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あの後、「嫌だ降りない!まだリュカと遊ぶ!」と駄々をこねてリュカにしがみつくレオンとシャルロットを無理やり降ろしたナディアは、ぶーぶー文句をいう2人を母親に任せてリュカを救い出したのだった。
もうあの2人とリュカだけにするのはやめようと心に誓った。
「レオンとシャルロットは、素直で本当に可愛いですね」
「本当に申し訳ございません、公爵さま」
「ナディア、私は怒っていませんよ。二人と遊べて楽しかったんです、本当に。兄妹がいるのもにぎやかで良いですね」
偽りの無いその言葉に、少しだけ救われる。エリート貴族のリュカを地に這わせたうえにまたがり命令するなど、考えただけでも後が恐ろしい。末代まで祟られてしまいそうだ。
「着きました」
「わぁ…すごい…」
二人は、高台に来ていた。ピクニックに、と誘ったナディアにリュカがそれなら良い場所があると連れてきてくれたのだ。
手前で馬車を降りてから、少しだけ坂を登って着いたところは、眼下に王都全体が見渡せる山の中腹にある草原だった。
リュカが運んでくれた荷物からラグを出して敷き、二人で肩を並べて座った。
「公爵さまは、よくここにいらっしゃるんですか?」
「子どもの頃、父と祖母とたまに来ていました。領地でもあるので」
(こんなところまで領地なの…)
改めてベルナール公爵家の偉大さを思い知らされた気がするが、今は、こんなに景色の綺麗な所に連れてきてもらえたことの嬉しさで一杯だった。少し目線をあげれば、見渡す限りの空。幸いにも今日は秋晴れ。空がとても高く、空気はすがすがしい。程よく涼しい風がナディアの栗色の髪をさらりと揺らしていく。
「綺麗ですね」
「えぇ、とても」
穏やかな時間と秋風が心地よく、今日早起きしたせいもあってうとうととし始めたナディア。それに気づいたリュカが、優しく頭を自分の肩にもたれかけさせた。眠りに落ちる一歩手前の夢と現実との狭間で、鼻をくすぐるのはシトラスの香り。
「いいかおり…」
眠りに落ちる直前にナディアの口からこぼれた言葉は風にさらわれて消えていった。
それからナディアが目を覚ましたのは、小一時間経った頃だった。
頭を優しく撫でられているような心地よさを感じて、意識が浮上。
一瞬どこに居るのかわからなくなって目の前に広がった景色を見て思い出す。そうだ、ピクニックにきて…。
「起きましたか」
「わぁっ」
頭上から響いた艶のあるリュカの声に一気に目が覚める。
頭を撫でられていたのは夢じゃなかったのか。ナディアが飛び起きたので、頭から離れた手はナディアの背中を優しく支えてくれた。
「もうしーーーーんん」
ナディアの謝罪はリュカの口に塞がれてしまった。
「謝るのは、ナシです」
「え、」
「それより、今日はもてなしてくれるんですよね?そろそろお腹が空きました」
「は、はい!ただいまご用意します!」
籐でできたピクニックバスケットを広げてランチの準備をてきぱきと始めた。
「お口にあうかわかりませんが…」
「いただきます」
なんのことはない、手作りのパンに、お気に入りのお肉屋さんのハムと野菜と目玉焼きを挟んだだけのサンドウィッチだ。ナディアの母自家製のマスタードソースがアクセントのピリッとかさわやかな酸味が効いた大好きな組み合わせ。家族でのピクニックや誕生日など特別な日に作ってくれるごちそうのひとつでナディアの好物でもあった。
「…そんなに見られてると食べづらいんですが」
「あ、すみま、…じゃなくて、えっと…ごめんなさい」
「ははっ、それ意味同じです…くくく」
穴があったら入りたい。自分の馬鹿さ加減にあきれてしまう。
「ううぅ…」
「まぁ、まだごめんなさいの方がマシですね」
笑いやんだリュカは律儀にまた「いただきます」と言ってサンドウィッチを口にした。口に合わなかったらどうしようかと不安になりつつも、また見すぎだと言われてしまわないように、ナディアもサンドウィッチを頬張った。うん、美味しい。貯めているお金で奮発して買ったハムが美味しすぎる。今頃、みんなも食べてくれてるかな、とナディアは両親と可愛い兄妹を思った。
「とても美味しいです」
「ほ、本当ですか…?」
「本当です」
本当に、本当なのか…、そう言われても信じられなかったけれど、ナディアの作ってきた食事をリュカはぺろりと平らげてくれた。
「ごちそうさまでした」
「お、おそまつさまでした」
まただ、とナディアは胸を抑える。優しいまなざしで見つめられると、悲しくなってくる。胸の奥がきゅうっと締め付けられるようだった。
「こ、今度は、ライアンさまもお誘いしたいですね」
紛らわすように口から出た言葉はそんなどうでもいいことで。
「なぜ、ここでライアンの名が出てくるんですか」
(あぁ、地雷を踏んでしまったようです)
さっきまでの優しさはいずこへ。みるみる不機嫌な顔になっていく。
「特に、意味は…。ただ、公爵さまの仲のいいご友人のようでしたのでご一緒できれば楽しいのではと思って…」
「私は、あなたと二人が良いんです」
伸ばされた手が、頬に触れる。宝石のような瞳に見つめられて俯こうとするナディアをリュカが許さない。耳をかすめ、首筋を這う指先。
「あっ…」
くすぐったさにこぼれた声が恥ずかしくて目をぎゅっと閉じた。
「あまり、煽らないでください。我慢にも限界があります」
近づく気配がしたと思えば、耳元で囁かれた。
煽るとは、我慢とは一体なんのことだろうか。
バクバクと激しく打つ心臓がうるさくて、頭も回らない。いっぱいいっぱいなのに、おでこをこつんと当てたまま動かないリュカ。
「こ、公爵さま…」
「リュカ、と」
「え?」
「リュカと呼んでください」
「そんな…む、無理です」
「…どうしてですか、ライアンのこともあのむかつく小童のことも名前で呼んでいるでしょう」
そんなことを言われても、無理なものは無理。恐れ多いし、なにより恥ずかしい。
「それは、成り行きと言いますか、そもそもお名前しか存じませんので致し方なくです」
自分が王子の指導役、すなわち未来の宰相候補だということを自覚しているのだろうか。そんなすごい人を名前で呼ぶなど無礼千万。
「私は、あなたの恋人ですよ?」
「…」
それを言われてしまうと何も言い返せない。
「わ、わかりました、ご命令でしたら善処します」
「命令ではありません」
頬に添えられたままの手はそのままに、リュカの親指がやわらかにナディアの唇をなぞる。体の奥が、震える。触れそうで触れない唇が、もどかしい。
「ーーーお願いです、ナディ。名前を呼んでください」
こちらが泣きそうになるほどの懇願に、めまいがした。
「リュカ、さま…、んっ」
ついばむように、何度もなんども重なる唇。
角度を変えては深まる口づけが、ナディアの思考を奪う。風が草木を揺らす音と、二人の息遣いしか聞こえない。
まるで、この世に自分とリュカしか居ないかのような錯覚に陥る。
「りゅ、リュカさま…はぁ…っ、ま、待ってください、息が…」
今度はナディアのお願いに、リュカはキスをやめてナディアをきつく抱きしめた。
「覚えておいてください。あなたは、私だけのものだということを」
そんな呪縛のような言葉さえも、リュカの口からこぼれるとまるで崇高なものに聞こえるから不思議だった。まだ朦朧とする思考のなか小さく頷けば、頭を優しく撫でられる。抱きしめられる腕の中でナディアは、こんな自分でも必要としてもらえる間だけでもせめて、悲しそうな雰囲気のリュカに寄り添いたいと、応えたいと思った。
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おまけSS
「リュカ、さま…、んっ」
名を呼ばれたリュカは、たまらず唇を奪った。呼ばれた名前ごと、食べてしまいたいと馬鹿なことを思うほどに、たまらなかった。体の芯が喜びに震える。時折甘い声を漏らすナディアに、今にも理性が吹っ飛んで押し倒しそうになりながらも、壊れてしまいそうな細い肩をきつく抱いてなんとかやり過ごす。
リュカは、コントロールできない自分に戸惑っていた。自分で思っている以上にナディアに心酔している自分が居た。ナディアが他の男を名前で呼ぶだけで苛立ち嫉妬して、自分の事も名前で呼んでくれと懇願して。
「覚えておいてください。あなたは、私だけのものだということを」
仕舞いには、呪いの呪文のような言葉を吐いてしまった。自分が、コントロールできないのだ。守ってあげたいと思った存在を、この手で壊してしまいそうで怖かった。それでも、距離を取るなんて選択肢はない。いっそのこと誰の目にも触れぬように宝箱に閉じ込めて自分だけのものにしてしまおうか。冗談でも、そんなことを思う自分に自分で笑えて来る。
「今日は、おもてなしありがとうございました。嬉しかったです」
「わっ、私も、楽しかったです」
別れ際、気持ちを伝えようと頑張ってくれる姿に心がほっこりとあたたかくなる。このまま家に連れて帰りたいといつも思う今日この頃なのは、ナディアには秘密にしておいた。
ーーーーー
いつものように、孤児院へ手伝いに行き子どもたちに文字を教える。いつもと変わらない日常が過ぎていく。ただそれだけの事で、気に留めることもないのに、ナディアはいつもと違う感情が自分の中にあることに気づく。
リュカに会いたい。
「公爵さまとはうまくいってるみたいでよかった」
「えっ…」
そんな風に言われたのは、アリスに詩を教えている時だった。テオが他の子どもに教えているため、二人は少し離れた地面に文字を書きながら話していた時に不意にアリスに言われて思わず身構えてしまう。リュカが孤児院に贈ってくれた紙とペンは、ここぞというときに使うようにしていた。
「顔に書いてあるもの」
「えぇっ?!」
「馬鹿ね、ものの例えよ」
頬を手で触りながら慌てるナディアに、アリスは笑う。それはもちろんわかっているのだけれど、自分はどんな顔をしているのかものすごく気になったし恥ずかしい。ナディアは、ライアンのことやノアのこと、ピクニックでの出来事などをかいつまんでアリスに話した。
「なるほど、公爵さまの愛は深いわね」
「愛なんて、そんなんじゃないわ」
「じゃぁ、なに?」
そう問われてナディアは考え込んでしまった。リュカのナディアに対する優しさがなんなのか、正直ナディアにはさっぱりわからなかったから。見目麗しく地位もある雲の上のような存在のリュカが一体全体どうして自分のような「訳アリ」に手を出すのか。いくら、女除けと言われても、腑に落ちないところはあった。それでも、やはり自分のような一般人にリュカを理解することなど無理だと端から諦めていた。
「それが愛じゃないのなら一体何が愛なのかしらねぇ」
「だって…、公爵さまが私を好きになるなんて、あり得ないもの」
アリスはあきれた様子でまた詩を書き出した。地面になぞられていく文字の羅列を眺めながら、考える。そう、あり得ない。自分は、リュカの気まぐれに付き合うしかないのだ。ただ、求められるうちは自分が出来ることを精一杯やろうと心に決めたばかりではないか。
「おい、ナディア。お前に来客だぞ」
テオに呼ばれて振り向いた先、門のところに知った顔が立っていた。
「誰だあのボンボン」
「ノアさま…」
「あれが噂の…」
どうせもう会うことはないだろうと思っていたノアの登場に少し戸惑いつつも、無視はできないので歩を進める。目の前まで来るとノアは「やぁ」と片手を挙げた。太陽の下、深いブラウンの髪が光りを反射していつもよりとても明るく見えた。
「ノアさま、どうしてこちらに」
「友達に会いに」
満面の笑みで言われてナディアは固まる。この間のあれは本気だったんだ、と驚いた。人懐っこい二重の瞳はナディアだけを捉えていて、ノアの言う「友達」は言わずもがな自分なのだろうとさすがのナディアでも理解した。
「何してたの?」
「あ、子どもたちに文字を教えていました」
「へぇ、楽しそう!僕も一緒に良い?」
「え、あ、はい、構いませんが…」
断る理由もなく、OKするとノアは嬉しそうにみんなのもとへかけていった。こちらを見ていたテオとアリスに挨拶を済ませると、文字を書いている子どものそばにしゃがんでその屈託のない笑顔で話しかけていた。
「こんにちは」
「お兄ちゃんだれ」
「ナディアの友達。ノアって呼んで。君は?」
あっという間に子どもたちの中に溶け込んでいる。
「生粋のお坊ちゃまタイプだね」
アリスがノアの佇まいを見て納得したように言った。
「う、うん…、公爵子息さまらしい」
「公爵子息とどこで知り合ったんだ?」
「えっと…」
テオはまだリュカとのことを知らなかったのを思い出す。そろそろ潮時かもれないと、テオにも打ち明けることにした。テオのことを信じていないわけではないが、この場にノアもいたので念のため「役」ということは伏せておいた。
「はぁ?あのベルナール公爵さまと、お前が?」
(その驚きはごもっとも)
心の中で同意しながらナディアは頷く。
「はぁー、いつの間にかすごいことになってるな。お兄ちゃんは心配だよ」
「ふふ、お兄ちゃんて」
「大丈夫よ、テオ。公爵さまは、ナディアにはとぉ~っても優しいから安心して」
「うーん、そう言われてもなんだかなぁ」
「もう、テオったら相変わらず心配性ね」
「テオはナディアが可愛くて可愛くて仕方ないのよ」
「そりゃぁ、アリス、ナディアは子どもの頃から一緒に育った妹みたいなもんだからなぁ」
「ご心配ありがとうございます、お兄さま」
「どういたしまして、妹よ」
3人で笑いこけていると、子どもたちから勉強の続きをせがまれてしまった。それぞれ子どもたちに手を引かれて地面に書かれた文字に向き合って、笑い声の絶えない穏やかな時間が流れていった。
「仲が良いんだね」
孤児院での用事を一通り終わらせて家に帰ると言うと、ノアが送ってくれると言うので一緒に帰り道を歩いていた。結局、ノアは最後までなんだかんだ手伝ってくれていつもより早く帰れることができたのだった。
「幼馴染のようなものです」
「羨ましいな」
「ノアさまは、仲のよいご友人はいらっしゃらないのですか?」
「友人はいるけど、君たちみたいになんでも話せるような間柄ではないかな。家のこともあったりして、なんとなくみんな本心を隠しているような感じもするし」
公爵家ともなると、いろいろな思惑が飛び交って心を開けないのだろうか。そう思うと、恵まれている貴族というのもいろいろ大変そうだ。その点、リュカはライアンという気の置けない間柄の友人がいるのは幸いなことなのかもしれないと思った。
「そう、ですか」
見上げた横顔は、どこか寂しそうだった。
「テオは、ルソー男爵家の3男ですが、孤児院の出身なんです。だからきっと、ノアさまのおっしゃるお家柄のことも気にならないのではないでしょうか。年の頃も近いですし、ノアさまさえ良ければ親しくして頂けると、きっとテオも喜ぶと思います」
「本当?なんか今日睨まれてた気がするけど」
「テオはもともと目つきが鋭いだけなんです」
「そうなんだ。仲良くしてもらえたら僕も嬉しいよ、ありがとう」
本当に、すれた所のない人だなと思った。今日もすんなりとみんなの輪に入って、中心で笑ってるその姿はまさに太陽。パーティで初めて会ったときもそうだった。きっと一人でいるナディアを可愛そうに思ったのだろう。あの時話しかけてくれたノアの優しさや明るさに救われたのは確かだった。
「あの、この前は失礼をしました」
リュカと鉢合わせた時のことを謝るタイミングをずっと見計らっていた。なんとなく話題にしづらかったのだ。
「あぁ、ベルナール公爵さまとのこと?全然、気にしてないよ。僕の方こそごめん。公爵さまにも謝っといてくれるかな」
「は、はい」
と返事をしてみたものの、言えるだろうかと不安がよぎる。ノアのことを口にするとリュカがどうなるかは目に見えていて、火に油を注ぐようなものだから。
「また来ても、迷惑じゃないかな」
家について別れ際、少しだけ遠慮がちにそう言ったノア。リュカのことを気にしているのだろうか。確かに、リュカはナディアがノアと会うことを良くは思っていないようだったが、リュカとの時間をおろそかにしなければ自分が誰と会っていようが問題ないのではとも思った。それになにより、寂しそうに話すノアを見ていたらとてもじゃないけど無下にはできなかったし、テオやアリスといった家族のような存在のほかに友人と呼べる人は居なかったナディアにとってノアの申し出は少なからず嬉しいものだった。
「もちろんです。だってお友達ですもの」
「…ありがとう、ナディア。じゃぁ、またね」
さよならじゃなくて、またね。約束ではないけれど、別れでもない言葉を交わして互いに家路につく。なんとなく、胸があったかくなるような、不思議な感覚だった。
◇◇◇
リュカの使いの者から手紙と小包を受け取ったのは、ピクニックの日から数日たった頃だった。リュカからの手紙など初めての事で、心が踊る。急いで自室に戻り、まずは小包を開けるとそこには美しい細工の施された小瓶の香水が入っていて、ナディアは早速ワンプッシュ手首の内側に吹きかけてみる。
「あ」
嗅ぎなれたシトラスがふわりと広がった。
「あれ、でもなんかちょっと違う」
リュカの香りよりも甘くやわらかい香り。でも甘すぎず、とても良い香りだ。手紙には、仕事で家を空けることになったからしばらく会えない旨と、リュカがいつも使っている香りを女性用にアレンジして作らせたオードトワレを贈るから使ってくれると嬉しいといった内容だった。
「どうしよう、嬉しい」
今までに貰った贈り物の中でも一番かもしれない。
コンコン、とドアがノックされ入室を促すと、ナディアの母アナベルが顔をのぞかせた。ナディアの隣に座ると、「あら公爵さまの香りがするわ」と早速気づかれる。
「公爵さまがくださったの」
「まぁ、良かったじゃない。ふふ、公爵さまもなかなかロマンチックなお方ね」
「どうしてです?」
ナディアの問いに母は「あら知らないの?」と目を丸くさせた。
「男性が女性に香水を贈るのには意味があるのよ」
「意味…」
「そう、この香水を相手がつけることで相手を独占したい、自分を思い出してほしいっていう」
「そ、そうなのですか…知りませんでした。でも、公爵さまにそんな他意はないかと。以前私が良い香りだと言ったので、それで…」
自分はなにをそんなに否定しているのだろう、と言っている最中に気づく。母を見遣ると、なんとなく嬉しそうな顔をしていた。
「私もお父さんも、とても心配してたの。だって、あの天下のベルナール公爵さまよ?お父さんなんて、「遊びのつもりならナディアに関わらないでくれ」って震えながら言ったのよ」
「えっ、そんなことが…?」
父はもちろん、リュカからもそんな話を聞いたことは無い。
「公爵さまは、本気だから見ていてくれって。そんな風に言われたら、私ももう何も言えなかったわ」
でも、と母は続ける。
「今のところは合格といったところかしらね」
今のところは、なんて言うのが母らしいと思った。「それじゃぁお母さんは仕事にもどります」と言って母は立ち上がる。
「あ、そうだナディア。何か欲しいものがあったら言うのよ」
「はい、わかりました」
何か用事だったのではないか、と呼び止めようと思ったころにはもう扉は閉じていた。母はいい意味でも悪い意味でも騒がしい人だ。それでも、いつも父のそばで父を支えている母の姿はとてもイキイキとしていて、見ていて幸せな気持ちになる。それと同時に、母のように愛する人と寄り添うことは自分には出来ない、という現実を突きつけられているようで悲しくなる時期もあった。
「本気とは、どう意味ですか、公爵さま」
シンプルだけれど上質な便箋に綴られた文字をなぞりながら、ここには居ないリュカへと思いを馳せた。
手紙を貰ってから早1か月が経とうとしていた。
リュカからはあれから音沙汰がなく、もしかしたらまだ仕事が忙しいのかもしれない。時折、もしかして何かあったのでは、と不安がよぎるが、あれほどの方にもし何かあれば父の耳にも入ってくるはずだと思い悪い方に考えるのは止めた。
もしくは、ナディアのことにはもう飽きただけなのかもしれない、という可能性の方が色濃いのではないか、と最近思うようにもなっていた。
リュカが居ないせいもあって、ナディアの日常はリュカに出会う前に戻ったようだった。
ただ一つをのぞいては。
「あ、あの…そんなに見られていると恥ずかしいのですが…」
昼下がり、孤児院での用事が一通り済んだナディアは食堂で本を読んでいた。差し込んでくる日差しがほんのりあたたかく、開けた窓からは涼しげな風が吹いている。
夕飯の支度になるまでの間、リュカが孤児院に寄付してくれた書物の中で目星をつけていた本を読もうと思い立ったのだが、
「僕のことは気にしないで」
ナディアの隣に腰掛けたノアは、テーブルに頬杖をついてナディアをずっと眺めていた。
また来ても迷惑じゃないか、と聞かれたあの日から、ノアは暇を見つけては孤児院に顔を出している。
時にはナディアが居なくても、子どもたちの相手をしてくれたり、用を頼まれたり、アリスやテオの話し相手になったりしていた。
その持ち前の人懐っこさと明るさとで、今ではすっかり孤児院に馴染んでいた。
「気にしないでと言われても無理です、ノアさま」
穴が開くんじゃないかというほど見つめられ、ナディアはたまらず読んでいた本を閉じた。
「何か私にお話でもあるのでしょうか?」
「んー、特にないかな」
「…」
「あ、じゃぁ、好きな食べ物は?」
そういう話ではないのだけれど、とナディアは苦笑した。
「…えっと、強いてあげるならブドウでしょうか」
「嫌いな食べ物は?」
「ピーマンです」
「へぇー意外だなぁ。好きな生き物は?」
「馬です」
「じゃぁ、誕生日はいつ?」
「あ、そういえば、今日は何日でしたか?」
「9月の29日」
「ということは、明日です。すっかり忘れていました」
「えぇ!明日!?」
平和ボケだろうか。いつもならごちそうが食べれる日だからずいぶん前から楽しみに胸を膨らませていたのに。リュカのおかげで定期的にごちそうにありつけているせいで感覚が鈍ってきているのかもしれない。
あ、とナディアはつい先日の母の言葉を思い出した。それで欲しいものを聞いてきたのか。あの時はなんの話かわからず適当に流してしまっていた。
「誕生日パーティはやらないの?」
「我が家にそんな余裕はありませんので、毎年ささやかなごちそうを家族で食べるくらいなんです」
「あれ、公爵さまと過ごさないの?」
「公爵さまは、お忙しいようですし…、言っていないので誕生日もご存じないのではないでしょうか」
リュカの誕生日はいつなのか自分も知らないことに気づいて、今度会ったときに聞いてみようと思った。もし次があるのならば、の話だけれど、と自虐的な考えになっている自分が笑えてきた。
「そっかぁ…」
少し考え込むような仕草を見せてからノアは急に用を思い出した、と言って帰っていった。やっと訪れた心休まる空間で、ナディアは再び本を開いて文字を辿った。
「あ、ナディア、ここにいたの」
「アリス」
「今、ノアが慌てて出ていったけど」
「何か用事を思い出したそうよ」
「なんの用事かしらね。というかあのボンボン、よほど暇なのね。毎日のように来て」
アリスはノアを呼び捨てにするくらい打ち解けていた、と言っていいのかどうかはわからないが。アリスはここぞとばかりにノアをこき使っていた。
そして、役を貰えるのがノアは嬉しいようで、ナディアの目には需要と供給が保たれているように見えていたのでアリスに何か言うようなことはしていない。それに、ノアがそんなことに腹を立てるような人ではないということも今では知っているから。
「ノアさまは、友達が欲しいんだって」
「そんなの、嘘に決まってるじゃない!ナディアに近づこうって魂胆みえみえ。婚約者がいるのにナディアに近づこうとするなんてー、ホントむかつく、あの天然女たらしのボンボンめ、人畜無害みたいな顔しやがって」
次から次へと出てくる悪意の固まりにナディアは笑うしかない。
「ナディアも、公爵さまがいるんだから、あのボンボンとあんまり二人きりにならないようにね!」
「はいはい、わかりましたアリスお姉さま」
「あ、そうだ、明日は朝はリリアーヌさんががパンを焼くから、ナディアはお昼くらいに来てくれれば良いって院長先生が言っていたわ」
「そう、わかった。ありがとう」
それは、誕生日くらいゆっくりしなさいという院長先生とリリアーヌの気遣いだとすぐにわかった。毎年孤児院のみんなでお昼にお祝いをしてくれるのだ。ささやかなプレゼントまで用意して。ナディアはいつも申し訳なく思いながらもみんなの気持ちを受け取る。それは本当に嬉しい事だった。
「公爵さま、あれから手紙も無いの?」
「うん」
「よほど忙しいのね。明日はナディアの誕生日なのに」
「もう飽きたのよ、きっと」
「公爵さまに限ってそれは無いでしょう」
他にもっと良い恋人役を見つけたのかもしれないし、本当に恋人と呼べる人に出会えたのかもしれない。
「ってナディア、なんて顔してるの…」
「えーーー」
つー、と冷たいものが頬を伝った。仮面の下のアイスブルーの瞳から、涙が零れ落ちた。
「や、やだ…、なんで涙なんか」
ハンカチで慌てたように涙を拭っていると、アリスにそっと抱きしめられた。
「泣いて良いのよ、ナディア。悲しいときは泣いて良いの」
アリスの優しい声に、堰をきったように涙があふれ出てきて、ナディアはアリスにしがみつくように泣きはらした。