拍手と共に降ってきた声に三人が振り向くと、そこにはロスシー伯爵夫人であるマリアがいた。リュカの父方の従姉弟だという彼女は、艶やかなブラウンの髪をきっちりとまとめ上げ、ボディラインを強調するマーメイドスタイルのドレスを纏っていた。年の頃は30代といったところだろう。母親似のリュカと顔立ちこそ似ていないものの、その均整のとれた顔は美しく大人の女性の色香を漂わせていた。
彼女は、満足げな笑みを顔にたたえながら三人の目の前までやってくると、いきなりリュカに抱きついた。
「リュカ! 会いたかったわ!」
「ご無沙汰しております。マリア姉上」
リュカも嫌がることなく、彼女の背中を抱く。決して貴婦人がとることのないその突然の行動にナディアは驚いた。
「ロスシー伯爵夫人。今日はお招きいただきありがとうございます」
「ライアンも、よく来てくれたわね! 相変わらずいい男なんだから」
次々に挨拶をする二人につづき、ナディアも膝を折る。
「お初にお目にかかります。リシャール伯爵家の長女ナディアと申します」
リュカから離れたマリアの視線はナディアへと注がれる。
「あなたが……リュカの……?」
「そうです姉上。私の恋人のナディアです」
ナディアの腰にリュカの腕が回されて引き寄せられる。ナディアは、リュカの親戚に自分がどのように思われるのか、想像ができなくて怖かった。
「ナディアさん、あなた、まぁ、なんて」
――醜いのかしら。
子どもの頃、大人たちから浴びせられた言葉が頭に響いて、ナディアはびくりと肩を揺らす。強張る体を優しく包み込むようにリュカの手が肩に添えられた。リュカはいつもこうして寄り添ってくれる。言葉は少なくても、ナディアは彼の心の温かさを身に染みて感じている。
「――なんて、美しいの!」
マリアの色素の薄いブラウンの瞳がナディアを覗き込み、強張るナディアを安心させるかのようににっこりと微笑んだのだった。
「あの高慢ちきなジラール公爵のお嬢さまに『見目麗しい』って言わせるだけあるわ! 真っ赤になったお嬢さまの顔ったらおかしくって。またいじめられたら私に言いなさい、あの娘が二度とドレスを買えないようにしてあげるから」
「そんなことをしたら懐に響くんじゃありませんか、夫人」
そう茶化したのはライアン。
「あら、ロスシー商団も見くびられたものね」
ロスシー伯爵は、この国でも有数の商団を営んでおり、夫人はそれを利用してドレスや宝飾品などを扱う商店を経営している。富裕層をターゲットとしたオーダーメイドのドレスを主流に流行りの最先端を行く人気のブランドとなっていた。
「お得意さまなのは認めるけど、あんな小娘一人居なくなったところで痛くもかゆくもないわ。――あら、ナディアさんのそのドレスもうちで作ったものね。あなたがあつらえたの? リュカ」
そうなのか、とリュカを見れば「えぇ、そうですよ」と頷く。
「姉上の店以外で買うなど、怖くてできませんよ」
と苦笑するリュカに、マリアは満足げに笑った。
「気に入ったわ。決めた! ナディアさんのドレスはこれからは私が見繕うわ!」
「……いくら姉上でも、それは承服しかねます。私が責任持って用意しますのでご心配には及びません」
ぶすっとしてリュカが言えば、マリアはふふん、と鼻を鳴らす。
「あぁら、流行の最先端を知り尽くす私のセンスにあなたが及ぶとでも?」
「で、ですが、そもそも女性に贈り物をするのが紳士のたしなみだと口酸っぱく私におっしゃっていたのは姉上ですよ」
「えぇ、そうよ。けどプレゼントはなにもドレスだけとは限らないわ。安心しなさい、あなたの意見もすこーしは聞いてあげるから」
「……」
「――あははは! さすがのお前も夫人には敵わない、諦めるんだな!」
二人のやり取りを見守っていたライアンが溜まらず笑い声をあげた。リュカは二人から顔を背けて息を吐いた。
そのやり取りに、ナディアの顔も自然と綻ぶ。気づけば、先ほどまでの負の感情は消え去り、心は落ち着いていた。楽しく穏やかな時間はあっという間に過ぎ、ナディアはリュカとライアンと共にお暇の挨拶を夫妻にして会場を後にする。
「ナディアさん、待って」
呼ばれて足を止めれば、後ろからマリアが息を切らして走ってきていた。
マリアは、「あなたたちは先に行っててちょうだい」とリュカとライアンを追い払うと、ナディアの両手を取り、自身の手で包み込むように握った。
「ナディアさん」
「は、はい」
ナディアの瞳が戸惑いに揺れる。
「――今日は、リュカと一緒に来てくれてありがとう。リュカのあんな穏やかな顔を見たのは久しぶりで、どうしてもあなたにお礼が言いたくて」
「お礼だなんて、そんな、私はなにも」
ナディアは、顔を横に振って否定する。いつも与えられてばかりで自分はなに一つ返せていないのだと、ナディアはいつも負い目に感じている。そんなナディアの謙遜をマリアは「いいえ」ときっぱりと言い放ち否定する。
「これまでこのパーティに自ら女性をエスコートしてきたことが一度もないあの子が、今日あなたを連れてきて、私に紹介してくれたのよ。しかも事前に手紙で知らせてまでして。私、本当に驚いたわ」
知らなかった事実に、ナディアも驚き目を見開いた。
「あなたを見るあの子の幸せそうな顔ったら……! 見てるこっちが赤面しちゃうくらいだもの!」
リュカの優しさはいつだって自分に向けられていることくらい、ナディアもわかっていた。けれど、それはリュカの性格による優しさであり、周りに向けられるそれとなんら変わらないものだと思っているナディアは、マリアの言葉が信じられない。
「あの子が小さい頃から見ている私がそう思うんですもの、間違いなくあなたはリュカの特別なのよ、自信もってちょうだい」
ね! と念を押され、ナディアは否応なしに首を縦に振り、見送ってくれるマリアに再度お礼を言ってリュカが待つ馬車へと向かった。
「――楽しかったぁ」
バザーからの帰り道、ナディアの隣を歩くノアがしみじみと言った。
家まで送るという申し出を断ったのだが、「話があるんだ」とノアが真剣なまなざしで言うものだからこうして一緒に歩いている。
(話ってなんでしょう……?)
考えたが思い当たる節は、孤児院がらみの相談くらいしかなかった。
「それはよかったです」
「アンも楽しそうだったし」
「そうですね、少し笑顔が見れて安心しました」
新しく孤児院に来た少女、アンを連れていったのは正解だった。お祭りムードの中、アンも目を輝かせていたのを思い出して胸がほっこりとした。
「お皿も買えてよかったね」
「はい、ちょうどいいサイズのものがあって助かりました」
「ナディアのそれは、家族へのプレゼント?」
それ、とは手提げ袋に入っている家族へのお土産のこと。レオンとシャルロットには手袋、母にはショールと父には襟巻を買った。どれも、マグリットさんの手作りで、冬の始めに毎年開催されるこのバザーでは、早く買いにいかないと売り切れてしまうほどの人気だ。
彼女と懇意にしているナディアは、あらかじめ注文して取り置きをお願いしていたから、目当ての物を買い終わった後に行って受け取ってきたのだった。
「えぇ、冬支度です。毎年マグリットさんにお願いしてるんです」
「急に冷えてきたしね」
11月に入り、日に日に寒さが厳しさを増すにつれ水は冷たくなり、炊事洗濯がツラい季節がやってきた。かじかむ指を握りしめたのはついこの間のこと。
「……ノアさま?」
坂の上にナディアの家が見えてきたところで、ノアが歩を止めた。ナディアは、一緒に立ち止まり隣を見る。ノアの深刻そうな表情になにごとかと首をかしげた。
「仮面は、外さないの?」
ナディアの目にはいつもと同じように仮面があった。
パーティで外したからと言って、そう簡単に痣をさらけ出せるわけではなかったが、今度のリュカの休みの日には、オルガに痣を消す化粧のやり方を教えてもらうことになっている。
自分に自信を持って、リュカや周りの人たちの隣を胸を張って歩けるようになりたい、と願う心は消えていない。
「あ……、はい……、まだ決心がつかなくて……」
「……まだ、ってことは、いずれ外したいってことだ」
自嘲気味にノアが笑う。そんな笑顔を、これまで見たことがなかったナディアは不安に思う。ノアは、いつだって陽だまりのような明るくも優しい笑顔でいたから。
「そう、ですね……。変わりたい、と思っています」
素直に肯定するナディアを、ノアは見つめる。薄紫の瞳は、儚げに揺れていた。
「初めて会ったパーティで、どうして僕が君に声をかけたか知ってる?」
「え……?」
言われてナディアは思い出す。リュカと訪れたローズの誕生日パーティでのことを。決していい思い出とは言い難いが、ノアと過ごしたひと時は少なからずナディアの心をくすぐった。
「楽しそうに笑って話す同年代の女性たちを羨ましそうに見つめる君が、自分の姿と重なったんだ」
気さくに話しかけ、綺麗だ、美しいと歯の浮くようなセリフを投げかけてきた青年は、自分とは住む世界が違う日向に住む人だと思った。
「――どこか、人生を諦めたような、寂しそうな君の姿にね」
なのに、彼はナディアが自分と重なったと言う。ナディアは訳が分からない。
「全部、親の言いなりで……、やりたいことはすべて諦めてきたんだ。……跡継ぎは僕しかいないから、仕方がないと諦めてた。――――結婚相手もね」
彼の婚約者は、ローズだ。まだ正式には結ばれていないようだが、この前のロスシー伯爵のパーティにも同伴していたのだから、関係は続いているのだろう。
「でも、この前のパーティで仮面をとった君の目に、あの日僕が見た諦めなんてこれっぽっちもなくて驚いた……」
(諦めが、ない……?)
そんなことはない、とナディアは思った。今だって、リュカへのこの報われない思いを諦めなくては、と必死に自分に言い聞かせているというのに。
「そんなナディアを見て、僕も変わりたいって思ったんだ。自分の人生を諦めて生きるのはもう懲り懲りだって。だから、両親に自分の思ってることを伝えて、ローズとの婚約話も白紙に戻してもらった。人生を一緒に歩む相手は自分で決めたいって言ったら、思いのほかすんなり了承してくれたよ」
言ってみるもんだね、とノアは笑った。その顔は、先ほどの自嘲気味な笑顔ではなく、いつもの太陽のような笑顔で、安心したナディアはつられて微笑む。しかし、ローズのことを思うと心境は複雑で、よかったとは言えない。
「ノアさまも、変わろうと努力されてるんですね」
「僕を変えたのは、ナディアだよ」
「私は……」
「――君が好きだ」
「そ、それは、お友だちとして……ですよね……?」
「もちろん友だちとしても好きだけど……本当は、君の特別になりたかった」
特別、という言葉がなにを意味するのか、ナディアは理解する。まさかノアが自分をそんな風に思ってくれていたなんて考えもしなかったナディアは、言葉が出なかった。
「でも、僕じゃ君を変えられなかった……。ベルナール公爵さまには敵わないや」
(私は……変われているのかしら……)
変わりたい、と思っている。それは紛れもない事実だ。しかし、ノアが言うように変われているのかと問われればわからない。でも、ナディアにとってすでに身近な存在になっているノアがそう言うのなら、そうなのかもしれないとも思う。
言葉が出ないナディアに、ノアは「かっこ悪いけど」と前置きをして言った。
「ナディアに気持ちを告げて、きれいさっぱり振られようと思ってさ」
清々しいまでの笑顔が、ナディアにはとても眩しく映った。
*
ナディアはリュカの屋敷にきていた。パーティの日以来実に1カ月ぶりの訪問だった。
とはいえ、二人が会うのはあれ以来ではない。リュカは忙しい中、合間合間を縫ってはナディアを訪れていた。
時には二人でお茶をして、時にはシャルロットとレオンの相手をしてと同じ時を過ごしてくれるリュカが、ナディアは嬉しくもあり、怖くもあった。リュカと過ごす時間が積み重なるほど、リュカへの思いも比例して募っていくようだった。
「このおしろいに香油を混ぜて、このくらいのとろみになるまでよく混ぜてください」
「はい」
今日は予てから約束していた痣を消す化粧の仕方をオルガから教わっている。オルガ曰く、これは一朝一夕にできるものではなく、何度も試しながら感覚で覚えていくしかないらしく、ナディアは一言一句聞き逃すまい、見逃すまい、と神経を集中させて指導を受けていた。
その間リュカは、仕事を済ませるからと書斎にこもっている。
「あまり何度も塗って落としてとやっていると肌に負担になってしまいますから、今日はこのくらいにしておきましょう」
数回試して、今日のレッスンは終わりとなった。
「粉の練り具合で、肌へのなじみが変わりますからね。今の感じを覚えておいてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
鏡台の上に置いてあった仮面に手を伸ばす。すると、オルガがそれを手で制した。
「せっかくお化粧してるんですし、ここには旦那さまと私たちしかおりませんよ」
「あ……、そうですね。つい癖で」
廊下に出ると、執事からリュカが中庭で待っていると告げられて向かった。久しぶりにリュカとゆっくり過ごせると思えば自然と足が速くなり、胸も逸る。
仮面をつけていないことに不慣れさはあるものの、リュカの前ならば不安はなくなっていた。リュカが、ナディアの痣を不快に思うことはないとわかっているから。リュカへの信頼は今ではもう揺るぐことはなかった。
書斎の前で息を整えてノックをしようと試みた手は空を切る。
「りゅ、リュカさま」
ガチャリとドアが開き、そこからリュカが姿を現した。
「――待ちくたびれました」
そう言ってリュカは、掲げたまま固まったナディアの手を握ると、そのまま中へと引き入れた。「こちらへ」と書斎の中央にあるソファに促され、一緒に腰掛けると、リュカは正面からナディアの目を見つめた。
オパールグリーンの透き通るような瞳に見つめられて、ナディアの胸はドキドキと早鐘を鳴らす。仮面がないだけで、まるでいつもよりも輝きが増して見えて緊張が走ってしまう。
「私の前で、仮面をする必要も、化粧をする必要もないのですよ、ナディア」
ゆっくりと、優しく言葉を紡ぐリュカ。
「もちろん、無理に仮面を外す必要もありません。あなたがしたいようにすれば、それでいいのです」
そうだ、リュカは、いつだって自分を尊重してくれる。ナディアは改めて思った。
リュカとの出会いは、強烈で一方的だったけれど、その後はいつもナディアの意志を尊重してくれていたことを、ナディア自身がよくわかっていた。
触れ合いですら、嫌なら拒んでいい、と常々言っていた。
(リュカさまは、いつだって優しいもの)
だから、こんな自分でも受けいれて優しく接してくれるのだと、ナディアは思っている。
「ありがとうございます、リュカさま。でも、私は、リュカさまの前では仮面を取るように心がけたいと思っています」
――忌々しい。
ローズの声は、今も呪いのように頭に響き、ナディアをがんじがらめにしている。けれども、囚われたくないとも強く願っている。せめて、自分のことを信じてくれている人の前では姿を偽ることはやめたいと、思い始めていた。
「そうですか、私としてはあなたの美しい顔が見れるので喜ばしいことですけど、無理は禁物ですよ?」
「は、はい……」
リュカの甘い言葉に頬を染めるナディア。そんなナディアをリュカは愛おしそうに見つめる。その目には言葉通り喜びが見て取れた。
「――そうだ」
思い出したように、リュカはテーブルの上の化粧箱からふわふわしたなにかを取り出すと、ナディアの肩にかけた。真っ白な毛皮で作られたケープだ。
「あ、あの……?」
上質な、肌触りのよい毛先がふわふわとナディアの頬をなでていく。くすぐったくも優しい感触にナディアは目を細めた。
「プレゼントです。寒くなってきましたから。これは北部で捕れるホワイトフォックスの毛皮で保温性に優れているそうです」
(ホワイトフォックスって……確かとても稀少な……)
「思った通りよく似合ってます」
「とても暖かいです、ありがとうございます」
そういうことに疎いナディアでも知っているくらい、高級なものだった。
しかしナディアは、最近になってリュカからのプレゼントに対して拒絶反応を見せなくなった。好意を素直に受け取る方がリュカは喜んでくれると自分に言い聞かせて、できる限りありがたく受け取ろうと心に決めたのだ。
「レオンとシャルロットにもブーツなどを用意しました。差し出がましいとは思ったのですが……、ご両親の分もありますからナディアから渡してもらえると」
「そ、そんなにたくさん……」
「今年の冬は例年より寒さが厳しくなるようなので、備えあれば憂いなしです」
「お心遣い、ありがとうございます」
喜ぶ家族の顔を思い浮かべながらも、ナディアの心はなにかに鷲づかみされたように苦しかった。
(怖い……。リュカさまに捨てられる時がくるのが怖い……)
光が強くなればなるほど闇が色濃く鮮明になるように、リュカの優しさに触れれば触れるほど、ナディアの“その時”に対する恐怖心は膨れ上がっていくばかりだった。
リュカへの想いを自覚した今、自分に出来ることはこうしてリュカの優しさに身をゆだねていることしかできない自分が情けなく歯がゆかった。
リュカが自分を必要としてくれている間だけでも側にいると決めたナディアだったが、その心は”その時”への恐怖心に今にも粉々に砕けそうだった。