「白蘭(びゃくらん)様、起きてますか!」

霧煙る早朝のことだった。高く険しい岩山──白龍山(はくりゅうざん)の崖の上に立つ茅葺(かやぶき)屋根の家の戸を誰かが騒々しく叩く。

 ちょうど薬草取りに出かけようとしていたので、よかった。
すでに着替えを済ませていた私は、薬草を入れる腰籠をいったん調剤用の長机に置いて戸を開ける。

「どうしたんですか?」

 ただ事ではない様子で立っていたのは、イノシシの毛皮を羽織った屈強な男たち。この家からほんの少しばかり離れた場所にある猪餐(ちょさん)村の狩猟民族──オヌフ民族の者たちだ。彼らはこの雪国では珍しい色黒で、頬に獣の血で猫の髭のような模様を描くのが習わしらしい。

もうかれこれ三年の付き合いになるのだが、私の紅の瞳と緩くうねりのある銀の長髪はこの世界で大層奇怪らしく、「おおっ」と両手を擦り合わせながら崇めてくる。

 合わせ襟の着丈の長い白の深衣(しんい)と、襟と同じ淡藍(うすあい)色の帯。村長からの貰い物とはいえ、彼らが未だに私を病を治せる神通力を持った医仙だと信じているのは、このいかにもな服装のせいでもあるのだろう。

「狩りに出たらよお、こいつが山ん中に倒れてたんだ」

「なんとかしてやってくれねえか?」

 彼らに抱えられた青年は硬く目を閉じて、ぐったりとしている。見たところ〝今の私の身体と同じ〟十八かそこらだろう。細身ながら身体つきはがっしりしていて、なにより思わず息を呑んでしまうほど品のある整った顔立ちをしていた。

「わかりました、こちらに寝かせてください」

 寝台まで歩いていき、青年がすぐに横になれるよう布団をめくる。

 私のところには主に村人たちが治療を求めてやってくるので、家の中にはちょっとした診療所のように寝台がいくつかと調剤台、薬棚などがある。全部、村の男たちが作ってくれたものだ。

 さて、と改めて青年を診る。夜露のような艶のある黒髪は腰のあたりまであり、後ろの上半分を布紐で団子にまとめている。

 黒の深衣と、襟や髪紐と同じ赤色の帯、銀糸で龍が刺繍された毛皮つきの足元まである黒の外套(がいとう)……高級品に特別目が利くわけではないが、どれも上質な生地が使われていることくらいはわかった。腰にも黄金装飾が施された長剣を差している。

 立派な身なり……どこかの名家の子息とか?

 北の果ての海に浮かぶ大陸、その全土を領地とする雪華国は年中雪が積もり、おまけに半分以上が山地だ。その数少ない平原にある都──華京(かきょう)を中心とし、この国は大河によって七つの州に仕切られるのだが、私がいるのは都から最も遠い冬州(とうしゅう)。名家の子息がふらっと訪れるような場所じゃない。

 なんだかわけありそうな子だけど、この人が何者でも人命救助には関係ない。

「ねえ、あなた。私の声が聞こえてる?」

 声をかければ、薄っすらと青年の瞼が開き、虚ろな金の瞳を彷徨わせる。

「……ああ……聞こえて、いる……」

 よかった、呼びかけに反応あり。重い意識障害はなさそう。

「自分の状況を話せそう?」

「……歩いていたら……だんだんと頭が痛くなって……目眩と吐き気が……それで立っていられなくなった……」

 青白い顔で乾燥した唇を一生懸命に動かし、青年は説明してくれた。

「あなた、普段は平らな土地で生活しているんじゃない?」

 なんでわかるのか、と青年は弱々しく目を見張る。

「あなたが今苦しんでいるその症状は高山病(こうざんびょう)によるものよ。山の高いところでは空気が薄くなるから、身体がその環境についていけていないと起こるの」

「こうざん、びょう……初めて聞く、病だ……」

〝この世界〟では、まあそうよね。

 私は苦笑いしながら、せっせと青年の帯を緩めて締めつけを楽にする。

 もし今より意識状態が悪くなり、このまま眠ってしまったら、舌根が落ちて気道が狭くなってしまう可能性がある。私は気道を確保するため、顎が自然と上がるよう首の下に枕を置いて体勢を整えた。

 すると青年はふうっと息をつき、苦しげな表情をいくらか和らげる。それにほっとしつつ、私は薬棚まで歩いていき、引き出しを開けた。

「その高山病ってのは、俺たちはかからねえんですか?」

 村の男がびくびくしながら聞いてきたので、私は乾燥させた薬草の根をいくらか手に取り小さく笑った。

「私たちはこの環境に慣れてるので、大丈夫なんですよ。でも、ここよりさらに山を登る場合は注意が必要ですけど」

 高山病は酸素が欠乏すると起こるため、血液中の酸素濃度を増やす薬草──『紅景天(こうけいてん)』が効く。可愛らしい紅い花を咲かせるのだが、使うのはその根や根茎だ。

 高山に自生すると聞いたことがあったので、もしかしたら白龍山にもあるかもと探してみたら大量に群生していた。それを発見したときは、人目もはばからず小躍りしてしまいそうだった。

 本当なら高山病だけでなく頭痛にも効果がある『五苓散(ごれいさん)』も調剤できるといいのだが、いかんせんここは辺境の山。血管を広げて血流を促してくれる沢瀉(たくしゃ)や猪苓(ちょれい)、めまいにも効く茯苓(ぶくりょう)、腸の働きを整えてくれる蒼朮(そうじゅつ)、鎮痛作用のある桂皮(けいひ)……どれも樹皮や根茎などから成るのだが、すべてを集めるのは難しい。
 
 致し方ないので、私は乾燥させて刻んでおいた紅景天と桂皮を合わせたものを薄布に包み、鍋で煎じる。この人のように軽い高山病なら、これで症状は改善するだろう。

「さあ、これを飲んで」

 私は青年の頭を抱き起し、今しがた出来上がった煎じ薬を飲ませる。その喉仏が上下に動くのを確認しながら、私はふうっと息をついた。

「よし、飲めたわね……あとは水をたくさん飲んで、しばらくは様子見よ」

 高所の冷えた空気は乾燥していて、その中で運動をすると体内の水分が失われやすいのだ。
 
 その身体を再び寝かせると、青年は「……感謝する」とお礼を口にして目を閉じた。私は青年に布団をかけながら、成り行きを見守っていた村の男たちのほうを向く。

「あとは私が診ますから、皆さんは戻ってください。朝の狩りの途中だったんでしょう? 収穫がなかったら、奥さんに怒られちゃいますよ」

 冗談交じりにそう言えば、村の男たちは「がははっ」と豪快に笑った。

「違いねえ!」

「待っててくださいよ、白蘭様! うまい猪(いのしし)肉をお裾分けしますんで!」

 彼らは狩猟民族なだけあって豪快かつ粗暴な者が多いが、はっきりとした性格をしていて親しみやすい。

「医仙の白蘭様には、いつも世話になってるからな」

 医仙、その単語に反応するように、瞼を閉じていた青年の指がピクリと動いた気がした。皆が私を仙人と信じて疑っていないことに驚いたのだろう。

「白蘭様、またあとで!」

 じゃあな、と手を上げて去っていく村の男たち。私は彼らに軽く手を振り返し、見送った。

 私がここで医仙と呼ばれ、医者まがいのことをしている理由は話せば長くなる。なんせ十年やそこらではなく、〝前世〟まで遡って話さなければならないからだ。