◆◇
「……君、七瀬君」
誰だろう。
遠くで僕を呼んでいるのは。
……。
………。
いや、遠くじゃない、近くだ。
のっそり起き上がって顔を上げた。首が痛い。枕にしていた右腕の感覚がない。そうかと思えば、ピリピリと痺れが襲ってくる。
「大丈夫? 最近寝てばっかりだけど……。やっぱり実織のこと、まだ辛いよね」
目の前で僕の名前を呼んでいたのは、クラスメイトの二品早紀だった。
「実織……」
“実織”というその名前に嫌でも心臓が鼓動を速くする。刺すような痛みが、全身を駆け巡る。そこかしこに散らばる後悔の塊を、せめて燃やして捨てられたらいいのに。
二品さんは、実織の親友だった人だ。
僕と実織は恋人だったわけじゃない。単なる幼馴染で、よく一緒にいただけだ。
けれど、彼女を失った喪失感は並大抵のものではなかった。それは、目の前にいる二品さんも同じはずなのに、いつも僕のことを気にかけてくれていた。
「ごめん、そういうのじゃないんだ。寝不足なだけだから、心配しなくて構わないよ」
嘘だ、と心の中で呟いた。
辛くない、と口にする度に、彼女を裏切るような気持ちがした。彼女と過ごした日々が、脆く儚く崩れ去っていく感覚。
起きていても寝ていても、頭の中には彼女しかいないじゃないか。
それなのに、辛くないなんて言える自分がばかばかしく、滑稽だった。
「それならいいんだけれど。何かあったら言ってね。私も力になりたいから」
「ありがとう」
僕への気遣いか、二品さんはそのまま他の友達のとこへ行ってしまった。
実織が亡くなって、もうすぐ1か月。
クラスのみんなはもう彼女の存在を忘れたかのように、以前と変わらない毎日を送っているようだ。
彼女いた形跡が消えてゆく。
まるで、最初から方條実織なんて人はいなかったかのように。
雲が流れるのも、日が落ちるのも、星が瞬くのも、全部自然な流れだ。彼女の存在がみんなの中から消えることが、それと同じことだというのだろうか? 彼女は、そういう自然にさえ、意味を見出していた。心を通わせていた。全身全霊で風を受け、物語の登場人物に思いを馳せ、僕に語ってくれた。
僕だけが忘れられない。
だってほんの1か月前まで、僕の隣で優しい言葉をかけてくれたじゃないか。
その美しい心で、澄んだ声で、毎日毎日……。
いっそ、忘れられたらいいのに。
何もかも忘れて、失う痛みなど知らずに、幸せに過ごせたらいいのに。
そうすれば、こんなに辛い思いをしなくて済むだろう。
こんな、永遠の牢獄にいるような悲しみを味わわずに生きていける。
忘れたい。
彼女の声。
彼女の瞳。
彼女の温もり。
全部消えてなくなってしまえばいいんだ――……。
異変が起きたのは、それから1週間後のことだった。
僕はその日、朝起きて部屋の中を見回して、違和感を覚えた。
机の上に置いてある写真立ての中に、写真が飾られていなかったからだ。
「これ……何だっけ」
僕はそれを手に取って見てみたが、何の写真が入ってたのか、一体なぜ写真がなくなっているのか全然分からない。
不思議に思いながらも、学校へ行く準備をする。この不可解な現象は何なのだろうか。記憶に靄がかかったように何も思い出せなくて、そのまま学校に向かった。
「おはよう七瀬君」
学校に着いて教室に入ると、二品さんに声をかけられた。
「おはよう」
僕はいつものように挨拶を返す。周りからは、クラスメイトの話し声がこれもいつものように聞こえてきた。
だけど、教室を見渡して、再び「何かおかしい」という違和感を覚えたのだ。
なにか、足りない。
そう直感的に感じた。その正体に気づいて、目の前にいる二品さんに問う。
「なんで机が一つ足りないんだ?」
僕がそう聞くと、二品さんは、「え?」と顔をしかめた。
「どういう意味?」
僕は彼女の言葉の意味がまったく理解できなかった。その言葉をそっくりそのまま返したい、と思えたほどだ。
「机、31台しかない」
このクラスは32人生徒がいるはずなのに、机が31台しかないというのは明らかにおかしい。
「何言ってるの。ちゃんと32台あるじゃない」
呆れた顔の仁科さんをよそに、僕は自分の心臓がドクンと跳ねるのを感じた。
相変わらずクラスメイトたちのガヤガヤとした話し声が、うるさいぐらい耳を突いて響いてくる。
何かがおかしい。
自分の中の歯車が妙に噛み合わず、ギシギシと音を立て始める。
「七瀬君。実織の席、忘れてる……?」
まさに、青天の霹靂だった。
僕は、何かどうしようもないほどの痛みを覚えた。
なぜなら僕は、彼女の言っていることが理解できなかったから。
正確に言えば、彼女の言う人が誰なのか、分からなかったから。
僕は、“ミオリ”という人のことを、1ミリも思い出せなかった――……。
「……君、七瀬君」
誰だろう。
遠くで僕を呼んでいるのは。
……。
………。
いや、遠くじゃない、近くだ。
のっそり起き上がって顔を上げた。首が痛い。枕にしていた右腕の感覚がない。そうかと思えば、ピリピリと痺れが襲ってくる。
「大丈夫? 最近寝てばっかりだけど……。やっぱり実織のこと、まだ辛いよね」
目の前で僕の名前を呼んでいたのは、クラスメイトの二品早紀だった。
「実織……」
“実織”というその名前に嫌でも心臓が鼓動を速くする。刺すような痛みが、全身を駆け巡る。そこかしこに散らばる後悔の塊を、せめて燃やして捨てられたらいいのに。
二品さんは、実織の親友だった人だ。
僕と実織は恋人だったわけじゃない。単なる幼馴染で、よく一緒にいただけだ。
けれど、彼女を失った喪失感は並大抵のものではなかった。それは、目の前にいる二品さんも同じはずなのに、いつも僕のことを気にかけてくれていた。
「ごめん、そういうのじゃないんだ。寝不足なだけだから、心配しなくて構わないよ」
嘘だ、と心の中で呟いた。
辛くない、と口にする度に、彼女を裏切るような気持ちがした。彼女と過ごした日々が、脆く儚く崩れ去っていく感覚。
起きていても寝ていても、頭の中には彼女しかいないじゃないか。
それなのに、辛くないなんて言える自分がばかばかしく、滑稽だった。
「それならいいんだけれど。何かあったら言ってね。私も力になりたいから」
「ありがとう」
僕への気遣いか、二品さんはそのまま他の友達のとこへ行ってしまった。
実織が亡くなって、もうすぐ1か月。
クラスのみんなはもう彼女の存在を忘れたかのように、以前と変わらない毎日を送っているようだ。
彼女いた形跡が消えてゆく。
まるで、最初から方條実織なんて人はいなかったかのように。
雲が流れるのも、日が落ちるのも、星が瞬くのも、全部自然な流れだ。彼女の存在がみんなの中から消えることが、それと同じことだというのだろうか? 彼女は、そういう自然にさえ、意味を見出していた。心を通わせていた。全身全霊で風を受け、物語の登場人物に思いを馳せ、僕に語ってくれた。
僕だけが忘れられない。
だってほんの1か月前まで、僕の隣で優しい言葉をかけてくれたじゃないか。
その美しい心で、澄んだ声で、毎日毎日……。
いっそ、忘れられたらいいのに。
何もかも忘れて、失う痛みなど知らずに、幸せに過ごせたらいいのに。
そうすれば、こんなに辛い思いをしなくて済むだろう。
こんな、永遠の牢獄にいるような悲しみを味わわずに生きていける。
忘れたい。
彼女の声。
彼女の瞳。
彼女の温もり。
全部消えてなくなってしまえばいいんだ――……。
異変が起きたのは、それから1週間後のことだった。
僕はその日、朝起きて部屋の中を見回して、違和感を覚えた。
机の上に置いてある写真立ての中に、写真が飾られていなかったからだ。
「これ……何だっけ」
僕はそれを手に取って見てみたが、何の写真が入ってたのか、一体なぜ写真がなくなっているのか全然分からない。
不思議に思いながらも、学校へ行く準備をする。この不可解な現象は何なのだろうか。記憶に靄がかかったように何も思い出せなくて、そのまま学校に向かった。
「おはよう七瀬君」
学校に着いて教室に入ると、二品さんに声をかけられた。
「おはよう」
僕はいつものように挨拶を返す。周りからは、クラスメイトの話し声がこれもいつものように聞こえてきた。
だけど、教室を見渡して、再び「何かおかしい」という違和感を覚えたのだ。
なにか、足りない。
そう直感的に感じた。その正体に気づいて、目の前にいる二品さんに問う。
「なんで机が一つ足りないんだ?」
僕がそう聞くと、二品さんは、「え?」と顔をしかめた。
「どういう意味?」
僕は彼女の言葉の意味がまったく理解できなかった。その言葉をそっくりそのまま返したい、と思えたほどだ。
「机、31台しかない」
このクラスは32人生徒がいるはずなのに、机が31台しかないというのは明らかにおかしい。
「何言ってるの。ちゃんと32台あるじゃない」
呆れた顔の仁科さんをよそに、僕は自分の心臓がドクンと跳ねるのを感じた。
相変わらずクラスメイトたちのガヤガヤとした話し声が、うるさいぐらい耳を突いて響いてくる。
何かがおかしい。
自分の中の歯車が妙に噛み合わず、ギシギシと音を立て始める。
「七瀬君。実織の席、忘れてる……?」
まさに、青天の霹靂だった。
僕は、何かどうしようもないほどの痛みを覚えた。
なぜなら僕は、彼女の言っていることが理解できなかったから。
正確に言えば、彼女の言う人が誰なのか、分からなかったから。
僕は、“ミオリ”という人のことを、1ミリも思い出せなかった――……。