彼もそう感じたのだろう。

 雪為はしばしの沈黙のあとで後ろを振り返り、きっぱりと告げた。

「たった今交わした結納は、悪いが破棄させてくれ」

 座敷に座る数名に衝撃とざわめきが走る。紫道家の主人らしき男が立ちあがり、オロオロとすがるような声を出す。

「そ、それはいったい……我が娘、清子(さやこ)になにかご不満でも?」
「その娘はよくも悪くもないが、さきごろ、正式な妻はひとりのみと法で決まったからな」

 雪為は白い足袋のまま庭におりてきて、私の隣でかがみ込んでいる少女に手を伸ばした。

「あの……?」

 少女は目をパチクリさせて雪為を見つめた。ひるむ様子はない、見所のある娘だ。

 雪為は少女ではなく、主人たちに向かって宣言する。

「我が妻はここにいる娘に決めた。早急に縁談を整えてくれ」
「い、いや。その娘は――」

 父親の言葉をさえぎって、清子が前に歩み出る。美しい笑みを浮かべて、彼女は言う。

「まぁ、雪為さまったらご冗談を! その娘は出自の卑しい下働きですわ。雪為さまの視界に入れることすら恥ずかしい存在です」

 清子は庭の少女にあざけるような笑みを向け、しっしっと手で払うような仕草をした。

「これ、初音(はつね)。さっさと姿を消しなさい。雪為さまのお目汚しだわ。それに……なんだか嫌な匂いがする、鼻が曲がりそうよ」

 この嫌みったらしい物言いはともかく……初音と呼ばれた少女から妙な匂いがするのは事実だった。さきほどから、私もそれを感じてはいた。

 クスクスと底意地の悪い笑い声をあげる清子に、雪為はぞっとするほど残酷な声を発する。

「おい、女。東見の奥方になる人間にそんな口をきくとは、どういう了見だ」
「東見の奥方って……まさか、本気でおっしゃって?」

 動揺と混乱に清子の声は震えている。

「本気だ。理由を説明する必要はないだろう。東見の当主がこの娘を妻にと、望んでいる。それ以上になにが必要だ?」

 後半は清子ではなく、彼女の両親に告げていた。

「あ、あの~」

 私の隣で、初音が間の抜けた声をあげる。

「なんだかお取込み中のようですが……私は厠掃除の途中ですので、これで失礼させていただきます」

 なるほど、匂いの原因はそれか。差し出された手をうっかり舐めたりせずによかったと、私は細い首をすくめる。

「おいっ、待てー―」
「猫ちゃん。また遊びにきてね」