『アズ』――三年前、ある動画サイトに突如現れたアーティスト。初登場は誰も気付かないほど、ひっそりと息をひそめていた。

 誰かの曲をカバーして歌う「歌ってみた」動画が初投稿となったが、アズの歌声は中性的な声色だけでなく、高音から低音までの音域が広かった。初めて聴いた人々から「複数の歌い手集団ではないか」と噂されるほど一躍有名人になった。
 能ある鷹は爪を隠すとはまさにこのこと。オリジナル曲よりもカバー曲が多いため、大々的に表に出ることは少なかったが、投稿三周年記念を迎えた一昨年、初めてのオリジナル曲が某賃貸会社のテレビCMに抜擢し、起用されることになった。
 これにはアズ本人も喜んでおり、自分で曲を作る楽しさを知った良い機会だと、定例の生配信で語っている。
 それを皮切りに、アズは自分で作詞作曲した楽曲を次々と発表。今では「曲を書いてほしい!」と某アイドルグループに頼まれて提供するほど、時の人となった。

 ――しかし、今までアズの姿を見たものは誰もいない。

 顔や年齢はおろか性別さえも伏せられ、一人称は「自分」。
 サイトに上がっている動画は全てイラストか元動画のMVで、配信やライブでも一切顔出しをしていない。カメラはいつも首から下を映すだけで、たまにサイトにアップされるレコーディング様子も楽譜とマイクしか映らない。時々揺れるヘッドフォンのコードや楽譜に書き込む細い指が見えたらラッキーだった。
 作曲はいつもキーボードを駆使して制作しているようで、一度だけ生配信で見せたキーボードでの生演奏は、ネット上で話題になった。
 ちなみに私は指先が映る度に発狂し、勢い余って椅子からズレ落ちたことがある。それくらい貴重なのだ。

 もちろん、実際に観客を入れたライブも開催されている。
 しかし、参加したファン曰く、体格を隠すようなダボダボの服を着ていて、近くの席でも顔が見えないように向こう側がぼやけて見える半透明の幕で覆うほどの徹底ぶりだったそうだ。
 時々揺れて見える影で、髪型がマッシュカットっぽいのはわかったけど、それだけでは性別や容姿の判断は難しい。

 つまり、外見や歌声だけでは判別が不可能。唯一はっきりしているのは、アズという正体不明の人間がこの時代に存在しているということだ。
 大袈裟に聞こえるかもしれないけど、私にとっては何よりも重要なこと。
 だってアズがいるから、私は今日も生きていける。
 私にとってアズは、光だった。