*
――まただ、とリュカは思った。
ナディアの、今にも泣きそうな苦しそうな笑顔を見て、リュカはまるで宙を浮いているかのような感覚に陥る。グワングワンと脳が揺れ、足元が定まらず手足から血の気が引いて寒気すら感じる。
ローズとの一件が落ち着いてからしばらくはナディアの表情も穏やかだったのに、この頃はその笑顔の奥に苦しさが見て取れるようになった。
最初は、ローズの時のようになにかあったのかと思った。しかし、そうではなかった。
少し前、所用で近くまで来ていたリュカが、ふらりと孤児院に立ち寄ろうとした時のこと。
馬車から覗いたリュカの目に、庭でとても楽しそうにノアと話しているナディアが飛び込んだ。その表情は、仮面を着けていてもわかるほどとても晴れやかで明るく、リュカに向けられるそれとは明らかに違ったのだ。
つまり、ナディアがこんな表情をする原因は自分にあるのだと、リュカは確信する。
しかし、それがなぜなのか、リュカには見当がつかなかった。
確実にナディアは、自分に心を開いてくれているし、今日もこうして仮面を外し駆け足で書斎まできてくれた。決して嫌われてはいないと思うのに、悲し気な顔をさせてしまう。ナディアを苦しめているのが自分だと思うと胸が痛かった。
切なげな顔をするナディアの肩からケープをそっと外し、箱へと仕舞う。
「ナディアには……、私よりもノアの方がふさわしいのかもしれませんね……」
ノアと笑うナディアの笑顔が、ずっと頭から離れなかったリュカ。口にしてはいけないと、自分でもわかっていたはずなのに、気づいたらぽろりと、口からこぼれ出た。
「え……?」
ナディアのアイスブルーの瞳が驚きに開かれる。
「ノアは、ジラール公爵令嬢との婚約を白紙に戻したそうですよ」
貴族の間でこの手の話はいくらでも回ってくる。ノアとローズの婚約話は、大物同士ということだけあり、既に社交界では周知の事実だった。そして、それを耳にしたリュカは、ついにノアは、本気でナディアに向き合う気なのか、と鬱々とした気分になった。
「そ……それは、ノアさまから伺いましたけど……」
「きっとあなたを大切にしてくれるでしょう」
本当なら……、出来ることなら、自らの手で幸せにしたいとずっと願っていた。でも、それは自分のエゴでしかないのかもしれない、と考えるようになった。ナディアには、幸せになって欲しい。
例え、それが……、ナディアを幸せにするのが自分ではなかったとしても。
ナディアを幸せにするどころか、苦しめている自分に、これ以上なにができるというのか。ならば、この手を離す以外、自分に残された選択肢はないのではないか。
「あ、あの、リュカさま……ど、どうしてそのようなことをおっしゃるのですか……? ノアさまはお友達で……特別な感情は持っていないと前にも……」
震える声でナディアは話す。膝の上の手は固く握りしめられている。
「私に遠慮する必要はありませんよ」
「私は……もう、いらなくなったということですか……?」
「ちが――――っ」
ナディアの宝石のような瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れた。その様を見てリュカは狼狽える。ナディアの涙は、いつだってリュカの胸をしめつけるのだ。何千本もの針で突き刺されたような痛みに端正な顔が歪んだ。
「私は……あなたを泣かせたいわけじゃないんです」
――笑顔にしたいだけなのに。
傷つけて泣かせてしまう自分が不甲斐ない。
「あなたには、笑ってて欲しい……」
あの、なんの憂いもない笑顔は、自分には向けられることがないのかと思うと、とてもじゃないが耐えられそうになかった。
「――でも、私の前ではいつも悲しそうに笑うから……」
*
とうとう恐れていた時がきてしまった。
顔をゆがめ、苦しそうなリュカを前に、ナディアは涙を止められない。
泣くのは卑怯だと、相手の情に訴えかけるものだとわかっているのに、どうやっても止められない。それどころか、突きつけられた現実につぎからつぎへと溢れ出てくるそれを、ナディアは拭うこともできずにリュカを呆然と見上げていた。
――いつも悲しそうに笑うから
言われて初めて、自分がちゃんと笑えていなかったことに気づく。
自分では上手く笑っていたつもりだったのに、リュカに気づかれていたことが、情けなく申し訳なかった。
「そ、それはっ、決してリュカさまのせいではなく……、私の問題なのです……」
これ以上言葉をつむぐことが躊躇われたナディアは、俯いてしまう。そんなナディアを見て、リュカは「少し頭を冷やしてきます」と立ち上がった。その拍子に聞こえたため息に、喉の奥が締め上げられたように苦しく息ができなくなる。
遠ざかる足音を聞きながらナディアは、バザーの帰り道でノアに言われた言葉を思い出していた。
『変わろうとしているナディアを見て、僕もそうありたいと思ったんだ』
まるで眩しいものでも見るかのようなノアの眼差しに、恥じない自分でいなくてはと思った。
(これじゃぁ、なにも変われていないわ……)
こんな自分を好きだと言ってくれたノア。ナディアは彼に告げた自分の思いをもう一度心の中で反芻した。
(胸を張って、リュカさまの隣にいたいって……、そう思ってたあの気持ちは嘘だったの? しっかりしなさいよ、ナディア!)
震える手足に力を込めてナディアは立ち上がり、ドアに手を掛けたリュカに駆け寄りその無駄のない痩身に後ろから抱き着いた。
「待ってください!」
「ナ、ナディ……」
爆発してしまいそうなくらい、心臓が激しく鐘を鳴らす。耳鳴りにも近いそれを感じながら、ナディアは必死に言葉を放った。
「申し訳ありません……、すべて、……すべて私が悪いのです! いつかリュカさまに……、不要だと……いらないと捨てられる日が怖くて……っ」
こんな風に縋るのは、違うとわかっていたが、どうにかリュカを引き留めたい一心でナディアは腕に力をこめる。
「リュカさまを……お慕いしています……、どうか……、どうか、おそばにいさせて欲しいのです。契約のままで構いませんから……」
お願いします、という懇願は情けなくも掠れてうまく声にできなかった。
嗚咽でそれ以上なにも言えないナディアは、リュカの反応を待つ。張り裂けそうな胸の痛みに目をぎゅっと閉じた。
思いを言葉にして伝えることが、こんなにも勇気がいることだとは知らなかった。
どく、どく、どく、と自分の拍動に鼓膜が押される。
すると、しばしの沈黙の後、ナディアの両手はリュカによって剥がされていく。
(あぁ……、やっぱり、私はもう……)
拒絶されてしまった、とナディアは腕の力を抜いた。離れていくリュカに、涙がまた溢れてくる。
こうなることはわかっていたのに、いざその時になればなんの心構えもできていなかったと思い知る。
「……私がどうしてあなたを捨てるなどと……?」
手を持ち替えて、リュカはナディアに向き直る。その顔は、依然苦し気にしかめられていた。
「そ、それは……、もともと、私はただの女除けにしか過ぎませんし……、それに、好きになってはいけない、と……契約する際に約束を……」
『私のことを、絶対に好きにならないこと』
リュカとの出会いは、今も鮮明に思い出せた。唐突に目の前に現れた美しき貴公子のすべては、平凡な生活を送っていたナディアの記憶に強く刻み込まれている。
あの時は、尊すぎるリュカを好きになるなど、自分には考えもつかず、約束なんてなくても問題ないとすら思っていた。なのにどうだ、自分はリュカの優しさに触れ、いつの間にか心を奪われているではないか。
ナディアの言葉に少しの間考えたリュカは、思い出したのか「あぁ……」という顔をして額を片手で覆った。
「約束を守れなくて、も、申し訳、ありません……」
涙ながらに言って、ナディアは俯く。きっと涙で化粧もおちていて醜い顔を見せたくなかったし、リュカの顔を見ることも躊躇われた。
「契約というのは……、ナディアを引き留めるための口実に過ぎなかったんですよ……。怖かったのは、私の方ですナディア。私はいつも、あなたを失うことを恐れていました」
つながれたままの手に、ぎゅっと力が込められる。リュカが、天下のベルナール公爵が恐れることなどこの世にあるのだろうか。しかもそれが、自分を失うことだなんてナディアは信じられなかった。
「――やっぱり、無理です。私にはあなたを手放すことなどできません」
手を引かれ、強まるシトラスの香り。ふたつのシトラスが重なり、ひとつの香りとなった。今ではそれがナディアの一番好きな香りだった。
「好きですナディア。あなたがたまらなく愛しい」
一番聞きたかったその言葉に、ナディアのアイスブルーの瞳が見開かれた。その拍子に目尻からあふれた涙が頬を伝う。
「リュカさま……」
リュカも自分を好きでいてくれたことが、夢のようだと思った。
「で、では……まだおそばにいさせて貰えますか……?」
「えぇ、もちろんです。誰にも渡したくない、……私だけのナディアでいて欲しい」
「っ……、リュカさま……、私も、リュカさまが、好きです……っ、心からお慕い申し上げておりま――」
言い終わる前に、ナディアの言葉ごと熱い口づけに飲み込まれた。
食べられてしまいそうなくらいの口づけにナディアは喜びを感じ、一心に受け止める。初めて通じ合った心は、二人の枷をいとも簡単に取り払い、互いをむさぼるように求め合った。
先に根をあげたのはもちろんナディア。くずおれる彼女の体をいともたやすく抱きあげたリュカは、先ほどのソファにナディアをそっと下ろすと、自身も片膝を床についた。
頬を上気させたナディアの手を取り、指の背に口を寄せる。そっと触れれば、ナディアの顔はますます赤く染め上がった。
「不安にさせて、すみませんでした……。思いを告げて拒まれるのが怖かったんです」
情けないですね、と自嘲するリュカにナディアは目一杯顔を横に振る。
「――ナディ」
愛しい人の口から放たれる自分の名前は、どうしてこんなに甘い響きだろうか。
ナディアは、目の前のオパールグリーンの瞳を見つめ返す。真剣なまなざしで、リュカは言う。
「私は、この身が朽ち果てるその時まで、あなたを愛し、慈しみ、守ると誓います」
まるでプロポーズのような誓いの言葉をナディアは一言一句違えず心に刻む。
「私のそばにいてください、ナディ」
ナディアは、リュカの首ったけに抱き着いた。
「はい、ずっと、ずっとおそばにいます――」
そう言って、愛する人の香りに包まれながら、ナディアはこの上ない幸せに目を閉じた。
ー 終 ー
「リュカさま……どうして好きになるななどと約束をさせたのですか……?」
ランチの後、中庭に面するガラス張りの部屋で二人肩を並べてくつろいでいる時、ナディアはなんとなく気になったことを聞いてみた。
見上げれば、意地悪い笑みを浮かべたリュカと目が合う。
「人という生き物は、制約を受けると反発したくなる生き物なんです」
「……ということは、わざとですか?私に好きになって欲しくて……?」
あの時から、リュカは少なからず自分に好意を持っていてくれたということが、ナディアはたまらなく嬉しかった。ナディアの嬉々とした顔に珍しくたじろぐリュカを、ナディアは見逃さなかった。
「えっ、……あの時からですか?初めてお会いしたあの時から、リュカさまは私のことをお気に召してくださったのですか?」
「……そうでなければ、あんな真夜中にわざわざ待ち伏せなどしません」
確かに、言われてみれば……、とナディアは思い出す。夜更けにナディアを先回りして待ち伏せしていたのだ。
「不覚にも、あの日、あなたに一目で恋に落ちました」
二度目の愛の告白に、今度はナディアがたじろぐ番となる。リュカの真剣なまなざしは、ナディアの心臓を鷲づかみにする。どくどくと体中の血液がものすごい速さで流れていくのを感じた。
「本当は、最初から契約などするつもりは毛頭なかったのですが、あなたが首を縦に振ってくれませんでしたからね」
「あ、当たり前です!あんな風に脅されては、誰だって警戒するに決まっています」
「そうまでしても、あなたが欲しかったんです」
リュカは、ナディアの髪を耳にかけながら耳元に口をよせて、いつもの甘い声で「許してください」と懇願した。
ーーー許すも何もない。感謝しかなかった。誰かを好きになることも縁遠いものだと諦めていた自分に、こんな気持ちを与えてくれたのだから。
返事の代わりに、ナディアは自分の唇とリュカのそれとを重ねた。触れるだけの、ナディアの精一杯のキス。目を開ければ、驚くリュカと目が合い、自分のしたことの恥ずかしさに襲われる。
「もう一度、してください」
「む、無理です」
「なら、私がします」
「……んんっ……!」
結局、いつものように主導権はリュカが握るのだった。