そこには、ひときわ豪奢なドレスを身にまとった女性が立っていた。薔薇を思わせるようなワインレッドのドレスには、たくさんの刺繡とともに宝石がちりばめられ、メイクもネイルも同じ色でコーディネートされている。白磁のような肌に赤が映え、きりっとした顔立ちのその人にとてもよく似合っていた。
「やぁ、ローズ。誕生日おめでとう。今日はお招きありがとう」
ローズということは、とナディアの体が固まる。睨みつけるようなローズとは対照的に、ノアは軽く挨拶を返した。
「こちらこそ、お越しくださりありがとうございます。そちらの女性は?」
頭の先からつま先まで品定めするかのように向けられた視線に、ナディアは今にも逃げ出したい衝動にかられる。
「彼女はナディア」
「ナディア・・・?その仮面・・・、まさか、本当にナディアなの?」
見つかってしまったのなら仕方がない。ナディアはローズに体を向けて、膝を折った。
「お久しぶりでございます、ローズ様。本日はおめでとうございます」
「あれ、知り合いだったの?」
ノアが目を丸くしてナディアに聞く。ナディアが答えるより先にローズが口を開いた。
「えぇ、昔女学校で少し。それよりナディア、どうしてあなたがノア様とダンスを?」
「僕が退屈だったから彼女に相手になってもらっただけだよ」
「でしたら、わたしくを誘ってくださればいいものを」
「君は、お客様の相手で忙しいだろう。それに誰と踊るかは僕の自由だ。君にあれこれ言われる筋合いはないと思うけれど」
「関係あります。ノア様はわたくしの婚約者になるお方なのですから」
「まだ婚約はしていない」
「なっ…!」
怒り心頭で口がふさがらないローズは、わなわなと怒りに震えてその矛先はノアではなくナディアに向けられる。
「ナディア、今日はわたくしの誕生日なのはご存じよね?」
「は、はい、もちろんです」
「では、お願いを聞いてくださる?」
「・・・私に出来ることでしたら」
嫌な予感しかしない。ナディアは下を向いたまま顔をあげられなかった。
「仮面を外してちょうだい、今ここで」
「え・・・」
背筋がすーっと冷えて立ち眩みがした。子どもの頃、女学校での事が再び脳裏をかすめた。
『汚い』
『呪いがうつる』
『ママに遊んじゃダメって言われたから』
思い出したくない言葉たちがナディアを襲う。震えが収まらない。スカートの裾をぎゅっとつかんで、やっとのことでナディアは言葉を絞りだした。
「お、恐れ入りますが、せっかくのお祝いの席で皆様をご不快にさせては申し訳ないので・・・」
「わたくしのお願いがきけないのかしら」
「ど、どうか、お許しを」
「ローズ、嫌がっているだろう。無理強いは良くない」
「わたくしのいうことが聞けないのね!」
ローズの右手が高くあがり、ナディアめがけて振り下ろされた。恐怖にナディアは目をぎゅっと閉じるが、痛みは一向に訪れない。そっと目を開けると、目の前にはリュカの広い背中があった。
「公爵令嬢とあろう方が人に手を挙げてはいけませんよ。せっかくの美しい手が赤くはれてしまいます」
そう言って、リュカはローズの手の甲にキスを落としてゆっくりと離した。
「あ、あなた様は・・・」
「申し遅れました。リュカ・ベルナールと申します。本日はバースデイパーティへご招待頂き誠に感謝いたします」
「もちろん、存じておりますわ、ベルナール公爵様。来てくださっていたのですね!光栄ですわ!今日はおひとりで?」
さっきまでの怒りはいずこへ。何事もなかったかのような態度でローズはリュカに詰め寄った。リュカは、そんなローズをかわす様に一歩下がると後ろで震えるナディアを抱き寄せたのだった。
「今日は、恋人と一緒に伺いました」
「え・・・?今、なんと・・・・?」
「恋人、と申しました」
ナディアの腰に回した右手にぎゅっと力が込められたのがわかった。左手はナディアの左肩を支えるように優しく添えられていた。
リュカは何を血迷ったのか、ナディアの頭に口づけを落とす。
その瞬間、周囲からは「きゃー!!」という悲鳴と感嘆とが混じった声が上がった。
「私の恋人が、何か失礼を?」
「い、いえ・・・、ただ、わたくしの婚約者と踊っていたので事情を伺っていただけですの」
「それはそれは、大変失礼しました。彼女はあまり社交の場に出ないので、恐らくあなたの婚約者とは知らなかったのでしょう。私からもよく言い聞かせておきますので、お許しください」
「えぇ、そのようにお願いしますわ。ーーーさぁ、みなさん、騒がせてしまって申し訳ありません。パーティを楽しんでくださいませ」
静まり返っていたホールは、また賑わいを見せて何事もなかったかのように人々の談笑で溢れた。まだ不満そうなローズは、ナディアを一瞥して友人の輪に戻っていった。
「ナディア、僕のせいでごめん」
すまなそうに歩みよったノアの前に、リュカが立ちはだかる。普段にこやかなリュカからは想像できないような厳しい表情をしていた。
「そちらの痴情のもつれに巻き込まないでいただきたい。失礼する」
ナディアを抱いたまま、その場を去ろうとするリュカに「ちょっとお待ちください」と言い腕の中から逃れると、ナディアは気落ちしたノアに歩み寄った。
「あの、私は大丈夫ですので、どうかお気になさらないでください。ダンスに誘ってくださりありがとうございました。では、失礼いたします」
リュカのもとに戻り「お待たせしました」と言えば彼は不機嫌そうに眉をしかめてナディアを見つめる。
「公爵さま、どうかしましたか?」
「気が変わりました。踊りましょう」
「え?お、踊るのですか?」
リュカはナディアの手を取り、ダンススペースへと歩を進めるやいなや腰を引き寄せてステップを踏みだした。曲はバラードだった。
先ほどのワルツとは違い、緩やかなテンポが特徴の、体をより密着して踊る曲だ。
2人は右手を重ね、リュカの左手はナディアの腰に回されて腰と腰とがくっつくほどに引き寄せられていた。
先ほどの騒ぎの後だ、周りの人の視線が刺さり、ナディアはいたたまれない。眉目秀麗なリュカの踊る姿に女性陣の眼はくぎ付けだった。
「ナディア、私の目を見て」
言われて見上げた先には、オパールグリーンの瞳があった。真っすぐに見つめられて、ナディアの胸が恥ずかしさと申し訳なさで苦しくなる。
リュカは、騒ぎを起こしたことに怒っているに違いなかった。
「私と踊るのは、楽しくありませんか?」
「そんなことありません。ただ・・・」
「ただ?」
「騒ぎを起こしてしまい、申し訳なく思っています。助けてくださりありがとうございました」
「騒ぎになったことは、あなたも無事でしたし結果としてアピール出来たからよしとします。そもそも、あなたを一人にした私が間違っていました。私は違うことに怒っているのです」
「違うこと、ですか?・・・あ、公爵さま以外の男性と踊ってしまったことですか?」
「・・・よくわかりましたね」
ぽかんとするリュカに、ナディアは続ける。
「そうですよね、恋人として来ているのにこんな人目の多いところで他の男性と踊るなんてダメですよね。私としたことが全くもってお勤めが果たせていませんでした・・・本当に申し訳ございません。特別手当は頂きませんのでどうかお許しください公爵さま」
「・・・な、ナディ・・・」
開いた口がふさがらないとはまさにこのこと。リュカは踊るのを止めるとナディアの肩に顔をうずめてくすくすと笑い出した。首元に、リュカの柔らかな髪を感じてこそばゆい。
「こ、公爵さま?」
「ナディ、あなたという人は・・・本当に面白いですね」
さ、帰るとしましょう、とリュカはナディアをエスコートしてジラール公爵邸を後にした。帰りの馬車の中で、キスの嵐がナディアに降り注いだのは、言うまでもない。
「どうしたものでしょう」
リュカは、執務室で頭を抱えていた。
仕事が手につかないことなど今までにあっただろうか、と思考を巡らせるが、仕事一筋できた今までの自分の人生にそんな出来事は思い当たらなかった。
社交界一の色男などと呼ばれている程には女性との間にいろいろありはしたが、そのことが原因で仕事に集中できなかったことなど一度もなかった。
女性との色恋は、人生におけるほんのスパイスでしかなく、楽しむもので苦しむためのものでは無かったからだ。
リュカの頭のなかを埋め尽くしている張本人はもちろんナディアだった。
「何がどうしたって?」
突然降ってわいた声に顔を上げると、ドアの所に一人の男が寄りかかっていた。
「ライアン。ノックくらいしてくださいといつも言っているでしょう」
「聞いたよ、リュカ。恋人が出来たんだって?」
リュカの言葉などスルーして、ライアンと呼ばれた男は中へと入るとソファに腰を下ろした。彼は、ライアン・シュバリエ公爵だ。リュカの旧友であり、唯一信頼を寄せる同僚でもあった。
「巷はその話で持ちきりだよ。誰にも心を開かない社交界一の色男に恋人!しかも仮面の恋人が出来た!ってね。で、その仮面の恋人とやらは一体どこの誰?」
ジラール公爵令嬢の誕生日パーティーから僅か一月ほどでライアンの耳にまで入った所を見るとまずまずの効果があったようだとリュカは内心頷く。
しかし、ナディアの素性までは広まっていないのは予想から外れていた。
「リシャール伯爵の長女ですよ」
「リシャール伯爵・・・って、あの聖人君主が過ぎて貧乏になってる?ーーーあぁ、仮面の君か!」
「ライアン、その言い方はあんまりですよ。まぁ、伯爵も奥方も確かに人の良いお方ではありましたけど」
私財をも投げうって領地の人々を守ってきたリシャール伯爵は聖人君主と呼ばれ、その令嬢は顔に痣こそあるもののその美しさを隠すために仮面を着けているのではないか、と社交界の一部では「仮面の君」と密かに噂されていた。
市場の偵察を兼ねてよく訪れている酒場で下働きとして男装するナディアの素顔を見たとき、息をのんだのをリュカは今でも鮮明に覚えている。
あんな噂、気にしていたわけではなかったが、そこから急激にナディアに興味が沸き起こり、気づけばそのまま彼女の邸宅へと足を向けていた。
領地のため、両親のため、幼い兄妹のため身を粉にして働くナディアの姿は、リュカの目にとてもまぶしく映った。
そして哀れみや同情からではなく、自分の手で誰かを幸せにしたいと思ったのは初めてのことだった。
ナディアの家に挨拶に行った日のことを、リュカは思い出す。
◇◇◇
『公爵さま、失礼を承知で一つお伺いしてもよろしいでしょうか?』
ナディアが支度に部屋を出ていったあと、神妙な面持ちのリシャール伯爵にリュカは先を促す。
『ナディアとのことは、本気と捉えてよろしいのでしょうか。不躾な言い方で申し訳ないのですが、公爵さまにとってナディアが広い交友関係の中の一人としてなのであれば、ナディアにはこれ以上関わらないでいただきたい』
それは、まぎれもない「父」としての言葉だった。リシャール伯爵は慎重に言葉を選びながら続ける。
『と申しますのも、ご存じの通りナディアは顔の痣が原因で外の世界との関わりを拒み、狭い世界でしか生きてきて来なかったのです。あの年で家族や幼馴染以外の異性とはまともに会話をしたこともないほどです。父親として、あの子が傷つくのが目に見えているのに黙ってはいられないこと、どうかご理解頂けないでしょうか』
娘のために深々と頭を下げる姿はとても美しいものに見えた。やはり自分の選択は正しかったと、確信めいたものすら感じて、リュカは口を開いた。
『もちろん、ご両親のご心配は理解しているつもりです。ですから、こうして挨拶に参りました。信じていただけるかどうかはわかりませんが、ご令嬢とお二人からお許しを頂けるのであれば、いずれ婚約したいとも思っております。もちろん、口ではなんとでも言えてしまうのは百も承知です。お二人にはどうかこれからの私の「本気」を見ていて頂きたいーーー』
頭を下げていたリュカには2人がどんな顔をしていたのか、見る勇気が無かったが、頭上からは「ーーーーわかりました。僭越ながら公爵様の本気を見させて頂こうと思います」とあたたかい言葉が帰ってきて、ほっとしたのを覚えている。
◇◇◇
「え?え?なになに、もう両親に挨拶済みなの!?どんだけ本気なの、リュカ」
「いけませんか、私が本気になっては」
恥ずかしさを隠すようににやけ顔のライアンを睨みつけるも、ますますにやけるばかりで意味を為さなかった。
「いや、僕は嬉しいよ、リュカ。君がようやく心を開ける相手に出会えたんだ!とても喜ばしいことだよ!ーーーでも、どうしてそんなに頭を抱えてるの?仕事ではないだろう?」
誰かに悩みを打ち明けるなんて、今までしたことがなかったが、八方ふさがりなこの状況からは抜け出したくて、仕方なく事の成り行きをライアンに話した。
それは、ナディアが全くもって自分になびかないこと、契約でありお金を貰うために仕事として自分に付き従っているだけなこと。
「リュカ、それは・・・また、なんと言っていいか・・・しっかりこじらせてるね・・・・。それになかなか手ごわい相手だね、仮面の君・ナディア嬢は」
「えぇ、全くです。私は全身で彼女にアプローチしているのですが、それが全て裏目に出ているのです」
プレゼントを贈っても受け取れないと突っぱねて、契約だからと言ってやっとしぶしぶ受け取ってもらえる始末。
パーティ会場でナディアと踊る見知らぬ青年に嫉妬して大勢の前で慈しんでも、怒っていると伝えても、全てがナディアの中で「女除けのためのお勤め」になってしまうのだった。
あの日、パーティからの帰りの馬車で交わしたたくさんのキス。
息継ぎをしながら一生懸命応えるナディアが愛しくて愛しくて、このまま家に連れ去りたい衝動にかられながらも、理性を保つので精一杯だったことを思い出す。
(あんなに甘いキスがあるなんて、今まで知らなかった)
リュカにとって、キスなど行為の一過程であって、あんな風に求めるものではなかった。
もっと、もっと欲しい。
ナディアのすべてを自分のものにしてしまいたい。
それは肉体だけでなく、もちろん、ナディアの心もだ。
そのためには、どうすればいいのか、今までろくな経験をしてこなかったリュカにとってそれは難問以外の何物でもなかった。
そして、更に厄介なことに、ナディアは痣のことで自分に劣等感を抱いている。ナディアの心にはいつも「自分なんかが」と自分を卑下する感情が渦巻いているのをリュカは感じ取っていた。
何をするにも、その感情が付きまとって邪魔をする。
今だって、きっと、「お勤め」がなければリュカの隣に並ぶことさえも拒否するだろう。
そのことが目に見えているから、リュカは自分の気持ちを素直に伝えることができないでいた。
いや、そもそも、その感情がなかったとしても、リュカの気持ちを受け入れてくれるのかどうかははなはだ疑問だが。
「うーん、仮面の君はリュカのことどう思ってるんだろうねぇ?」
「それは、私が一番知りたいことです、ライアン」
嫌われてはいない、と思う・・・。しかし、恋愛対象としては一切見られていないことは確かだ。
「じゃぁ、僕が聞いてみるっていうのはどう?」
「ライアン、魂胆が見え見えです。単にナディアに会いたいだけなんでしょう」
噂の仮面の君を一目見たいだけに違いない。
それに、ライアンのような天然の女たらしをナディアに近づけるなんてもっての外だ。
黒髪ストレートを後ろでひとつに束ね、その瞳に映った女性は誰しも心を奪われると言わしめる黒い瞳を持ち、いかにも聡明な容姿をしていた。
「ばれた?でも、悪くないと思うんだけどなぁ~。君が聞いたところで「契約」があるから本当のことは言いづらいだろうし」
ライアンのいうことも一理ある。ライアンをナディアに近づけるのは気が進まないが・・・。
「ーーーーでは、明日の午後に私の邸宅で。しかし、ナディアに指一本触れることは許しませんからね」
「アリス、私はどうしたら良いのかしら」
いつものように文字を教えに孤児院にやってきたナディアは、その日そのままアリスの部屋に泊っていくことにした。
どこか上の空のナディアを不審に思ったアリスからの提案だ。
「どうしたらいいって、何が?」
「公爵さまが、優しすぎて・・・」
「優しくしてくださるなら良いじゃない。何をそんなに悩んでいるの?」
全くもってわからない、と深緑色の目がナディアを見つめる。
「綺麗に着飾って、お姫様扱いされて・・・、美味しいごはんが食べれて、更にはお給金まで頂けちゃうのよ?こんな美味しい話があっていいのかしら?孤児院への寄付だってそうよ、あんなにたくさん。半年は困らない量だったし・・・。とてもありがたいけれど、なんだか公爵様に申し訳ないような気がして」
もっと言えば、リュカのような見目美しく聡明な青年の隣に居られて目の保養という特典付き。リュカとの時間は、ナディアにとって知らない世界のようでとても新鮮だった。
「でも、公爵さまに付き合って嫌な思いをしてたじゃない?」
「それは、そうだけど・・・。それは公爵さまのせいでもないし、公爵さまはちゃんと守って下さったもの」
ローズ公爵令嬢の誕生日パーティでの一件は、ナディアの中ではもう過ぎたことだった。
あの嫌な事件よりも、パーティでリュカと踊ったことの方が楽しい思い出となりナディアの心に残っている。
あの時のリュカの熱い視線や情熱的なリードを思い出すだけでナディアの胸はぎゅっと鷲づかみにされたように苦しくなった。
その後も、定期的に会ってはお茶をしたり、出かけたりという関係が続いていた。
まるで本当の恋人のような、甘くてとろけそうな逢瀬が繰り返されていた。
「私ばかりが得をしているような気がして」
「公爵さまは女除けが出来るだけで良いのよきっと。それにーーー」
「それに?」
「ナディアみたいに美しい令嬢を連れて自慢して、好きな時にキスできて、十分役得だと思うわ」
美しい令嬢ではない、と反論したいナディアだが、そういったところでアリスは取り持ってくれないので押し黙った。
「そんなもの?」
「殿方なんて、そんなものよ」
そうなのだろうか。自分なんかよりいろいろな人と交流のあるアリスが言うのだからそうかもしれない。
「それに、ほら、契約を解除されないって事は今のままで公爵様も満足してるってことよ!」
「そうは言っても・・・・、やはり何か少しでもお返しするのが礼儀だわ。私から公爵さまのために出来ることはないかしら?」
「うーん、そうねぇ。ナディアの手料理でもてなすのはどう?サンドウィッチでも作ってピクニックなんてどうかしら」
名案だわ、とアリスは手をたたく。
「ナディアの作るパンはどこの家のパンより美味しいもの」
「公爵さまのお口に合うとは到底思えないわ・・・」
リュカの邸宅で食べたシェフの料理を思い出す。あんなプロの作るごちそうを毎日食べているリュカがナディアの作る質素なサンドウィッチなど食べれたものではないはず。
「わかってないわね、ナディア。毎日ごちそう食べてる人は、質素な食事に癒されることもあるのよ。それに、忙しい公爵さまもたまにはゆっくり過ごす時間も必要なはず。きっと喜んでくださるわよ」
「そ、そうなの?では、誘ってみようかしら・・・あ」
「どうしたの?」
「私、公爵さまへの連絡手段がないわーーー」
そんなナディアの元にリュカから呼び出しがきたのは、ちょうど翌日のことだった。リュカの邸宅で過ごすため正装は必要ないと言われ、リュカから贈られた比較的軽装のドレスワンピースを着て迎えにきた馬車に乗り込む。馬車の中、ピクニックに誘うためのシミュレーションを頭の中で繰り返していた。
見慣れたリュカの邸宅の敷地を歩いて、中へと案内される。部屋数はどのくらいあるのだろう。
数えたことはないけれど、ここにはリュカと使用人しか住んでいないというのだからなんとも驚きだ。
リュカの両親は、すでに亡くなっていると父から聞いていた。
リュカを産んですぐに産後の肥立ちが悪くて母親は亡くなり、父親は3年前に病気で亡くなったため21歳という若さで爵位を継いで公爵となり今に至るのだという。
幼いリュカを育てた祖母も数年前に他界している。
(さみしくないのかな・・・)
ナディアは、リュカの心を想った。
自分には、両親もいて兄妹もいて、さみしいと感じたことなど一度もなかった。
もし、家族が居なかったら・・・と考えただけでも恐ろしい。さぞ寂しい思いをしてきたことだろう。
ナディアを連れまわして寂しさを紛らわしているのかもしれない。リュカの力になれるなら、出来る限りのことは応えたいと思った。
「ここは・・・・」
「中庭でございます」
案内されたのは、中庭へと続く広間。中庭に突き出た一角は天井も壁もガラス張りとなっていて、手入れされた庭がよく見渡せた。
「ダリアが見頃でしたので、旦那様がぜひナディアさまとお花見をされたいと」
言われて再度目を向ければ、大輪の花がなんとも豪華なダリアがあちこちに咲いている。
ピンクや白、赤、オレンジ、ブルーとそれは見事だった。使用人に促されガラスの間のソファに腰を掛ける。
「綺麗ですね」
「奥様のお好きな花でしたので、欠かさず手入れをしてまいりました」
リュカの母親のことだろうとすぐにわかった。
使用人のその物言いで、とても慕われていたことが見て取れる。
「素敵な方だったんですね」
「えぇ、それはもう。旦那様のように美しく、聡明なお方でした」
リュカの美しさは母親似だったのか、とリュカの話が聞けて嬉しくなった。
もっと聞いてみたいと思ったが、使用人はお茶の用意をと部屋を出て行ってしまった。
「ナディア、お待たせしてすみません」
「いいえ、待ってなどおりませんので、そんなに慌てなくて大丈夫です」