「んだとぉ!?」
「やんのかこらあ?」
テーブル席の二人組が口喧嘩を始めたのだ。ナディアは様子を見ていたが、いよいよ取っ組み合いになりかけ仕方なく間にはいった。
「お兄さんたち、喧嘩は外でお願いしますよ~」
極力逆撫でしないようになだめようと近づくナディアを一人が腕で思い切り振り払った。
か細い少女など男の手で簡単に吹き飛んでしまう。
尻もちをついたナディアに、近くにいた客が「大丈夫ですか」と手を差し伸べてくれた。
その手を取ろうとしたナディアは、床に落ちている眼帯に気づきギョッとした。
慌てて手で左目を押さえ、眼帯を拾ってそのまま酒場の裏に逃げ込んだ。
「大丈夫、見られてない。いえ、見られても私だなんて誰も気づかないわ。大丈夫。」
ナディアは自分に言い聞かせるようにして、眼帯を巻きなおし中に戻る。
するとさっきの二人組は奥さんに追い出されたみたいで平穏を取り戻していた。
ナディアは、さっき手を差し伸べてくれた親切な人を探したけれど顔を見たわけではなかったので見つけられなかった。
「明日も頼んだよ」
「おやすみなさい」
今日のお給金を手に握りしめ、ナディアは足早に家へと急ぐ。体はもうくたくただ。
早く帰って体を休めなくては。朝にはパンを焼かなくてはならない。
屋敷へと続く坂道を登りきったところで馬車が屋敷の前に停まっているのに気づいた。
(こんな時間に一体なにかしら・・・)
ナディアは不審に思い、裏庭へと回ろうと一つ手前の角を曲がった。
「リシャール伯爵家のご令嬢ですね」
曲がった先、屋敷の塀にもたれかかる人影がナディアに話しかけた。冷たいけれど、艶のある声が闇夜にまぎれて消えていく。
「何をおっしゃいますか。わたしは伯爵家の使用人のものです」
震える手をぎゅっと握りしめて、ナディアは答える。
「どなたか存じませんが、急いでいるので失礼」
「私は、リュカ・ベルナールと申します」
頭を下げて通り過ぎようとしたナディアはその場に足が凍り付いて動けなくなった。
この国でその名を知らない貴族は居ないと言っても過言ではないほどの有名貴族。
リュカ・ベルナール公爵は、現王子の指導を任されている王からの信頼も厚いベルナール公爵家の当主だ。
また、その整った容姿と巧みな話術で数々の女性を虜にしてきた社交界一の色男の異名も持っていた。
どうして、こんな所にベルナール公爵がいるのか、しかも自分に声をかけてくるなんて一体どういうことだろう。
ナディアの頭の中は疑問で埋め尽くされた。
けれどもいくら考えても答えなど出るはずもない。
自分はベルナール公爵とは会った事も話した事もないのだから。
「ベルナール公爵さまがどうしてこのような所においででしょうか」
「質問しているのはこの私です」
ぴしゃりとナディアの言葉を押さえつけ、ベルナール公爵は壁から背を離すと近づいてくる。
目の前まで来た公爵は、ナディアからは見上げないといけないほど長身だった。
けれども、ナディアは恐怖で地面を凝視するしかない。
「質問に答えないおつもりですか?」
「いえ、ご質問にはお答えいたしました。私はリシャール伯爵家の使用人でございます」
ナディアの答えに公爵は鼻で笑った。
「あくまでも白を通す気ですかナディア嬢。いいでしょう。では、服を脱いでください、使用人」
「こ、公爵さま。なぜ、そのような・・・」
「聞こえませんでしたか?それとも私の命を聞けないというのでしょうか。男なら服を脱ぐことくらいせん無い事。服を脱いで自分はナディア嬢ではないことを証明してみせてください。でないと私は納得しませんよ。それとも、今すぐリシャール伯爵にあなたが本当に使用人か尋ねてもかまいませんが?」
取り付く隙もない言葉に、降伏するほか道がないことを悟り、ナディアは息を吐いた。
今の今まで、呼吸もろくにできないほど自分が緊張していたことに気づいた。公爵は、自分がリシャール伯爵家の長女ナディアだという確信を持っている。
この使用人を名乗る自分が、服を脱いで証明することなどできないことも端からわかっているのだ。
「申し訳ございません、嘘を申し上げました。公爵さまのおっしゃる通り、わたくしはリシャール伯爵の長女ナディアでございます」
深くかぶっていた帽子を取り、膝を折って頭を垂れるナディア。
顔を上げたナディアの目に、ベルナール公爵の笑みが映りこんだ。
その笑みは、なんというか、勝ち誇った風でもなく、ナディアの返答にただ満足している風としか言えない、嫌味っぽさのかけらも感じない不思議な笑みだった。
間近に見る噂の公爵は、予想していたよりもずいぶん若かった。
切れ長のオパールグリーンの瞳はまさに宝石のようにキラキラと光り、すこし癖のある美しいブロンドヘアは耳のあたりまで伸びている。
耳には小さな小さな赤い石のピアスが着けられていた。
「初めまして、ナディア嬢。改めて、私はリュカ・ベルナール公爵と申します」
先ほどまでの威圧的な態度が嘘のように消え去り、ナディアは公爵の目的がますます見当がつかず困惑する。
それでも挨拶を交わしつつ、疑問をぶつけてみた。
「あの、どうして私だとわかったのでしょうか・・・」
公爵は、大仰に両手を広げ「覚えてくれてないのですか、冷たいお人だな」と言うが、ナディアにはまったく覚えがない。
「実は、さっきの酒場に私もいたのですよ」
「えっ」
「あなたが酔っ払いの喧嘩を止めに入って倒れた時に声をかけたのが私です」
「あ、あの時の・・・・」
でも、どうしてーーーと疑問が顔に浮かんでいたのだろう。公爵は続ける。
「あなたが女性だということはすぐにわかりました。どうして男装などしているのだろうと興味がわいていた所、あなたのここを見てピンと来たんです」
ここ、と人差し指で左目を指さしながら公爵は言った。
(やはり見られてしまっていたのね)
ナディアは心が沈んでいくのを感じるのと同時に、この痣の事がベルナール公爵の耳にまで届いていることに驚いた。
社交界にはほとんど出席していないし、リシャール伯爵家は今や落ちぶれ貴族とまで言われている。
なのに、国王の右腕と言われている公爵のような位の高いお方にまで知られているとはつゆ知らず。
ナディアは、自分の「異質さ」を改めて思い知らされた気がした。
「年端もいかない少女が男装をして酒場でアルバイト。どこかの孤児かとも思ったが、それにしては身のこなしが優雅でした。とても庶民の所作ではなかった。そこに、右目の痣です。私はどうしても確かめたくて、ここで待っていました」
納得いただけたでしょうか、と公爵はナディアの瞳をのぞきこんできた。
「それで・・・・、公爵さまは、それを知ってどうするおつもりなのでしょうか」
「さて、どうしましょうか・・・」
公爵は、意地悪い笑みを端正な顔に刻む。
一体、この公爵が何を望んでいるのか、ナディアはすでに考えるのをあきらめていた。全くもってわからない。
社交界一の色男と言われているようなお方が、しがない貧乏伯爵家の「呪われた子」の秘密を握ってどうしようというのか。
今のナディアには、薄い唇が開くのを、ただ見つめて待つことしかできない。
「伯爵令嬢が男装して酒場でバイトとは・・・・。世間に知れたら、爵位降格か・・・・いや、爵位はく奪は免れないでしょう」
爵位はく奪・・・、それはナディアが一番恐れていたことだ。
例え貧しくとも、この領地を治めることが生きがいの父と母からそれを奪うことだけはなんとしても避けなくてはならない。
鷲づかみにされたかのようにどくどくとうるさい心臓を抑え、ナディアはその場に跪いた。
「ど、どうか、このことは内密にお願いいたします!」
「私になんのメリットが?」
「公爵さまのお望みをなんでも聞きますゆえ!」
「なんでも?」
「はい、なんでも、わたくしめに出来ることでしたらどんなことでも致します。なのでどうかこのことは内密にお願いいたします!」
ベルナール公爵は、少し試案したのち端正な顔に微笑を浮かべ、ひれ伏すナディアを見下ろして言った。
「では、私の恋人になってもらいましょうかーーーー」
***
重たい瞼をゆっくりと持ち上げれば、いつもと変わらないシミだらけの天井が目に映る。
眠り足りない。
体が異様に重たい。
けれども、時は残酷にも待ってくれない。
一日はもう始まっている。
ナディアは、軋む体を無理やり起こして身支度を始めた。
仮面は、鏡台に置いたまま部屋を後にする。
いつも家では朝、仮面は必要無かった。
この家には家族以外誰も居ないから、隠す必要がないのだ。
かまどに薪をくべて火を入れ、顔を洗いに水汲みへ。
冷たい水で顔を洗えば、いくらか目が覚めた。
それと同時に夜中の事が鮮明に蘇る。
「こいびと・・・、わたしが?ベルナール公爵さまの・・・」
何を考えているのか、あの人は。
いや、何も考えてなどいないのだ。
ただの暇つぶし、気まぐれなんだ、きっと。
お金持ち貴族の考えることなど、貧乏貴族の自分にわかるはずがない。
ナディアは、もう一度昨夜の出来事を頭の中で反芻してみた。
***
「・・・今、なんとおっしゃいましたか」
「恋人になってくださいと言いました」
本を貸してください、とでも言うようなノリで言われてナディアの頭の中の処理が追いつかない。
とりあえず、この場から早く立ち去りたいと強く思った。
とにかく、一日の疲れが今どっと押し寄せてきた。
今日という日を早く終わらせてしまおうと思い、言葉を選ぶ。
「わかりました。それが公爵さまのお望みなのでしたら、私は謹んでお受けいたします。その代わり、」
「秘密は守りましょう、必ず」
リュカの言葉に、ナディアはすーっと胸のおもりが外れるようだった。
「さぁ、立ってください」とリュカはナディアの腕をつかみ立たせてくれた。
そしてリュカは、もう片方の手でナディアの頬に触れる。
ふわりとシトラスの香りがナディアを包み込んだ。
「ーーーえ」
それは、一瞬の事だった。リュカの顔が近づき、オパールグリーンの瞳に吸い込まれてしまいそう、と思った瞬間、互いの唇が優しく触れ、次の瞬間にはゆっくりと離れていった。
「既成事実です」
意味の分からない言葉を放ち、片目を閉じてウィンクしてみせるリュカ、もとい社交界一の色男に、ナディアはただ呆然と見つめ返すことしかできない。
「それと、酒場での下働きは金輪際禁止です。いいですね。あの酒場には、明日からあなたは来ないことをすでに伝えて、次の下働きが見つかるまでのつなぎとして私の家の使用人を貸す約束をしました」
「そ、それは、困ります!」
「いけません。同じ額、いえ、倍の額を毎月差し上げます。それなら問題ないでしょう」
「そんな大金、頂く道理がございません」
なんの関りもないリュカに恵んでもらうなど、到底受け入れられない。
リュカにとってその程度の金など痛くもかゆくもないだろうが、ナディアにとってはまぎれもない大金だった。
「では、こうしましょう。これは、契約です」
リュカは、ナディアにいくつか約束事を言い渡した。
一つ目は、恋人役の報酬として、酒場で働いて稼いでいた額を受け取ること。
二つ目は、その代わり、リュカの呼び出しにはできるだけ応じること。
三つ目は、社交の場にも同席してもらうこと。
但しその場合は、特別手当として酒場の5日分の額を受け取ること。
そして最後に、と念を押すようにリュカは言った。
「私のことを、絶対に好きにならないこと」
***
桶に張った水面に自分の顔が映る。
左目の痣は、子どものころから薄くなることも濃くなることも、広がることもなく、ただいつもそこにあった。
どうして、こんな痣をもって生まれてきてしまったのだろうと、神様を恨んだ事もある。理不尽に母を責めたこともあった。
でも、それはもう昔のことだった。
だとしても、この痣は決して美しいものでもない。
どちらかといえば醜い。
こんな痣を持つ女など、誰も見向きもしない・・・はずなのだ。
ましてや女性に事欠くことのないベルナール公爵なら尚のこと。
恋人役など、いくらでも買って出る女性がいるはずなのにどうして自分だったのだろう、と不思議でならなかった。
ふと、唇に目がいって、昨日のアレを思い出して顔からぼっと火が出た。
ほんの一瞬だったのに、そのやわらかさは今もはっきりと唇に残っていて、ナディアの頬を赤らめた。
「あれは、た、ただの挨拶よ、挨拶」
さぁ、仕事仕事、といつもと変わらぬ一日にナディアはとりかかった。
あの日以来、リュカからなんの音沙汰もないまま数日が過ぎた。
やっぱり、あれはリュカのきまぐれで、自分のことなどもうどうでも良くなったのだ、とナディアは思っていた。
それは、寂しいとか、そういう感情では無く、安堵に近いものだった。
ただ、下働きで得ていたお給金を他でどう担保しようかと頭を悩ませていた矢先の事。
「お迎えに上がりました。ナディアさま」
ベルナール公爵家の馬車がナディアの屋敷の前に突如現れたのだった。
ナディアは、孤児院にパンを届けて家に帰ってきた所で、使いの者に対応していたのはナディアの父と母。
使用人が居ない以上、客人の相手をするのは父か母かナディアしか居ないのだから仕方のない事だったが、両親には知られたくないと思っていたナディア。
その願いも今儚く消え去った。
「ナディ!一体どういうことなの?ベルナール公爵さまが馬車をよこすなんて」
「お前、いつベルナール公爵さまとお知り合いになったんだ?!何か粗相をしたんじゃないだろうな?」
ナディアの姿を認めるや否や詰め寄る両親を交わし、逃げるようにナディアはそのまま馬車に乗りこんだ。
「お母さま、お父さま、これには深いわけが・・・それは帰ってきてから話しますね!お待たせしてはいけませんので、行って参ります」
窓から顔をだしてそれだけ言うと、馬車は軽快に走り出した。
馬車なんて乗ったのは、いつぶりだろうか、とナディアは記憶を辿る。
子どものころはまだもう少しお金に余裕があったような気もする。
事実子どものころは家に使用人が居たし、馬車も使っていたが、今は父が使う馬の一頭だけが厩舎にいるだけだ。
カッタンコットンと規則正しい馬の駆ける音とガタガタと揺れる馬車の座り心地が懐かしい。
これから向かう先を思うとどんよりと沈んでいくナディアの気分を少しだけ上向きにしてくれた。
「いけないいけない。これもお給金を頂くためのお仕事。しっかりお勤めしなくちゃ!」
着いた先は、都の繁華街にある服の仕立て屋だった。
てっきりリュカの屋敷に行くと思っていたナディアは拍子抜けをくらった気分で、馬車から降り立つ。
店の中から店主らしき人物がナディアに笑顔で駆けつけてきた。
「ナディアさま、お待ちしておりました。ささ、中へどうぞ。公爵さまがお待ちでございます」
導かれるまま店内に入ると、奥の方にリュカの姿があった。
椅子に腰かけ、退屈そうに頬杖を突くその姿はおとぎ話に出てくる王子様そのもの。
伏目がちのオパールグリーンの瞳には、長いまつげの影が落ちて愁いを帯びているかのようにさえ見て取れる。
足音に気づいたリュカは、ナディアを見ると「やっと来ましたか」と言いながら片手をあげた。
その顔は、怒っている風でもなく、むしろナディアにはなんとなく機嫌が良さそうにさえ見えた。
「お待たせしてしまい申し訳ございません!」
「私も用を済ませていたところですのでお気になさらず。では、早速始めてもらいましょう」
「かしこまりました、公爵さま」
リュカは店主にそう告げると、また頬杖をついた。こちらを眺めるだけで椅子から動こうともしない。
ナディアが不思議に思っていると、店の奥から女性の店員が出てきて、ナディアの体をメジャーで採寸し始めた。
「あ、あの、これは、一体・・・」
「あなたのドレスを仕立てるんです」
「こ、公爵さま、困ります!そんなお金持っていません!」
こんな都のど真ん中にある高級洋服店のオーダーメイドドレスなど、貧乏貴族のナディアに手の届く代物ではない。みるみる青ざめるナディアに、リュカは笑みを浮かべて言う。
「心配ご無用。これは私からのプレゼントです」
「そんな、高価なもの尚更頂けません!」
慌てふためくナディアをよそに、「何色が好きですか?」「好きな宝石はありますか?」「アクセサリーはやはりゴールドでしょうか・・・、でもシルバーも似合いそうですね」などと独り言のようにつぶやくリュカ。
店の者はしめたと言わんばかりに次から次へと、見るからに高価な生地やアクセサリー、靴などをリュカの前に並べていき、リュカはそれを一つ一つ品定めしながら選んでいった。
採寸が終わると、今度はリュカが選んだ宝飾品や靴の試着に追われる。
「この色はいまいちですね」
「ルビーよりもサファイアにしましょう。パールのピアスとネックレスも着けて」
とリュカの注文通り、着せ替え人形のように、着けたり外したり、履いたり脱いだりを繰り返した。
全てが終わったのは、お昼過ぎ。
ナディアは、リュカが選んでくれたドレスに着替え、宝飾品を身に着け、来た時とは何もかもが違う姿に変えられていた。仮面さえも、だ。
「よく似合っていますよナディ」
リュカは、頭のてっぺんからつま先までを一通り眺めて満足そうに言った。
そのまま、リュカにエスコートされて馬車に乗り込むとふわりとリュカのオードトワレが香った。
レモンをベースとしたシトラス系、トップノートはジャスミンだろうか、その香りはほんの少しの甘みを含んでさわやかに鼻先をかすめていく。
隣り合わせに座ると、狭い馬車ではリュカと体が触れ合うくらい近くになり急に緊張してしまう。
若い男性と関わりの無いナディアは、どう接すればいいのかわからない。
ふわふわなドレスをきゅっと握りしめた。
こんな贅沢なドレスを着る日が来るなんて信じられなかった。
それにリュカから贈られたものは、今身に着けているものだけではない。
あと数着、今日リュカが選んだ生地のドレスや靴と宝飾品一式が一週間後には出来上がり、ナディアの家に届くらしい。
その総額を想像しただけで、ナディアは震えあがった。正確には、いくらになるのか、ナディアには見当もつかない。
「公爵さま・・・せっかくのご厚意を申し訳ありませんが、こんな高価なものは頂けません・・・」
贈り物を拒むナディアにリュカは「嬉しくないのですか?」と最初は不思議がっていたが、幾度と無く心底困った顔で受け取れないと言う彼女を見かねた彼は少し考えた後こう言った。