馬車に揺られるのは好きだ。パカラパカラと馬の駆ける足音と車輪のきしむ音に耳を傾けて、小窓から外を眺めるゆったりとした時間がとても癒しだった。
(し、視線が・・・)
ただでさえ狭い馬車の中、隣からの熱い視線にナディアは馬車を楽しむどころではなかった。
「そのドレス、とても良く似合っています」
「あ、ありがとうございます・・・、あの、髪飾りも・・・今度必ずお返し致しますので」
「そんなのはどうでも良いのですが・・・。この髪型は一体どうなっているんですか」
幾重にも編み込まれた髪を不思議そうに見つめ、手を伸ばすとおくれ毛を指ですくう。
「オルガさんが、結ってくださったので、私にもよく・・・」
「そういえば、オルガは祖母の髪も良くこんな風に編んでいましたね」
どうりで、手際がいいわけだ。
「・・・にしても、困りましたね・・・」
何がだろう、とナディアはリュカを見上げた。思いのほか顔が近くてドキッとした。
「脱がせたくて仕方ないのですが」
「っ!!??」
あまりに驚いたせいで、壁に肩をぶつけた。馬車はカタカタと弾んでいる。リュカは悩まし気な顔でこちらを見つめていた。
「その背中のボタン」
手が背中に伸びて、ボタンを一つ一つなぞるように撫でられる。薄い生地越しに感じるリュカの指に、背中がぞくりとした。
「外し甲斐がありますね」
「こ、公爵さまっ、ご冗談はほどほどに、お願いします」
「冗談ではないので困っているんですが」
「な、な・・・、そ、そもそも、私は恋人の役であって、夫婦ではございませんので!そのご要望には添えかねます!」
「・・・恋人に体の契りはないものだ、と?」
「・・・・え?ち、ちがうのですか?!」
「そうですね・・・、まぁ、人それぞれだとは思いますが」
ぼっと、火が出るんじゃないかというくらい、顔が熱い。
(あぁ、穴があったら入りたい・・・!)
恥ずかしさに耐えかねて両手で顔を覆った。
「なるほど、裏を返せば、キスは恋人の範疇ということですね」
裏を返す必要なんかないのに。
「ナディア」
顔を覆ったまま、だんまりを決め込んだ。社交界一の色男・・・、もとい、女たらしが憎らしかった。
「ナディ」
リュカの呼ぶ自分の名はどうしてこんなにも甘い響きをしているのだろう。
「ナディ、顔をあげてください」
顔から離した手は、淡いクリーム色のワンピースドレスの上に力なくのっかる。レースがふんだんにあしらわれたこの素敵な洋服を、自分のために選んでくれたリュカ。気まぐれだとしても、やはり嬉しかった。
ふと、暗くなったと思った時には、リュカが近づいていて、強まるシトラス。ゆっくりと顔を上げれば、もうすぐそこに伏目がちにこちらを見つめるオパールグリーンの瞳が迫っていた。
3度目のキスは、ゆっくりと訪れた。触れるだけのキス。ふに、と柔らかなそれはすぐに離されたかと思うと、角度を変えてもう一度触れて離れた。どっどっどっと体の中から激しく鼓動に叩かれているようだった。
緊張のあまり、固く結んだナディアの唇をリュカの親指がなぞる。何度か優しく撫でていた指は、しびれを切らしたかのように、ナディアの唇を押し開いた。下の歯に触れるリュカの指を感じて体の芯が震えた。
(また、この感覚・・・)
助けを求めるように目で訴えるも、恍惚としたリュカの色香に反対に当てられてしまう。
「そんな表情、他の男に見せてはいけませんよ」
そんな顔って言われても、どんな顔をしているのか、自分ではわからない。
「ん・・・っ」
再び交わされる口づけ。リュカの指に開かれたままだった口は、リュカの舌をやすやすと受け入れてしまう。リュカのそれは、柔らかく、そしてとても官能的だった。ナディアの舌を探したり、歯列をなぞったり、唇をついばんだり、リュカから与えられる刺激にただただ身を任せることしか出来なかった。
座っているのに、倒れそうな感覚になり、思わず両手でリュカの胸に縋ってしまう。そんなナディアを知ってか知らずか、腰に添えられた手に力が入る。
「す、すみません・・・・」
「いえ、私がいけませんでした。これからは加減します」
(なんだかそれって・・・・)
自分がまだまだだと言われている気がして、また顔に熱が集中した。これから先、リュカの相手が勤まるだろうか、と不安がナディアを覆った。
「なんて素敵な殿方かしら」
「まぁ、ベルナール公爵さまよ!こんなところでお目にかかれるなんて!」
街に到着して、リュカと並んで城下町を歩けば、すれ違う全ての女性がリュカに目を奪われているのが疎いナディアにでもわかるほどだった。そして、その視線は次に隣に並ぶナディアへと流れる。
「仮面なんか着けて高飛車な感じよね」
「一体どういうご関係かしら」
視線が突き刺さる。身なりこそ、リュカの揃えたものだからどこぞのご令嬢だが、実際は貧乏伯爵家でリュカに釣り合う家格とはとても言えない。
「迷子になるといけません、手を」
(こんなに輝いている人は見失いません)
心の中でつぶやきながらも素直に手をとった。自分は、今リュカの恋人(役)だから。街中には、たくさんのお店が立ち並び、いままでナディアが見たことのないものもたくさんあり、目を輝かせていた。可愛い雑貨の並ぶお店、庶民向けのアクセサリー専門店、マカロン、ショコラ、パンなど、甘く香ばしい香りもナディアの心を弾ませる。
「欲しいものがあれば教えてくださいね」
リュカにそう言われたが、欲しいなど口が裂けても言うまいと心に誓う。そんなことをリュカの目の前で言ったものならば、店の片っ端から買い集めかねない。それに、ひとつにとどめたところで、その値段はナディアの1日のお給金の額をゆうに超えているものばかり。ナディアにとっては贅沢品以外の何物でもなかった。
しかし、そんなことはリュカもすでに学習済みで、ナディアがものをねだることなどしないことは予想の範疇。美味しそうな匂いのする店や若い女性向けの店などに自ら足を運んでナディアと一緒に店内を物色した。そうすれば、ナディアは気が付くと夢中になって店内の隅から隅まで嬉々として見て回った。ショコラトゥリーやパティスリーでは、味見と言っていくつか買ってはナディアに食べさせた。恐縮しながらも幸せそうに頬張るナディアにリュカはとても満足げだった。
「公爵さま、今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
時間を忘れるくらい楽しく過ごした後、家まで送ると言ったリュカになんとか孤児院の近くで降ろしてもらった。
「私もです、ナディア。私のわがままに付き合ってくれてありがとうございました」
「いえ、そんな。では、失礼します」
「ナディ」
「わっ」
手を引っ張られて体勢を崩しそうになり、一歩近づいたリュカとの距離に急に胸がどくどくと音を鳴らす。
「こ、公爵さま?」
恥ずかしくて下を向くナディアの顔は、リュカの指先によりたやすく上を向かされてしまった。恥ずかしさのあまり、ぎゅっと目をつむるナディアに、あのシトラスの香りと甘い口づけが落とされる。心臓の音がリュカまで届いてしまいそうなくらいうるさい。唇が離されても、リュカはそのままおでこをナディアのそれにこつんとくっつけて離れない。
「ナディ、目を開けて」
言われるまま、きつく閉じていた瞼をあければ、仮面のすぐ先にあるオパールグリーンの瞳に射貫かれてしまう。まつ毛までブロンドで美しい。
「あなたは、ブルーダイヤのようなとても美しい瞳をしていますね。いつも仮面の奥で見えないのがとても残念です」
頬に手が添えられ、鼻先が触れてーーーー
「ああああーーーーーー!」
大きな声にびっくりして、気づけば両手で力いっぱいリュカを押しのけて後ずさった。
「アーチュウ」
声の主は、孤児院のアーチュウだった。どうやらお使いを頼まれたのか、手に巾着を持っていた。空いた手でふたりのことを指さして、ニタついている。一体どこから見ていたのだろう。
「ナディアが男といけないことしてるー」
「アーチュウ、何言ってるの!」
「だって今、ちゅうしてたじゃん、このイケメンと」
「こんばんは、君が噂の天才アーチュウですね。ナディアから話は聞いていますよ。どこかにお使いを頼まれたのですか?」
「お、おう」
イケメンに急に褒められ、たじろぐアーチュウは、まんざらでもなさそう。
「お使いを頼まれるなんて、アーチュウは院長先生からも頼りにされていてすごいんですね。ナディアもいつも君のことばかり話すものだから、私もどんな子なのか気になっていたんです。会えて光栄です、アーチュウ」
「なんだ、話のわかる良いイケメンじゃんか。おれの弟子にしてやっても良いけどな」
「アーチュウ!この方は、」
冷や汗を浮かべるナディアを制して、リュカは続けた。
「それは身に余る光栄ですね。では、師匠、ひとつだけ私に弁解させてください。さっきは、ナディアの目に入ったごみを取っていただけなんですよ」
「そうなのか?まぁ、イケメンがそう言うなら信じてやってもいいぞ」
「さすが師匠、話が早いですね」
「あ、俺お使いの途中だったんだ。お前の相手はまた今度な!」
「お気をつけて、師匠」
くすくすとほほ笑みながらアーチュウを見送るリュカを見て、ナディアは胸がほっこりとあたたかくなった。なんて、心の優しい人なんだろうか。公爵家の当主が嫌な顔ひとつせずに孤児院の7歳の子どもの相手をするなんて、普通出来ることじゃない。
「公爵さま、申し訳ございません。アーチュウが無礼を・・・」
「あんなに小さい子が家族もなく孤児院で過ごさなければならないなんて・・・、不憫でなりません」
見上げた横顔はとても悲しそうな表情で、ナディアの胸まで締め付けられた。
「それよりナディア」
「はい」
「先ほどは、思い切り突き放されて、私はとても傷つきましたよ」
「えっ、あ、」
そうだった、アーチュウの声で驚いたとはいえ、つき飛ばしたのは事実。リュカは、胸を抑えて心底傷ついたような顔で2人の距離をじりじりと詰め寄る。
「すみません、びっくりして・・・」
伸びてきた手は、再びナディアの頬を包み込む。オパールグリーンの瞳は、まっすぐナディアを捉えて離さない。
「また、人に見られてしまいます・・・」
「それもそうですね。しかたありません、続きはまた今度にしましょう」
続きがあるのかと気になりつつも、お礼を言って別れたナディアは孤児院へと足を向けた。両親に今日のことを隠すため、ここで元着ていた服に着替えて何事もなかったように帰る算段だ。背中のボタンも、頭の飾りと編み込みも、全てアリスにお願いしよう。
「院長先生、これは一体どうされたのですか?」
孤児院へ着いて院長室に顔を出すと、部屋を埋め尽くすほど箱が積み上げられていた。
「まぁ、ナディア、良く来たわね。私も話を聞きたかった所なの」
院長の話によると、「ナディア様は用事ができて来られなくなったためベルナール公爵さまが私を代理に遣わしました」と言って一人の男が大量の荷物と共に突然やってきたとのこと。荷物は、小麦や砂糖、塩などの食料品から布団やシーツ、服などの衣料品といった生活に必要な物資ばかりで、全てリュカが使用人に命じて用意させたものだという。また足りないものがあればいつでも知らせろと。
「これは、あなたに渡してくれっておっしゃっていたわ」
院長が指さした隅に置かれた荷物の中には、紙やペン、インクが子どもの人数分と小説や歴史書などの古本も数十冊あった。
「もしかして、この前私がお話したことを覚えていらして・・・・」
共に食事をしたときに、孤児院のことも聞かれて、文字を教えていることや書物が足りないことなども話したのだった。
「なんということでしょう、院長先生。私はどうお礼をしたら・・・」
「そうね、こんなにたくさんの施しをしてくださるお方はそうそういらっしゃらないわよね。何もお返しできないのがもどかしいわ」
どうして、こんなにも良くしてくださるのだろう。ナディアが考えたところで、リュカの気持ちなど到底理解できないのだった。
それから数日間は平和な日々が続いていた。そろそろドレスが届く頃だと思いながら、言い訳を考えてきたナディアだったが、それは儚くも砕け散る事になる。
「ナディア!ナディア!どこにいるの?!」
「はい、ただいま参ります!」
ある日の朝、洗濯ものを干していたナディアは、母の慌てふためく声に返事をしながら手を止め、急いで声のする方へと走った。
「お母さま、どちらでーーーー」
庭から玄関へ回ったところで、門の所に停まる馬車が目に入りナディアは思わず足を止めた。忘れもしない、リュカの馬車だった。また突然の迎えをよこしたのだろうか、と考えたのと同時に両親への説明をどうしたものかと悩ましい問題が再び頭をよぎる。
「ナディア、そこにいたのね!はやくこちらへ!」
声に振り向くと玄関から母が飛び出して来るところだった。
「お母さま、そんなに慌ててどうされたのですか」
「見ればわかるでしょう。公爵様がいらしてるのよ!」
「えっ、ベルナール公爵さまが?どうして?」
「どうしてかは、わからないけれど・・・あなたへのプレゼントをたくさんお持ちになってくださったのよ。客間にお待たせしているから、さぁ急ぎましょ。お父様がお相手してるの」
ナディアには、リュカが一体何を考えているのか全くわからない。まさか、ドレスをリュカ自身が届けてくれるなんて考えもしなかった。使いの者、もしくは仕立て屋の者が届けてくれるものだと思い込んでいた。
「公爵さま、お待たせして大変申し訳ございません」
お茶の準備に走った母と別れ客間に行くと、ナディアの父とリュカは何やら穏やかに談笑している様子だった。客間と呼ぶにはあまりに貧相な部屋の中、ソファに腰掛けるリュカの姿はこの部屋に不釣り合いなほど、キラキラと輝いて見えた。
「ナディ、久しぶりですね。変わりありませんか?」
挨拶するナディアに振り向いて、リュカはその端正な顔に優しい笑みを浮かべた。きらきらとまぶしくて、目を閉じてしまいそうだ。
「はい、おかげさまで、変わりなく過ごしております。公爵さまもお元気そうで何よりです」
「えぇ、たった今、あなたの姿を見ることができて元気になりました」
なんてことをサラリと言ってのけてしまうのだろう、この人は。なんの衒いもなくすらすらと恥ずかしいセリフを。
「お戯れを」
「戯れているつもりはありませんよ、ナディ。ここ最近忙しくて会いに来れず寂しかったのです私は」
「いやはや、ベルナール公爵様はお噂通りとてもスマートな方ですなぁ。それにしても、公爵様、この大量のプレゼントはさすがに頂くわけには・・・。馬車で轢かれそうになったというお詫びは先日十分過ぎるほど頂いた上に、孤児院へ多額の寄付まで頂き、慈悲深いお心遣い誠に感謝申し上げます」
父の話にリュカはちらりと視線をナディアに送った。その視線を受けてナディアは慌てて口を開く。
「あ、そ、そうです、公爵さま。公爵さまの馬車に轢かれそうになったのは、私の不注意でもございましたし、えっと、私もけがは無かったわけですし・・・、先日頂いた品々と孤児院へのご寄付だけでもう十分でございます」
ナディアは怖くてリュカの顔をまともに見れない。どうか話を合わせて!と願うナディアだった。
「お待たせしました~。お茶をどうぞ公爵さま」
「ありがとうございます」
部屋に入ってきた母は、ティーカップをテーブルに置いて腰掛けたところでドアが開き、弟のレオンと妹のシャルロットが入ってきた。
「おかあさま・・・」
「どうしたの2人とも、お庭で遊んでいてって言ったじゃない」
「だって、シャルロットがお腹すいたってー」
「ねぇ、おかあさま、どうしてお家におうじさまがいるの?」
そう尋ねるシャルロットはレオンの後ろに隠れるように立ち、ナディアと同じアイスブルーの瞳はリュカを見ていた。
幼子の素直なそのセリフに両親もナディアも、リュカも思わず顔がほころんだ。ナディアは、入口に佇む二人を中へと優しく促した。
「シャルロット、このお方は王子さまではなく、ベルナール公爵さまよ。ふたりともご挨拶して」
「こ、こんにちは、公爵さま」
「こんにちは、シャルロット、レオン。ちょうどいいところにきましたね。そこのブルーとピンクの箱を開けてみてください」
二人は「王子さま」に言われるまま、今まで見たこともないくらい質のいい紙で包まれた箱を手に取り封を開ける。すると中からお姫さまのお人形と車のおもちゃが出てきて、2人は目を輝かせた。
「ありがとう!えっと・・・、べ、べなー・・・??」
「どういたしまして、リュカで良いですよ」
「リュカさま、ありがとう!」
「公爵さま・・・2人にまでプレゼントをご用意くださったんですか?!」
驚くナディアに、リュカは「えぇ」とうなずき、満足そうに2人を見つめていた。
「気に入ってもらえるかどうか不安でしたが、喜んでもらえたようで何よりです。あぁ、いけない、シャルロットはお腹が減ったのでしたね。外にある私の馬車で遊んできて良いですよ。中にお菓子もあるのでたくさん召し上がれ。ただし、御者のいうことは守らないといけませんよ」
リュカの言葉に2人は今貰ったばかりのおもちゃを胸にきつく抱きしめて部屋から小走りに出ていった。
「なんとお礼を言ったらいいのか・・・」
「本当に・・・お返しできるものが何もありませんわ」
ただただ頭を下げることしか出来ないでいる両親にリュカは向き直ると口を開いた。
「お礼など。私が勝手にしていることです。お気になさらず。それよりナディ、座ったらどうです?」
「あらどうしましょう。ナディアの座るところがないわ」
「そうだな、今廊下から椅子をもう一脚持ってこよう」
この部屋には、テーブルをはさんで二人掛けのソファが一つ、一人掛けの椅子が二つあり、二人掛けのソファにリュカが座り、一人掛けの椅子に父と母がそれぞれ座っていた。
「あ、では私が持ってきます」
「ナディ、こちらへ」
見れば、リュカが自分の隣をポンポンと手で叩いている。ここに座れ、と言っていることは明白だが、客人の隣、しかもリュカの隣に座るなど無礼千万。
「い、いえ、取ってきますので大丈夫です」
「私の好意は迷惑でしたか?」
捨てられた子犬のようにしょんぼりと悲しそうにリュカはつぶやいた。その声にナディアは動けずその場に固まってしまう。そんな風に言われたら、誰だって断れない。
「迷惑なんてとんでもないです・・・。では、ご厚意に甘えて失礼いたします」
しぶしぶ隣に座ると、ふわりとシトラスの香りがナディアの鼻をくすぐった。その久しぶりの香りになぜかいたたまれない気持になる。
「狭い屋敷で申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ突然お伺いする無礼をお許しください」
「そんな無礼なんてとんでもない!公爵さまのようなお方に来ていただけるなんて我が家は光栄です」
それで先ほどの事ですがーーーと父が話を戻した。
「せっかくご用意してくださったのに大変心苦しいのですが、お詫びの品は身に余るほど頂きましたので、こちらの品はどうかお引き取り頂けないでしょうか」
ナディアは、事の成り行きをただここに座って待つしかなかった。
「リシャール伯爵のおっしゃることはごもっともです。ただ、今日のプレゼントは、先日のお詫びではありません」
「・・・・と申しますと・・・?」
「恋人に贈るプレゼントとして持ってまいりました」
「っ!?こ、こ、恋人!?」
二人の視線はリュカからナディアへと移される。本当なのか?と。
「えぇ、実は、先日お会いした際に、ナディに・・・リシャール伯爵令嬢に交際を申し込んだのです。今日は、お二人にご挨拶も兼ねてこうしてお伺いした次第です。お二人がご存じない所を見るとどうやらナディは恥ずかしがりやの様ですね」
にっこりと薔薇の花が綻ぶように優雅な笑顔を浮かべるリュカを横目に、ナディアは心の中で頭を抱える。
(終わった。全てが水の泡に消えた・・・)
両親の視線を痛いほど感じながら、仮面の下で目を閉じた。
◇◇◇◇
「では行って参ります」
「失礼のないようにね」
「楽しんでおいで」
「大切なご令嬢をしばしお預かりします」
馬車まで見送りにきた両親にリュカはそういってナディアを馬車にエスコートする。さっき、リュカが持ってきたばかりの新しいドレスに身を包んだナディアは裾を踏まないように気を付けながら馬車に乗った。
リュカの白昼堂々の交際宣言の後、リュカはこれから社交パーティにナディアを連れていくと両親に告げ、持ってきたプレゼントの一箱の封を開けるとナディアに着替えを命じた。ナディアが着替えている間、リュカは両親からの質問攻めに付き合ってくれていたおかげで、ナディアが2人に尋問される事だけは避けられた。帰ってきてから何を聞かれるかはわからないけれども。
支度を済ませて客間に戻ると、リュカはもう一つ二つと包みを開けてネックレスや髪飾り、ハイヒールを取り出しナディアに一つ一つ着けてくれたのだった。それも、両親の見ている目の前で。ナディアは、何度も自分でやれると申し出たけれど、またさっきの捨てられた子犬のようにしょんぼりとした顔で「迷惑ですか」なんて言われるものだから、仕方なくされるがままになる他なかった。
「怒っていますか?」
馬車が走り出すとリュカが前を向いたままナディアに言った。ナディアは考える。何か怒るようなことがあっただろうか、と。
「何をでしょうか?」
「突然押しかけて、ご両親に交際していると言ったことです」
「そんな、怒るなんて。少し心の準備が追いつかなかっただけです。それに、私だけでなくレオンとシャルロットにまでプレゼントを頂いてしまって、感謝の気持ちで一杯です。2人のあんなに喜んだ顔は久しぶりに見ました。それに、孤児院へたくさんの食料や衣料など贈って下さり本当に、なんとお礼を申し上げればよいか・・・」
本当にありがとうございます、とナディアはリュカを見上げてもう一度お礼を言う。
「怒っていないのですね」
「もちろんです。公爵さまこそ、私が両親に嘘をついて隠していたことをお怒りではありませんか・・・?」
「そうですね・・・、怒っているというより、少し悲しかったですね」
「悲しい・・・?」
リュカはようやくナディアに顔を向けた。何度見ても美しい透き通るようなオパールグリーンの瞳がナディアを見つめる。
「えぇ、あなたが私とのことを知られたくないと思っていることが、悲しかったです」
それは、どういうことだろう。
隠したかったのは、両親に余計な心配をかけたくなかったのと例えカムフラージュだとしても自分に交際相手が出来たなど恥ずかしくて言えなかっただけなのに。リュカが悲しむ理由がナディアにはわからなかった。
「も、申し訳ございません。恥ずかしくて・・・」
「わかっています。おしかけたのは私ですから、気にしなくて良いのです。それでも、今日はあなたの家族に会えてよかった。あなたが愛されているのがよくわかりました。素敵なご両親ですね」
リュカの瞳に見つめられたままナディアの思考は止まる。
近づく。あ、くるーーーーと思わず身構えたナディアだが、手が頬に延ばされただけだった。
「化粧が崩れるといけないので今は止めておきます。もしかして、期待しましたか?」
「き、期待なんてしていません!」
赤くなる顔をぷいっとそらしてナディアはばくばくと音を立てる心臓をなんとか鎮める。リュカの相手は、恋愛経験皆無のナディアには刺激が強すぎだった。リュカはそんなナディアを見てくすくすと笑って楽しんでいる。
「さ、そろそろ着きますよ」
その言葉の通り、馬車はほどなくして速度を緩めて停車した。先に降りたリュカは振り向くとナディアに手を伸ばした。その流れるような仕草に、シャルロットのセリフがナディアの頭に浮かんできた。
『どうしてお家におうじさまがいるの?』
上質なシルクのドレスに身を包み、光り輝く宝石を身に着けて豪奢な馬車に乗る自分はお姫様で、手を差し伸べてくれる目の前の紳士はまさに王子さまそのもの。ナディアは自分がまるでおとぎ話の中にいるような不思議な感覚だった。
「ナディ?」
「あ、ありがとうございます」
一向に動かないナディアを心配そうに覗き込むリュカ。ナディアは慌てて差し出された手を取り、馬車から降り立った。そこは、誰かのお屋敷のようだったけれど、社交界に疎いナディアにはさっぱりわからなかった。
「さぁ、参りましょう」
「はい」
リュカはナディアをエスコートして屋敷へと入っていった。
「すごいお屋敷ですね」
「えぇ、ここは、ジラール公爵の邸宅です。今日は彼の長女であるローズ令嬢のバースデーパーティに招待されました」
「ローズ・ジラール公爵令嬢・・・」
「ご存じでしたか?そういえば、年の頃はあなたと同じくらいでしたね」
貴族の令嬢たちが通う女学校に通っていたナディアと同じクラスに彼女はいた。伯爵令嬢であるナディアよりも家格の高いローズは、なぜか何かとナディアに食ってかかってきたのを覚えている。顔の痣の事で汚いと邪険にされたり、他の友人たちにナディアに近づかないほうがいいというような事を言われた。居心地がわるくて女学校を休みがちになったのも彼女が原因と言っても過言ではなかった。
「はい、昔女学校で一緒だった事が」
「そうでしたか」
昔の嫌な記憶を鮮明に思い出してしまい、不安な気持に押しつぶされそうになりながらも、ナディアはなんとか歩を進めた。もう、昔のこと。自分のことなど彼女は覚えてすらいないかもしれない。
使用人に案内されて着いた広間は、すでに人で溢れてにぎわっていた。天井は吹き抜けで色とりどりの光りがステンドグラスを通して差し込んでいた。上質なシルクのテーブルクロスの敷かれたテーブルの上にはたくさんの料理や果物、デザートが所狭しと並べられている。集まった人たちは、数人のグループがいくつもできており思い思いに話に花を咲かせているようだった。
「ナディ、すみません、少し挨拶周りをしてこなくては。一人でも大丈夫ですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
「出来るだけすぐ戻りますからね」
ナディアの手の甲にキスを落として、リュカは人込みの方へ消えていった。
それを見送って一人になったナディアは急に心細くなり、出来るだけ目立たないところはどこだろうか、と辺りを見回し、使用人が待機しているホールの片隅に移動した。
ナディアはホールの隅に身を寄せて、窓の外に視線を向ける。
庭に面したホールはほぼ半分がガラス張りになっていて、窓の向こう側もガーデンパーティのように解放されていて、そこには見るからに豪華な色とりどりのドレスを身にまとった若い令嬢が数人集まっていた。
年の頃は同じ位だろうか、綺麗に結わえた髪には宝石やリボンの飾りが着けられ、笑みを作る唇はくっきりと紅がさしていた。
かくいう自分も今は傍から見れば彼女たちとなんら変わらない身なりをしているが、実際はそうではない。
どことなく、後ろめたさを感じてナディアは目をそらした。
「素敵な仮面だね」
突然、後ろから降ってきた低いアルトにナディアは体を強張らせる。
仮面というワードからきっと自分にかけられていることがわかったが、ナディアは出来ることなら誰とも話したくなかった。
聞こえないふりをしていれば諦めてどこかに行ってくれないだろうか、とよこしまな考えをめぐらせる。
「あれ?聞こえなかった?」
そんなナディアの望みもむなしく、声の主は後ろから隣へと近づいてナディアの顔を覗き込んできた。
あまりの近さに、ナディアは一歩後ずさり距離をとる。目を向けた先には、さわやかな笑顔を浮かべた青年が立っていた。
年の頃は同じか少し上か。深いブラウンの髪の下からのぞく瞳はアイリスを思い浮かばせる薄紫色をしていてとても美しい。儚げな雰囲気のリュカとはまた違ったオーラのある青年だなとナディアは思った。
「申し訳ございません、ぼうっとしておりました」
「あはは、そうなんだ。はい、これあげる」
半ば強制的に押し付けられたグラスを受け取って固まるナディアに、青年は笑いながら「安心して、レモネードだよ」という。
「あ、ありがとうございます」
「せっかくのパーティなのに、飲まず食わずじゃもったいない」
どうぞ、と促されてナディアはようやくグラスを口に運んだ。さわやかな酸味と適度な甘みのバランスがちょうどいいレモネードが喉を潤してくれる。ざわつく気持ちをほんの少しだけ落ち着かせてくれた。
「一人で来たの?」
「あ、いえ、付き添いで来ております」
「そうなんだ、こんな綺麗な令嬢を一人にするなんて、酷い人がいるもんだ」
早くこの場から離れたいと思いながらも、目の前で屈託のない笑顔でいる青年を無下にもできず、ナディアは動くことが出来ないでいた。
「あ、ぼくはノア。お見知りおきを」
「ナディアと申します」
「美しいレディは名前まで美しいね」
さっきから綺麗とか美しいとか、歯の浮くような言葉を浴びせてくるのはとりあえずスルーして、ナディアは笑顔でやり過ごす。こんな風にアリスやテオ以外の同年代の人と話すこと自体が久しぶりのことで、どう接するのが正解なのか考えあぐねていた。
「早くここから逃げたいって顔してる」
「そ、そんなことは」
「人と話すのが苦手?」
「こういう華やかな場には慣れていないのです・・・」
「じゃぁ、ローズの誕生日パーティーも初めて?」
ノアの口からさらっと「ローズ」と出たところを見ると彼女と親しい仲なのだろうか。はい、と頷くとノアは「そっか」と返して何か考えている様だった。
「ナディア、ワルツは踊れる?」
「え、いえ、ダンスは苦手で・・・」
「大丈夫大丈夫、僕がリードするから。さ、行こう」
そういうとノアは、ナディアの手からグラスを奪いそのまま手を取りホールの奥へと小走りにかけていく。あまりに突然の事に、ナディアは転ばないようについていくだけで精一杯だった。広いホールの奥の方では、オーケストラの奏でる音楽にあわせてたくさんの人が踊っていた。
「あ、あの、ノアさま、本当にわたし踊りは・・・」
「ノアでいいよ。さまなんて堅苦しいのはごめんだ」