「聴覚なんてなくなってしまえばいいって何度も思った。でもそれを捨てる勇気なんてどこにもなくて。だから気を紛らわすためにイヤフォンをして、いろんな音楽を漁っていたんだ。好きな曲だけを覚えておけば、急に嫌な音を思い出した時でもすぐ切り替えられると思ったから。……そこで俺はアズに辿り着いて、間違っていることに気付いた」
「間違っている?」
「アズの表現力の高さは君も知っているだろ? 音だけで人の気持ちは楽しくなって、悲しくなって、涙を誘う。それを音楽で表現するアーティストのなかでも、アズは人一倍身近にいる気がするんだ。聞き手に寄り添った声がなかったら、俺は今でも自分の手で聴覚を失う手立てを模索していたかもしれないし、ドラムの楽しさを知ることもなかったと思う。……だから俺は、この聴覚をひとつの個性として受け入れていこうって決めたんだ」

 なんか気恥ずかしいな、と彼は視線を逸らす。
 彼と会って話すのはこれで二度目なのに、どんなことでも話せてしまうのは、今ここにいる状況がお互いに似通っているからだと察したのだろう。

「……あなたも、アズに救われた人なんだね」

苦痛をしいられてきた中で正体不明のアズと出会い、自分の主観を変えようと前を向いた結果だ。特に彼は自分では制御することが難しいのに、それさえを自分のものにしている。
 それなのに、私は――。

「高田も、アズに救われてここにいるんだろ?」
「……え?」

 何もできていないと痛感してぎゅっと唇を噛むと、彼がそう言ってニカッと口元を緩めた。

「ねぇ、今日の放課後、俺のために空けてくんない?」

 *

 放課後、職員室に今日分のプリントを提出して図書室に向かうと、入口で彼が待っていた。暑いのか、ワイシャツを腕まくりしており、腕の血管がうっすらと見える。

「よかったー来てくれて」
「……え、と……うん」

 曖昧な返事を返すと、彼はニッコリと笑って返した。詳しい話は聞いていないから、何をするのかわからなくて身構えた自分がいる。
 ついてきて、と言われるがまま彼の後を追うと、今は使われていない自習室に着いた。そこには教卓の前にドラムセットがどんと構えており、威圧感を醸し出していた。

「俺の部活の相棒! ……って言っても、学校の備品で先輩からのおさがりなんだけどさ。高田に聴いて欲しくて!」
「聴くって」

 何を?と問いかける前に、彼はいそいそとドラムの前に座った。そしてバチを持ってすう、と息を吸い込むと、慣れた手つきでドラムを叩き始めた。ドラムは両手の他に、楽器と繋がったペダルを使って両足でも演奏をする。それだけで器用なのが伝わってくる。

 でもそれだけじゃなかった。
 しばらく聴き入っていると、演奏しているのがアズの楽曲の一つであることが分かった。メドレーのように流れるがまま、図書室で叩いていたミスパプも同様に演奏されると、頭の中で生配信の時の記憶が蘇る。ここにギターやベース、ピアノが加わったらどれほど良かっただろう。
 最後まで演奏をし終えると、彼は満足そうな顔をして立ち上がった。

「どうだった? ドラムだけのアズ楽曲メドレーは」
「すごかった……すごいよ! ほとんど楽譜がないものなのに、全部記憶だけで叩けるなんて! ミスパプのドラムが入った時、生配信の音源が聴こえた気がした!」
「まだまだだけど、そんなに褒めてくれるなら頑張ったかいがあったなぁ」

 へへっと頬を赤らめる。教室に差し込んだ夕日が彼を照らして、さらに真っ赤に見えた。

「俺はアズみたいに上手くないし、誰かの心を動かすことは一生かかっても無理かもしれない。それでも高田がそう言ってくれるだけで満足だ」
「え……?」
「高田、怖いモンは怖いんだよ。でも飛びこむ勇気だって必要だ。案外、受け入れてくれる人は多いと俺は思う。何より高田にはアズがいる。アズの歌が背中を押してくれる。教室の近くまで行けるんだから、きっと入れる日だって来るさ」

 彼は一体、誰から私の話を聞いたんだろう。
 知っていて私に話しかけたのだとしたら、悪趣味だなって引いてしまうかもしれないけど、なぜか不思議と嫌な感じはしなかった。

「そ、それに! アズの楽曲が増えるたびに高田と共有したいっていうか……ええっと、なんていうか、その……」
「……うん、そうだね」
「え……?」

 ああ、そっか。たった二回話しただけの相手でも、こんなに素直に受け入れられたのは、きっと私も話せる相手が欲しかったからだ。

「私も、若槻くんみたいに変われるかな」
「俺みたいにじゃなくていいよ。だって高田は高田だろ」

 変わらなきゃ、何もできない。