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 リュカは馬車に揺られながら、ふと右耳に手をやる。いつもそこにあるはずの物が無く、どことなく落ち着かなかった。

 こんなことをするなんて、自分らしくないと思った。それを言えば、ひと月ほど前に贈った香水もだ。リュカの香りを好きだと言ったナディアに絆されて気づけば懇意にしている調香師の店に赴いて、いつもつけているリュカの香水を女性用にアレンジしてもらった。調香師は、何か言いたげにリュカを見たが当の本人は気づかない振りを決め込んでいた。

 ふっと自嘲的な笑いがこみあげた。
 異性に香水を贈る意味を、リュカが知らないはずが無い。

 急に決まった王子の勉強を兼ねた地方への視察に無論同行を余儀なくされたリュカ。
 次に会うときに渡すつもりだった香水を、手紙と共に従者に託すほどに時間に追われていた。
 それでも、今思えば直接渡すよりは良かったのかもしれない。
 ナディアが意味を知っているとも限らないが、そんなことはどうでも良かった。
 ただ、この香りを好きだと言うナディアが愛おしくてたまらなかった。
 好きならば、つけてくれるだろうという淡い期待を込めて。

 背もたれに頭を預けて目を閉じる。だいぶ疲れている自覚があった。
 視察先で、王子が体調を崩し、看病といろいろな手配に追われてナディアに手紙を書く暇もなくひと月が過ぎてしまった。
 数日前にようやく帰ってこれたものの、今度はたまった事務的な書類の山に埋もれながらひたすらに仕事に追われていたのだ。
 誕生日の今日、少しだけ嵩の減った書類を置いてナディアの屋敷に足を運んだが、案の定不在だったため、ピアスの片割れをナディアの母に渡してとんぼ返りとなった。
 孤児院では、きっと子どもたちと友人に囲まれて祝福を受けていることだろう。
 自分が顔を出しては皆萎縮してしまうだろう、と顔を見るのをあきらめて帰ってきたのだった。

 それでも、やはり一目だけでも見てから帰ってくればよかったかもしれない。とほんの少し後悔した。

 ナディアは、リュカのピアスだと気づくだろうか。そして、どう思うのだろうか。
 人の気持ちを推し量ることなど、仕事上慣れたもののはずなのに、ことナディアのことになるとどうもうまくいかない。
 母が着けていたピアスは、物心ついた頃からリュカの耳につけられていた。
 リュカの父が母に贈った物で、せめてもの母の思い出にと幼いリュカに着けてくれたものだ。
 大人になってからも、ずっと着けているそれは、もはや体の一部となってリュカに馴染んでいた。

『お前に愛する人出来たらそれを贈れば良い』

 成人したリュカに言った父の言葉だ。若くして愛する妻を亡くした父は、原因となったリュカを恨むでもなく、母からの贈り物なのだからとリュカを慈しみ育ててくれた。そしてその後も後妻をめとることもせず母への愛を貫き通した。

「愛する人、か」

 今まで、父の言う「愛」がわからなかったリュカ。多くの女性と公私で接する機会はこれまでも多々あったが、ただの一度も特別な感情を抱いたことは無かった。それどころか、会う女性はいつも同じ目をしていることにリュカは気づき、そして辟易していた。向けられる視線が本当に見ているのは表面的な自分の容姿や地位、肩書であって自分ではないのだ。

 だから、どんなに女性から好意を抱かれようが時間を共にしようが、肌を合わせようが、リュカの乾いた心を潤すことはなかった。そのうち、干渉されるのが嫌になったり、相手の方が「自分を見てくれない」と言ってリュカから離れていったりして長続きしないのが関の山だった。

それがどうしたことだろうか。あれほど他人に無関心で淡泊な自分が、一人の女性に入れ込んでいるのだ。あの日、ナディアを見た瞬間、興味を抱いたのは確かに好奇心からだったが、今この胸にある思いがあの時と同じではないことは確かにリュカも気づいていた。しかし、これが愛なのかと問われれば、即答できない。リュカは愛を知らないのだから、それも当然と言えば当然だった。

 それならなぜ、ピアスを渡したのかと言えば、それは紛れもない愛しさを感じていたからだ。ナディアを愛しく思うこの気持ちが、男女の「愛」なのか、リュカは確信を持てなかった。

 突然、馬のかすかな嘶きと共に馬車が止まった。家に着くには、早すぎる気がして御者に声をかけようとしたら外から話声がかすかに聞こえてきた。

「旦那様、ナディアさまが」