「あまり、煽らないでください。我慢にも限界があります」

 近づく気配がしたと思えば、耳元で囁かれた。
 煽るとは、我慢とは一体なんのことだろうか。
 バクバクと激しく打つ心臓がうるさくて、頭も回らない。いっぱいいっぱいなのに、おでこをこつんと当てたまま動かないリュカ。

「こ、公爵さま…」
「リュカ、と」
「え?」
「リュカと呼んでください」
「そんな…む、無理です」
「…どうしてですか、ライアンのこともあのむかつく小童のことも名前で呼んでいるでしょう」

 そんなことを言われても、無理なものは無理。恐れ多いし、なにより恥ずかしい。

「それは、成り行きと言いますか、そもそもお名前しか存じませんので致し方なくです」

 自分が王子の指導役、すなわち未来の宰相候補だということを自覚しているのだろうか。そんなすごい人を名前で呼ぶなど無礼千万。

「私は、あなたの恋人ですよ?」
「…」

 それを言われてしまうと何も言い返せない。

「わ、わかりました、ご命令でしたら善処します」
「命令ではありません」

 頬に添えられたままの手はそのままに、リュカの親指がやわらかにナディアの唇をなぞる。体の奥が、震える。触れそうで触れない唇が、もどかしい。

「ーーーお願いです、ナディ。名前を呼んでください」

 こちらが泣きそうになるほどの懇願に、めまいがした。

「リュカ、さま…、んっ」

 ついばむように、何度もなんども重なる唇。
 角度を変えては深まる口づけが、ナディアの思考を奪う。風が草木を揺らす音と、二人の息遣いしか聞こえない。

 まるで、この世に自分とリュカしか居ないかのような錯覚に陥る。

「りゅ、リュカさま…はぁ…っ、ま、待ってください、息が…」

 今度はナディアのお願いに、リュカはキスをやめてナディアをきつく抱きしめた。

「覚えておいてください。あなたは、私だけのものだということを」

 そんな呪縛のような言葉さえも、リュカの口からこぼれるとまるで崇高なものに聞こえるから不思議だった。まだ朦朧とする思考のなか小さく頷けば、頭を優しく撫でられる。抱きしめられる腕の中でナディアは、こんな自分でも必要としてもらえる間だけでもせめて、悲しそうな雰囲気のリュカに寄り添いたいと、応えたいと思った。