私財をも投げうって領地の人々を守ってきたリシャール伯爵は聖人君主と呼ばれ、その令嬢は顔に痣こそあるもののその美しさを隠すために仮面を着けているのではないか、と社交界の一部では「仮面の君」と密かに噂されていた。

 市場の偵察を兼ねてよく訪れている酒場で下働きとして男装するナディアの素顔を見たとき、息をのんだのをリュカは今でも鮮明に覚えている。
 あんな噂、気にしていたわけではなかったが、そこから急激にナディアに興味が沸き起こり、気づけばそのまま彼女の邸宅へと足を向けていた。
 領地のため、両親のため、幼い兄妹のため身を粉にして働くナディアの姿は、リュカの目にとてもまぶしく映った。
 そして哀れみや同情からではなく、自分の手で誰かを幸せにしたいと思ったのは初めてのことだった。

ナディアの家に挨拶に行った日のことを、リュカは思い出す。

◇◇◇

『公爵さま、失礼を承知で一つお伺いしてもよろしいでしょうか?』

ナディアが支度に部屋を出ていったあと、神妙な面持ちのリシャール伯爵にリュカは先を促す。

『ナディアとのことは、本気と捉えてよろしいのでしょうか。不躾な言い方で申し訳ないのですが、公爵さまにとってナディアが広い交友関係の中の一人としてなのであれば、ナディアにはこれ以上関わらないでいただきたい』

 それは、まぎれもない「父」としての言葉だった。リシャール伯爵は慎重に言葉を選びながら続ける。

『と申しますのも、ご存じの通りナディアは顔の痣が原因で外の世界との関わりを拒み、狭い世界でしか生きてきて来なかったのです。あの年で家族や幼馴染以外の異性とはまともに会話をしたこともないほどです。父親として、あの子が傷つくのが目に見えているのに黙ってはいられないこと、どうかご理解頂けないでしょうか』

 娘のために深々と頭を下げる姿はとても美しいものに見えた。やはり自分の選択は正しかったと、確信めいたものすら感じて、リュカは口を開いた。

『もちろん、ご両親のご心配は理解しているつもりです。ですから、こうして挨拶に参りました。信じていただけるかどうかはわかりませんが、ご令嬢とお二人からお許しを頂けるのであれば、いずれ婚約したいとも思っております。もちろん、口ではなんとでも言えてしまうのは百も承知です。お二人にはどうかこれからの私の「本気」を見ていて頂きたいーーー』

 頭を下げていたリュカには2人がどんな顔をしていたのか、見る勇気が無かったが、頭上からは「ーーーーわかりました。僭越ながら公爵様の本気を見させて頂こうと思います」とあたたかい言葉が帰ってきて、ほっとしたのを覚えている。

◇◇◇


「え?え?なになに、もう両親に挨拶済みなの!?どんだけ本気なの、リュカ」
「いけませんか、私が本気になっては」

 恥ずかしさを隠すようににやけ顔のライアンを睨みつけるも、ますますにやけるばかりで意味を為さなかった。