サヨナラを綴って

◆◇

「七瀬君、実織のことを思い出せて本当に良かったね」

翌朝、教室で二品さんがさっそく声をかけてくれた。心なしか、昨日より教室の中の空気が清々しく感じられる。世界は簡単に、色を変える。その日の気分次第で。大切な人の存在次第で。

「ありがとう、きみのおかげだよ」

「私はそんな」

教室を見回して、今度こそちゃんと机が32台あることに心底安堵した。部屋に飾ってあった写真も、今朝はきちんと見ることができた。それは、僕と実織の二人が写った写真だった。どうやら僕は、彼女に関わるものをすべて見えないようにしていたらしかった。無意識のうちに、自分が実織の死という現実から逃げていたのだ。そう思うと情けなくて仕方がなかったが、今は前を見るしかない。

「それで、例のもの、持ってきてくれたかな」

彼女は、そうだった、と言って鞄の中から30枚ほどの原稿用紙の束を取り出した。

「はい、これ」

「ありがとう、楽しみだな」

こうやって原稿用紙を受け取ると、僕は実織が生きていた頃のことを思い出す。

新しい話できたよ、敬貴くん。

そんなふうに声を弾ませて、彼女は嬉しそうに言うのだ。書いている最中は、あんなに恥ずかしそうに隠していた原稿をさっと差し出して。きっと、僕の感想が楽しみだったんだろうな。
僕が物思いにふけっていると、二品さんが思い出したように口を開いた。

「そうそう、その小説、実はまだ書きかけみたいで。書きかけって言っても、最後の台詞がすっぽり抜けてるだけなんだけど。実織は何を書くつもりだったんだろう」

「え、書きかけ……?」

僕は手元の原稿の最後の1枚を見た。すると確かに最後の登場人物の台詞で「 」の中が空白になっていた。

「あとで考えてみるよ」



放課後、いつもの公園でブランコに座り、彼女の原稿を開いた。

―――――――
題「最愛の幸い」 方條実織

あるところに、とても優しい少年と、臆病な少女がいました。
少年はいつも澄んだ瞳をしており、何事にも一生懸命で、強くて賢い人です。
少女は、あまり積極的な性格ではなく、少年のようにはなれなかったけれど、本を読むのが大好きでした。
―――――――

最初の何文かで、実織が僕と自分のことを書いていることが分かった。だが、実織の書く僕の人物像は、実際とはかなり違っていた。
僕はこれほど憧れるような人ではない。それなのに、彼女の目には僕はこんなふうに映っていたのだろうか。そんな疑問を抱きつつ、そのまま読み進めていく。

大体の内容はこうだ。

少年と少女は幼い時から何をするにも二人一緒に過ごしていた。しかし、少女の方は家庭の事情を抱えており、一人になると部屋ですすり泣く毎日。
少年は、そんな少女のことを心配し、少女を連れて旅に出るのだ。
二人だけで、怖いことなんて何一つない、楽しい旅に。
険しい山に登ったり、海を渡ったりして少年と少女はこれまで以上に打ち解けてゆく。しかし、そんな楽しい旅にもいつかは終わりがやってくる。
旅の最後に、少女が少年に問う。

“あなたの幸いは何ですか”

そして、そのあとの少年の台詞が空白になっていた。

「少年は、何て言ったんだ……?」

もちろんその問いに答えてくれる本人はおらず、人気のない公園は静まり返っていた。

この台詞がなければ、実織の思いも何もかも分からないのに。どうして最後の部分だけ、書ききってくれなかったんだろうか。この台詞につながる何かを、彼女は生前口にしてはいなかっただろうか。
しかし、考えても考えても答えは出ず、僕はどうすることもできなくなって空を仰いだ。


相変わらず綺麗な空を見ていると、自然と心が落ち着いた。
実織。
きみもずっと空を見ていた。
きみの心は美しく、この小説できみと僕は逆ではないかと思うんだ。
実織は僕なんかより、何倍も強い人だった。けれども本当は、この少女のように弱くて儚い人だったのだろうか。いや、少なくとも自分ではそう思っていたんだろうな……。

実織はいつも放課後になるとこの公園にいた。それは、家に帰りたくないからだと言った。家に帰っても、彼女が安らげる場所はなかったのだ。だから、一人で時間を潰していた。実織の心が綺麗だったのも、辛い現実から逃れるための、たった一つの術だったのだ。わざと周りの世界の綺麗なところを見つけて、自分もそんな安らぎを与えられる人になりたいと、そう思っていたに違いない。

けれど、現実は怖くて淋しくて、誰かに助けてほしくて必死だった。そうして僕に、旅に連れ出してくることを望んでいた。
それがきみの願いだったんだ。

そんなことを考えながら、僕は原稿の最後のページを眺めた。

「あ……」

よく見ると、最後にちゃんと「終わり」の文字が書かれていた。
つまり、この物語は書きかけなんかではなく、きちんと完結しているということ。

「ああ、そうか」

彼女は少年の最後の台詞を書かなかったんじゃない。
書けなかったんだ。
だって彼女は僕の気持ちを知らない。
この台詞は、きっと僕に直接言ってほしかったんだな――……。

だから書かなかった。
そして、その答えを聞かずにこの世界を去った。本当の理由は分からない。ただ一つ分かったのは、彼女の想いだ。

あなたの幸いは何ですか。

少女が少年に投げかけた質問と、『最愛の幸い』という題名。
“あなた”は少年のことだから、題の「最愛」が誰を指しているのか、そのことに気づいたとき、僕の頬を涙が伝った。

彼女が亡くなって、初めて泣いた。悲しい、という感情が今になって胸の中でじんわりと広がってゆく。
僕は徐にブランコから立ち上がり、原稿用紙の束をパッと手から放した。原稿用紙はばらばらに、風に吹かれて空をバックに飛んでいった。
僕はその様子を温かな気持ちで見守る。

いつか彼女が言っていた。

「敬貴くん。私ね、出会う前から敬貴くんのこと知ってたんだよ。友達とはしゃぎながら公園の前を通るのを、いつも見ていたから」

二人で肩を並べて川辺を歩いている最中だった。自転車を押しながら、僕は時折自分の影が彼女の影に重なるのを見ていた。

「敬貴くんの名前も知ってたし、仲良くなりたいと思ってたの。だから話しかけてくれたとき、本当に嬉しかった」

ああ、そうか。子供のころ、初めて会ったはずなのに彼女が僕の名前を呼んだのは、僕のことを前から知っていたからなんだと、そのとき知った。

「私は、あなたが羨ましかったわ」

最後に呟いた言葉には、様々な思いが詰まっていたに違いない。彼女にとって、普通に友達に囲まれ、普通に両親から大切にされて何不自由なく暮らしている僕は、彼女の理想そのものだったのだ。
彼女はどこにでもある「普通」の幸せを手に入れることができなかったから。
そんな彼女の、やりきれない思いを知って僕は切なさで胸が張り裂けそうだった。

「さようなら……実織」

実織の切実な願いが綴られた原稿を手放したあと、ようやく彼女に別れを告げた。

そうして僕は黄昏時の空を見上げながら、心の中で少年の最後の台詞を綴る。


実織。


僕の幸いは、最愛の人が幸いであることです。


実織が、幸せであることです。



【終】