゃない」

 しおれるアリスにナディアは謝りながら、渡されたリンゴをカゴにそっと入れていく。

「でも…、ナディアが公爵さまに愛されてる自信が持てないの、ちょっとわかった気がする…。あの美しさは、確かに怖気づくのも無理はないっていうか…」
「そうでしょ…、あんなに綺麗な人が私みたいな…って、あれ?アリスって、公爵さまに会ったことあったかしら?」
「あー…」

 アリスは何か観念したような顔をナディアに向けると、口を開いた。


「言おうかどうか迷ってたんだけどね…、この前公爵さま孤児院に来たの」
「何か御用だったの?」
「ナディアが元気がないけど、何か心当たりはないか、って聞かれたわ。公爵さま、本当にナディアの事が大事で仕方ないみたいね」

 それを聞いて、ナディアは胸が一気に熱くなるのを感じる。ローズのお茶会の後、ずっと暗い気分だったのは確かで、リュカもしきりにお茶会で何かあったのか、と気にしてくれていたのはナディアもわかっていた。けれど、あの時はこの痣のことを誰かに話してどうこうしようという思考などなかったし、本当にどうしようもなかったのだ。

「そうだったの…」

 わざわざ孤児院に足を運んでアリスを訪ねるほど、リュカが自分のことをそんなに気にかけていてくれたとは思いもよらなかったナディアは、嬉しさと同時に申し訳なさがこみ上げてきた。

 自分が一人で落ち込んでいたせいでリュカを煩わせてしまったのだ。つくづく、自分の不甲斐なさを感じてならない。

「んもー、そんな顔しないの!公爵さまは、ナディアの事が大事だから心配してくれてたの!ナディアが落ち込んでたのが悪いんじゃないの!」
「アリスには私の心の声が聞こえるの?」

 まるで心を読んだかと思うほど的確な励ましの言葉に、ナディアは驚いてそんなことを聞いてしまう。

「ばかねぇ、何年一緒にいると思ってるのよ。ナディアの考えてることなんか手に取るようにわかるわ」
「アリス…ありがとう…。私、もう少し自分に自信を持ちたい…」

 自分のことをこんな風に大切に思ってくれている人たちがいる。その人達に、少しでも返すにはどうすればいいのか。そう考えた時、ナディアの頭の中に浮かんだのが自分に自信を持つことだった。

 自信を持つには、何をどうすれば良いのかなんてさっぱりわからないけれど、ナディアはそう思った。

「そうね…、ナディアは、心優しくて穏やかで、家族思いで友達思い。孤児院も手伝ってて、こうして誰の助けも嫌がらずに手を差し伸べる。誰にでも分け隔てなく優しくできるあなたは私の自慢でしかないのよ。私だけじゃないわ、院長だってリリアーヌさんだってテオだって、孤児院のみんなだってナディアの事が大好きよ。まったく、どこをどうすればそんなに自信が持てないのか、私には理解できないくらいよ」

 まくしたてるようにそう言われ、ナディアは固まる。見下ろすアリスの緑色の瞳は潤んで揺れていたからだ。

(私が自信を持ちたいのは、アリスにこんな顔をさせたくないから…)

「まぁ、家は貧乏だけど家格は一応伯爵で、今は公爵さまっていう超絶イケメン彼氏に愛されてる。…ナディアの周りには、これだけたくさんの人がいるの。それは、みんなナディアの痣に同情してるから?違うでしょ?それはナディアが一番わかってるはずだし、わかっていなくちゃいけないことだと、私は思うわ」
「アリス…」

 ナディアが何も言えずにいると、アリスはもいだリンゴを手に台から降りてくる。それをカゴに入れると、汗を拭うように袖で涙を乱暴に拭きとった。

「何が言いたいかっていうとね、つまり」

 その幼さを残した愛らしい顔に満面の笑顔を浮かべる。

「みんな、ナディアの事が大好きってこと」

 ナディアは、たまらず目の前のアリスに抱き着いた。力の限りアリスの細い体を抱きしめれば、ナディアの背にもアリスの腕が回される。同じくらいの背丈の二人は、お互いの頬をすり寄せるように抱擁を交わした。

「アリス…、ありがとう…、ごめんなさい…っ…、私も大好き。愛してるわ、アリス」

 本当に、心からアリスが愛おしかった。

「二人って、実はそっちの気があったの?知らなかったなぁ」

 ナディアとアリスは涙を拭いながら離れて、声の主を仰ぎ見る。いつの間にか、ノアが二人のそばに立って微笑ましそうな眼差しを向けていた。ブラウンの髪は汗で濡れて額に張り付いているし、白い端正な顔には土もついている。今の彼は、誰が見てもとても公爵子息には見えないかもしれないが、依然としてその爽やかさと気品が失われないのはさすがだ。

「ちょっと、邪魔しないでくれる?せっかくナディアといちゃついてたのに!」
「アリスってば」
「ごめんごめん、でもそろそろ終わりみたいだから呼びに来たんだ」
「あら、そうだったの」

 周りを見渡すと確かにみんな片付けを始めていた。確かに日も暮れ始めて薄暗い。

「日が落ちるのも早くなってきたわね」
「そうね、さ、私たちも片付けを手伝わなくちゃ」
「その台とリンゴは僕が運ぶから、二人はそっちのやつを片づけてきて」

 ノアはリンゴがたくさん入った重たいカゴを背負い、手に台をもって足早に去っていった。

「ノアさま、すっかり働き者ね」
「確かに…、私たちに指示までして。慣れって恐ろしいわ」

 ノアの背中を見送りながら、関心の声を漏らす二人だった。



 自分たちのもいだぴかぴかのリンゴを手に上機嫌で帰宅したナディアを待っていたのは、リュカだった。出迎えた母に応接室にリュカを待たせているから、と知らされたナディアは、急いで応接室へと向かう。

「お帰りなさい、ナディ」
「お待たせしました」

 ふわりとした笑みを浮かべて出迎えたリュカは、駆け寄るナディアの手にあるそれを見て目を丸くした。

「リンゴ、ですか?」
「あっ、そうなんです。今日はリンゴの収穫をみんなで手伝っていて、……リュカさまはリンゴはお好きですか?」
「え、えぇ」
「よかったです!では早速剥いてきますね!」

 嬉しそうに弾むナディアの腕をリュカが掴んだ。自分の向かう方とは反対に力がかかり、体勢を崩しそうになったがリュカがそれを受け止める。リュカを背中に感じたのと同時に、シトラスがふわりと舞い降りてきた。それは、ナディアに作ってもらったものよりも、甘さ控えめの香り。

「ナディ」

 甘い響きの声と共に耳元に吐息が触れる。ただ、名前を呼ばれただけなのに、心臓が飛び跳ねる。

(久しぶりに会えて、舞い上がってるんだわ)

「リンゴは、後でいただきますね」

 手元から奪われたリンゴはテーブルの上に置かれる。くるりと振り向かされたかと思えば、そのままリュカの腕の中に抱きしめられた。

「りゅっ、」
「少しだけ…お願いです」

 切なそうなその声に、ナディアは抵抗の手を緩めてそのままリュカの胸に添える。とくとくと規則正しい胸の鼓動は気持ちを落ち着かせてくれる気がする。

「ノアも、一緒だったんですか」

 心臓がヒヤリと凍え、足元が竦んだ。一瞬の間にさまざまな出来事がナディアの頭の中を通り過ぎていった。言わなくては、と思いながらもずっと先延ばしにしてきてしまったノアの事。
 リュカが孤児院に来たとアリスから聞いた時にも、ノアと鉢合わせしている可能性も考えなかったわけじゃなかった。

「……はい。手伝って貰いました。あのっ」
「――――言わなくて良いです。友だちなんでしょう?」

 リュカが今、どんな顔をしているのか、顔を見て話したかったナディアは、両手を押して距離を取ろうとするも、抱きしめるリュカの腕はびくともしない。

「はい……、ノアさまはお友達です。孤児院のことも気にかけて、子どもたちも懐いていて文字を教えて頂いたり孤児院の手伝いもお願いしています……。黙っていて申し訳ありません……」
「謝る必要はありません。以前、孤児院に行った時にアリスから聞いています」

 と、そこでようやく腕が緩み、体が離れる。見えたリュカの顔はいつも通りの笑顔だった。


「あの……、リュカさまの恋人役として、他の男性と変な噂が立たないよう今まで以上に気を付けますので……」

(どうか、契約を、終わらせないでください……)

「ノアのことは、今のままで構いませんよ。ただの、友人ですからね? ただの」


 ただの、を強調するリュカを不思議に思いながらも、契約を解除されない事にほっと胸をなでおろす。

(良かった……)

「それに、ナディ。あなたは恋人役ではありません。正真正銘、私の恋人です」

(それは……どういう意味……?)

「わかりましたか?」
「は、はい……」

 オパールグリーンの瞳は慈愛に満ちている。どこか、悲し気な雰囲気を纏って、揺れているようにも見える。ナディアはリュカの言葉の真意を理解できないまま頷いてしまう。

「――キスをしても?」
「え?」
「先ほどから、ずっと我慢してるんです、実は」

 かぁぁぁ、と頬を染め上げるナディア。

(そ、そんなこと聞かれても……!)

「まぁ、嫌と言われても、しますが」
「――ッ」

 不敵な笑みを浮かべる、リュカの整った顔が迫り奪われる唇。

「っは、りゅ、リュカさま……、あの、私、砂埃まみれで……んんッ」

 ナディアの抵抗も虚しく、リュカはやめないどころか激しくなるばかりで、息をするのも立っているのもやっとこさ。

「おっと」

 とうとう膝から崩れ落ちるナディアを、リュカの腕が抱える。再度抱きしめられて、リュカの胸に顔をうずめて羞恥でいっぱいになった己の姿を見せまいとやり過ごした。
 そんなナディアを知ってか知らずか、リュカは彼女の栗毛を指に滑らせて弄んでいる。手触りを確かめるかのように、梳いてはパラパラと流してを繰り返す。

「ナディ。私はもう……あなた無しでは生きていけそうにありません」

 耳元で呟かれた言葉に耳を疑った。
 あの、天下のリュカ・ベルナール公爵の口から生きていけないなどという言葉が出たとは誰が信じるだろうか。

(そんなわけ……あるわけないのに……)

 どうせリュカの戯れだと、ナディアはどう返せば良いかわからなくて困惑する。

 自分が少しでもリュカの支えになるのなら、求められている限りはリュカのそばに居たいと思って今日まで来たナディアにとって、その言葉は至高の言葉となったことだろう。

(それは……私の言葉だわ……)

 リュカを失う時を、ナディアは恐れていた。
 いつか必ず、そう遠くない未来、リュカが自分に飽きる時が来るとナディアは確信している。

 これ以上深入りして苦しむのは自分だとわかっているのに、どんどん惹かれていくのを止められない。

(こんな気持ち、知らなかった……)

 いっそのこと、知らないままの方が良かったと思う時がくる。それでも、この思いを手放すことなどナディアにはもう出来ない。

 リュカの腕の中、ナディアは幸せなのに泣きたい気持ちになった。