孤児院からナディアの屋敷までの道のりを歩くのは初めてだなとふと気づく。この道を、ナディアはいつも歩いているのかと思えば、見えてくる景色はまた違う色味を帯びているようだった。この辺りは、本当に土地が痩せているのか、見える家も店も活気がなく寂しい。それでも、町を歩く人はみな笑顔だった。それは、ここを管理しているのがリシャール伯爵だからだろう。領主に慈しまれて生きるその地の人々は決まって活き活きとしているものだ。

 そして、その素晴らしい領主のもとに産まれたナディアもまた、愛され慈しまれてこの町と共に育ったのだろう。自分より人を思いやり慈しむその心は美しく、ナディア自身を輝かせていた。そして、その眩しさにリュカは魅了されたのかもしれない。

 ゆるやかな坂を少し上った先にナディアの屋敷がある。敷地の塀と共にひとつの人影が目に入った。そして、その人影の少し向こう側には馬車が停められている。その人影は女性だった。それなりに品のあるドレスを着た女性は、ナディアの屋敷の門のところで時折屋敷の方をのぞきながらうろうろとしていて、明らかに挙動不審だった。

「リシャール伯爵のお屋敷に御用でしょうか?」

 近づくリュカにも気づかない程、何かを考え込んでいたのか、女性は「きゃっ!」と声を出して慌てた。次にリュカの顔を見上げた彼女は、口を抑えて声にならない悲鳴をあげた。

「べ、ベルナール公爵さま…?」

 前に会ったことがあっただろうか、とリュカは目の前の女性を見るが、記憶にはなかった。年の頃は、ナディアと同じくらいで、手入れの行き届いたブロンドヘアはつややかに肩から背中へと流れていた。リュカが知らなくとも、社交界などで見てリュカの顔と名前を知っている女性は山ほどいるのだ。

「あなたは?」
「あっ、失礼いたしました。コレット・フォーレと申します」

 形式的な挨拶を取ったコレットは、若草色の瞳を伏せたまま何か考えている様だった。

「ナディアに用ですか?」
「え、っと…、はい」
「では、呼んできましょう」
「お待ちくださいっ」

 やはり、冬はすぐそこまで来ていると感じるほどに冷たい風が体に染みた。リュカは上着を羽織ってくれば良かったと後悔する。早くナディアに会いたい、と思いながらもリュカは黙ってコレットの言葉を待った。

「…ナディアに合わせる顔がありません…」
「それは、ジラール公爵家でのお茶会が関係しているのでしょうか」
「っ、どうしてそれを…」

 やはりそうか、とリュカは内心でつぶやく。今まで、貴族の娘がナディアを訪れることなど無かったから、コレットを見たときにもしかしたらという疑念が浮かんでいた。そして、その疑念が確信に変わった今、リュカはコレットがナディアにとって害となりうるのかどうか見極めなければならい。

「あのお茶会から彼女の様子が一変したので、何かあったのだろうと…。でも、彼女は何一つ話してくれないので、何があったのかまでは知りません」
「…そう…でしたか…」

 そうこぼしたきり黙り込むコレットの表情をリュカは眺めた。

「それで、あなたは何をしにここに来たのでしょうか」
「お茶会でのことを、謝りたくて…、でも、ナディアが会ってくれるかどうか…」

 ナディアが謝罪にきた友人を門前払いするはずがなかった。リュカはそれがわかるだけに、悩む。自分の過ちを懺悔することで解放されたいだけなのか、それとも本当に心から謝罪したいのか、この娘はどちらだろうか、と。

「…痣のことで酷い言葉を投げつけられて傷つく彼女を、私はただ見てることしか出来なかったのです…。それどころか助けることは愚か、追い打ちをかけてしまいました…」

 ナディアは、やはり痣のことで傷つけられ、心を閉ざしてしまったのだ。リュカは自分の予想が外れていなかったことを知る。

「そう、でしたか…」

 リュカは、胸が締め付けられる思いだった。ナディアは、一体どんな思いで今いるのだろうか。
 幼いころから深く傷つき心も世界も閉ざしてきたナディアは、リュカと過ごすうち、少しずつ、ほんの少しずつだけれども、変わりつつあった。
 出会った当初よりも、よく笑うようになったし、リュカにも自分から関わろうとしてくれているのをリュカも感じていた。そしてなにより、リュカはそんなナディアが愛しくて仕方がなかった。

 なのに、ナディアの世界が再び閉ざされようとしている。
 ナディアを、救いたい。この世界に連れ戻したい。
 彼女にとって、この世界は、とても辛く厳しい世界かもしれないけれど…、それでも、この世界は彼女が思っているよりも、きっと美しいのだと、彼女に知ってもらいたい、とリュカは強く思った。

 そうこう話している内に、遠くの方から馬車の走る音と共にリュカの御者が門に到着する。その音に、二人は顔をあげた。リュカの姿を認めた御者が会釈したので、リュカも片手をあげて応える。

「お待ちしておりました」

 どうしたものか、と逡巡している間に音をききつけて出迎えに来たナディアが御者に挨拶をする。見えたナディアは、以前リュカが一目ぼれして買ってきたクリーム色のワンピースドレスに身を包んでいた。
 ナディアも気に入ってくれているのだろうか、とそんな些細なことで嬉しくなる。
 そして、御者の目線に気づいたナディアは、ゆっくりとリュカ達の方を振り向いた。

「…リュカさまと、…コレット?」