車のブレーキ音が、心臓に突き刺さった。


小学校低学年のころ、僕は震度7の地震の揺れを経験したことがある。
確か、国語の授業の最中だった。揺れが来たとき、突然の出来事にびっくりして、スイミーが大きな魚になった絵が描かれた教科書を思わず放り投げてしまった記憶がある。
しかし、実は震度7の地震自体はそれほど怖くなかった。というか、揺れが来た瞬間に「怖い」という感情を抱けるほどの余裕を持ち合わせていなかったのだろう。


それ以上に怖かったのは、一度大きな揺れが収まった後に、不意に訪れる余震だった。
余震が来る前には、「ゴォォォ」という地鳴りがする。僕はその地鳴りを聞く度に小さな身体を震わせていた。今でも飛行機やヘリコプターが飛ぶ音を聞くと、一瞬地鳴りと勘違いしてビクリとしてしまうほどだ。


だから高校3年生の僕が、何でもないいつもの学校の帰り道にその音を聞いたとき、心臓が震えて思わず立ち止まった。
その後、ドンッともバンッとも言い表しがたいとてつもなく大きな嫌な音がして、反射的に騒音がした方向に視線を這わせた。

事故が起きたのは、学校の正門から伸びる坂の下だ。
そこではとても信じがたい光景が広がっていて、僕は一瞬自分の目を疑った。


「おい、大丈夫か!?」


正義感の強い大人の男の声と、「きゃぁぁっ」という生徒たちの悲鳴が響き渡る。しかし、僕の耳はそれらの音を瞬時にかき消して、脳は急いで坂の下まで駆け降りるように命令した。

これは、なんだろう……。

何が起こっているのか——いや、交通事故が起こったことは間違いないのだが、頭の中でまったく整理がつかず、ただ茫然と目の前に広がるその光景を見つめるだけ。

横断歩道。
交差点。
坂道。
変形して転がる自転車。
凹んだ車。


そして、その傍らに横たわる少女。

少女は、僕と同じ高坂高校の制服を着ており、静かに目を閉じ眠っているようだった。

「あ、あの娘……方條(ほうじょう)さんじゃない!?」

知らない誰かが声を上げる。

僕は突き付けられた現実に目を逸らして、今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。第一、目の前で起こっていることが現実なのか夢なのか、判然としない。昨日の夜、夜更かしをしてしまったから頭がぼうっとしているだけなのかも。いや、まだこれは夢の中で、目が覚めたらまた平穏な街の風景を、窓から眺められるのではないか——。

視界が、ぐにゃりと歪む。
ほら、やっぱり。夢だ。もう目覚めるのだ。起きたらまずは、いつものようにコーヒーを飲もう。ブラックは苦手だから、ミルクをたっぷり入れたものを、母親に用意してもらう。

そこまで考えて、目尻に溜まる涙に気がついた。
視界が歪んだのは、こいつのせいだ。これは、夢じゃない。紛れもない現実で、僕はここから一歩も動けずにいる。

一体なぜ、こんなことになったのだろう。

昨日まで僕の隣で微笑みを浮かべていた彼女が、動かない人形になってしまったのは、何を間違ったからだろうか。

なに一つ分からなかった。
◆◇

彼女の名前は方條実織(ほうじょうみおり)という。僕と同じ、高坂高校の3年生。
彼女はどちらかと言えば大人しい人で、クラスの中でもあまり目立つようなタイプではなかった。

ただ、僕が彼女に対して「一つだけ特徴を挙げよ」と言われたら、「大人しい」なんてことは言わない。そんな通り一辺倒な言葉で、彼女を形容したくはなかった。

彼女は世界中の誰よりも美しい心を持っていたと思う。
なんて陳腐な言葉だ、と思われも仕方がない。実際、「心がきれいな人」ならどこにだっているだろうから。
ただ、僕が彼女に対して抱く印象は、単に彼女が善人だからとか、優しいからとか、そういう理由からじゃない。
彼女のすべてが特別だった。口にすること、目で追っているもの、遠く想いを馳せていること。
それは生まれつき備わっていた感性で、特別なものだったんだ。

例えば、帰宅時の通学路。
夕日で真っ赤に染まる空を見て、彼女はこう言った。

「歌が聞こえてくる……。懐かしい、子守歌。幼いころに畳に寝そべって聞いた、哀しい歌」

もともと大きくて綺麗な目を細めて、昔を懐かしみながらもその目は真っ直ぐに山の端に沈む夕日を捉えていた。

そんな時はいつも淋しそうな表情になり、それから切なげな笑みを浮かべるのだ。

「でも、とても綺麗ね」

彼女はこんなふうに、僕にとってはどうでもいいような、とても些細な事柄の最も美しい部分をいつも考えていた。
世界の一番深い端っこを掴んでいたのだ。
僕は、そんな彼女の考えることを一つでも多く理解して、夕日の沈む山の向こう側を見ようと背伸びした。けれど、当たり前だが向こう側なんて到底見えやしない。諦めて、彼女が見つめる方向をじっと見ていた。彼女と同じことをしていれば、いつか自分にも特別な感性が備わるような気がしたのだ。

「ねえ、敬貴(たかき)くん」

いつだったか、彼女が何か決心したように凛とした声で僕を呼んだ。
何を言われるのだろう、とどきどきしながら彼女の次の言葉を待った。

「私、作家になるわ。そしていつか、“最愛の幸い”を書くの」

「最愛の幸い?」

「ええ。私にとって、特別な物語なの」

夢を語る彼女の目はとても澄んでいて、ふと気を抜けばその瞳の中に引き込まれていきそうだった。

そうだ、彼女はいつだって未来に希望を持って生きていた。
真っ白く、穢れのない花を胸に抱いていた。

それなのに、なぜ。
彼女は自分自身に制裁を加えなければならなかったのだろう。

“またね、敬貴くん”

あの日、笑って僕に別れを告げ、普段と同じように帰宅するはずだった彼女は、自転車で勢いよく坂を下ったあと、自ら赤信号の横断歩道に突っ込んでいったのだ。

案の定、彼女は直進してきた車に衝突した。
自転車のブレーキが壊れていたわけでも、彼女がハンドル操作を誤っていたわけでもない。
だからこれは、不幸な事故なんかじゃないのだ。彼女は自ら望んで事故に巻き込まれた。

警察は、彼女が自殺したのは彼女の家がとても貧しかったせいだと結論づけた。要するに、「家庭の事情が理由」として話が収まったのだ。実際、彼女の家には毎日借金取りが来て、普通の生活をしていけるような状況ではなかった。ストレスが溜まっていたんだろう、と大人の人たちが結論づけるのを、僕は空虚な気持ちで聞くことしかできなかった。悔しくて悲しいはずなのに、彼らの言葉に対抗する術を持ち合わせていない僕は、深くうなだれるだけ。手の指先や足先が、自分の身体ではないかのようにうまく動かなくて、毎日朝起きるのさえ億劫になっていた。


彼女は、どうだったんだろうか。
事故が起きる前。毎日ほとんど寝ていない状態で、それでも学校にはきちんと登校していた。僕の前では絶対に弱音を吐かなかった。


だけど、やっぱり苦しかったのだと、あの日ようやく気づいたんだ——。
◆◇

実織と出会ったのがいつだったのか、はっきりと覚えていない。たぶん、小学2年生ぐらいだったと思う。小学校の帰り道、その日はいつも一緒に帰る友達が欠席していたのか、一人で帰っていた。一人ではつまらなくて、小石をけりながらゆっくりと歩いた。もしかしたら、周りの人から寂しいやつ、と思われたくないというほどのプライドがあったのかもしれない。

何度も標的の石を見失いそうになりながら歩いているうちに、家の近くにある公園がふと視界に入った。べつに特別な場所というわけではなく、毎日行きと帰りの2回は目にする公園で、友達ともよく遊ぶ場所だ。その公園は、滑り台とブランコほどの遊具しかない、いたってシンプルな造りの公園。

その日ブランコに、一人の少女が座っていた。
赤いランドセルを背負ったまま、ブランコを漕ぐでもなく足をぶらぶらさせている。

自分と同じくらいの歳の子だと直感的に思った。

幼い僕はその少女を見て何を思ったのか、ふらふらと公園に足を踏み入れ、少女のもとへ歩いていた。僕が近づいても気がつかないのか、彼女は顔を斜め45°上に傾け、ある一点を見つめて動かない。それは、ぼうっとしているわけでも、何か深く考えているわけでもなく、言うなれば“無心”の状態だった。僕は幼いながらもそういうことに気づいていた。

「何を見ているの?」

少女の横に立って話しかける。

「お星さま。たくさん光が見えるの。全部色が違うのよ」

彼女と同じように、空を眺めた。連なる屋根の向こうに、山が見える。どこにでもある田舎の風景を包み込む、まだらな雲の流れる空。

彼女は確かに「星が見える」と言ったが、僕には何も見えなかった。第一、まだ星の出る時間帯ではなく、ようやく日が暮れてきた頃だったのだ。

けれど、彼女には見えないはずの星が見えていた。
その光を、きっと心で感じていた。

「えー、星なんて見えないよう」

子供の僕には、彼女の話がまったく理解できない。首を伸ばし、背伸びをして空を見上げていると、ふらついて転げそうになった。

「きみの名前はなに? どうして一人でここにいるの?」

子供っていう生き物はまったくもって恐ろしい。初対面の女の子に、いきなり個人情報を聞き出せるのだ。いまの僕には到底無理だ。
しかし彼女は僕の不躾な質問を嫌がりもせず、くいっと顔をこちらに向け、柔らかく微笑んで答えた。

「方條実織。青葉小学校2年生。ここにいたのは、家に帰りたくないからだよ」

彼女の“微笑む”という動作と“家に帰りたくない”という台詞はあまりにミスマッチだった。思わず首をひねったほど。でもそれ以上に、彼女が自分と同じ学校で、同じ学年だということに嬉しくなった。

「へえ、僕も青葉小学校で、2年生なんだ」

「本当に! じゃあ、また会えるかもね」

とても弾んだ、嬉しそうな声だった。その時の彼女は、初めに目にした時のように“無心”ではなく、年相応の少女という感じがした。

それからどれほど話したのだろう、気づいたら本当に夜になっていて、本物の星が夜空に瞬いていた。

「もうそろそろ、帰らなくちゃ」

「そうね……、お父さんとお母さんが待ってるものね」

なぜかよく分からないけれど、その言葉を吐いた彼女がとても小さな存在に見えて、胸が疼いた。

「さようなら、敬貴くん」

「うん、またね」

お互いに手を振って別れを告げ公園を出たとき、はっとした。

なぜ彼女は僕の名前を知っていたのだろう。
名札はランドセルにしまってある。帰宅時につけっぱなしでは危ないと、母に言われていたからだ。

「まあいいや」

そんな不思議な出来事も、8歳の自分には大した問題でもなく、謎のままになってしまった。

彼女がこのあと家に帰って、機嫌の悪い母親の相手をして罵りを浴びながら夜を明かしたのか、それともずっと公園にいたのかなんて、知る由もない。

そう、この時の僕はまだちっぽけな子供で、彼女は小さな大人だったから。

空を見上げると星がとても遠くて、僕は精一杯背伸びをして手を伸ばしてみたけれど、何度挑戦してもひんやりとした空気を掴むだけだった。



その日以来、僕は何かと友達に理由をつけて、学校の帰りに公園に立ち寄った。
彼女はたいていブランコに座って本を読んでいた。僕は本に興味はなかったが、彼女に会うため毎日寄り道をした。

「今日は何の本?」

「これ」

彼女に本の表紙を見せられて分かった。
そこには「よだかの星」と書かれていた。宮沢賢治の作品だ。僕も一度読んだことがある。それにしても、名作なんてそれほど面白いものではないのに、なぜ彼女がいつも退屈な本ばかり読んでいられるのだろう。

「よだかは、実にみにくい鳥です」

彼女の声が、僕の耳に心地よい。

「顔はどろどろ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしはひらたくて、耳までさけています」

よだかはとても醜いため、みんなから嫌われている。よだかは鷹の仲間ではないのに、“たか”という名前が入っているため、本当の鷹がとても気にかけて、嫌がっていた。

あるとき鷹がよだかに言うのだ。
名前を変えて、みんなに報告に行け。
そうしなければ殺してしまうぞ、と。

よだかは身も心もボロボロになりながら願うのだ。

『お日さん、お日さん。私をあなたの所へ連れてってください。やけて死んでもかまいません』

『東の白いお星さま、私をあなたの所へ連れてってください。やけて死んでもかまいません』

しかし、太陽にも星にも、よだかは相手にされなかった。
そうしてそのまま力尽きて星になるのだ。
今考えるとあまりに理不尽な話だ。これで児童向けの話なんだから不思議だ。

「よだかはかわいそうだよね。何も悪いことをしていないのに、死んじゃうなんて……」

僕は彼女に向かって率直な感想を述べた。
よだかは優しい心の持ち主で、何も咎められるようなことなんてなかったのに。
最後には命を奪われるのだ。

「そう、かな。よだかは望んで星になったんじゃないかな」

そう呟いた時の彼女の儚い声を、僕は今でも忘れられない。
彼女もよだかのように、本当に望んで亡くなってしまったから。ただ、彼女が何を思って自殺したのか、車にぶつかる瞬間に何を願っていたのか。


それだけを、僕は知りたかった。
◆◇


「……君、七瀬君」

誰だろう。
遠くで僕を呼んでいるのは。
……。
………。
いや、遠くじゃない、近くだ。

のっそり起き上がって顔を上げた。首が痛い。枕にしていた右腕の感覚がない。そうかと思えば、ピリピリと痺れが襲ってくる。

「大丈夫? 最近寝てばっかりだけど……。やっぱり実織のこと、まだ辛いよね」

目の前で僕の名前を呼んでいたのは、クラスメイトの二品早紀(にしなさき)だった。

「実織……」

“実織”というその名前に嫌でも心臓が鼓動を速くする。刺すような痛みが、全身を駆け巡る。そこかしこに散らばる後悔の塊を、せめて燃やして捨てられたらいいのに。


二品さんは、実織の親友だった人だ。
僕と実織は恋人だったわけじゃない。単なる幼馴染で、よく一緒にいただけだ。
けれど、彼女を失った喪失感は並大抵のものではなかった。それは、目の前にいる二品さんも同じはずなのに、いつも僕のことを気にかけてくれていた。

「ごめん、そういうのじゃないんだ。寝不足なだけだから、心配しなくて構わないよ」

嘘だ、と心の中で呟いた。
辛くない、と口にする度に、彼女を裏切るような気持ちがした。彼女と過ごした日々が、脆く儚く崩れ去っていく感覚。
起きていても寝ていても、頭の中には彼女しかいないじゃないか。
それなのに、辛くないなんて言える自分がばかばかしく、滑稽だった。

「それならいいんだけれど。何かあったら言ってね。私も力になりたいから」

「ありがとう」

僕への気遣いか、二品さんはそのまま他の友達のとこへ行ってしまった。
実織が亡くなって、もうすぐ1か月。
クラスのみんなはもう彼女の存在を忘れたかのように、以前と変わらない毎日を送っているようだ。

彼女いた形跡が消えてゆく。
まるで、最初から方條実織なんて人はいなかったかのように。
雲が流れるのも、日が落ちるのも、星が瞬くのも、全部自然な流れだ。彼女の存在がみんなの中から消えることが、それと同じことだというのだろうか? 彼女は、そういう自然にさえ、意味を見出していた。心を通わせていた。全身全霊で風を受け、物語の登場人物に思いを馳せ、僕に語ってくれた。

僕だけが忘れられない。
だってほんの1か月前まで、僕の隣で優しい言葉をかけてくれたじゃないか。
その美しい心で、澄んだ声で、毎日毎日……。

いっそ、忘れられたらいいのに。
何もかも忘れて、失う痛みなど知らずに、幸せに過ごせたらいいのに。
そうすれば、こんなに辛い思いをしなくて済むだろう。
こんな、永遠の牢獄にいるような悲しみを味わわずに生きていける。


忘れたい。
彼女の声。
彼女の瞳。
彼女の温もり。
全部消えてなくなってしまえばいいんだ――……。



異変が起きたのは、それから1週間後のことだった。
僕はその日、朝起きて部屋の中を見回して、違和感を覚えた。
机の上に置いてある写真立ての中に、写真が飾られていなかったからだ。

「これ……何だっけ」

僕はそれを手に取って見てみたが、何の写真が入ってたのか、一体なぜ写真がなくなっているのか全然分からない。
不思議に思いながらも、学校へ行く準備をする。この不可解な現象は何なのだろうか。記憶に靄がかかったように何も思い出せなくて、そのまま学校に向かった。

「おはよう七瀬君」

学校に着いて教室に入ると、二品さんに声をかけられた。

「おはよう」

僕はいつものように挨拶を返す。周りからは、クラスメイトの話し声がこれもいつものように聞こえてきた。
だけど、教室を見渡して、再び「何かおかしい」という違和感を覚えたのだ。

なにか、足りない。

そう直感的に感じた。その正体に気づいて、目の前にいる二品さんに問う。

「なんで机が一つ足りないんだ?」

僕がそう聞くと、二品さんは、「え?」と顔をしかめた。

「どういう意味?」

僕は彼女の言葉の意味がまったく理解できなかった。その言葉をそっくりそのまま返したい、と思えたほどだ。

「机、31台しかない」

このクラスは32人生徒がいるはずなのに、机が31台しかないというのは明らかにおかしい。

「何言ってるの。ちゃんと32台あるじゃない」

呆れた顔の仁科さんをよそに、僕は自分の心臓がドクンと跳ねるのを感じた。
相変わらずクラスメイトたちのガヤガヤとした話し声が、うるさいぐらい耳を突いて響いてくる。

何かがおかしい。
自分の中の歯車が妙に噛み合わず、ギシギシと音を立て始める。

「七瀬君。実織の席、忘れてる……?」

まさに、青天の霹靂だった。
僕は、何かどうしようもないほどの痛みを覚えた。

なぜなら僕は、彼女の言っていることが理解できなかったから。
正確に言えば、彼女の言う人が誰なのか、分からなかったから。


僕は、“ミオリ”という人のことを、1ミリも思い出せなかった――……。
◆◇

思出せない。

そのことを二品さんに告げると、彼女は信じられない、という顔をした。

「それは本当に? 実織よ、方條実織。あんなに一緒にいたじゃない。どうして忘れてしまったの」

同じことを、何度も何度も聞かれた。それでも彼女のことを思い出せない原因は分からず、この不思議な出来事に僕は動揺してばかりだった。二品さんは、何度同じことを聞いても僕が答えられないことを悟り、疲れたように肩を落として、消え入りそうな声で呟いた。

「七瀬君、どうしちゃったの……」

二品さんが眉を下げ、淋しそうな表情をしているのを見て、僕は申し訳ない気持ちで一杯になった。でも、分からない。自分ではどうすることもできなかった。

「ごめん……」

謝罪すること自体が悪いことのようにさえ思えるのに、自然と口にしてしまう自分が憎らしい。

「いえ、いいの……。そういうことって、よくあることだと思う。きっとすぐに思い出せるわ」

二品さんは自分に言い聞かせるように、空虚なまなざしで教室の床を見つめて言った。
僕は何か大切なものを落っことした。でも、彼女もまた、何かをどこかに置き忘れたのかもしれない。

それから彼女は口をつぐんで自分の席に戻っていった。その背中は確かに震えていた。彼女は席に着くと、慌てたように机の中に手を入れ、ゴソゴソと何かを探し始めた。僕はその様子を特に気にする理由もなく、自分の机の木も模様を目で辿る。二品さんが言っていた“ミオリ”という人の記憶を思い出そうとしが、その度に頭がぐらぐらして考えることができなくなった。それは、覚えていないというよりも、脳が思い出すことを拒絶しているようだった。


それからしばらく机をぼうっと眺めていると、あることが脳裏をよぎった。


——忘れたい。

ひしひしと音を立てながら、忘れていた想いが押し寄せてくる。

——全部消えてなくなってしまえばいいんだ。

「あ……」

そうだ、つい1週間前のことじゃないか。

「僕が、願ったんだな」

一人ボソッと呟く。
教室を見回しても、僕にはまだ机が一つ足りないようにしか見えない。
忘れることを願ったから、一人の人間を忘れた。そんなことが普通はあるはずがないのに、そのあり得ないことが、本当に起こってしまった。

僕が願った。
何もかも忘れることを、本心から思ってしまった。辛いから忘れたいだなんて、なんて浅はかな考えなんだろう。そんなことをして、心が救われるとでも? 前を向けるとでも? 子供じみたわがままで、周りの人を困らせている。
僕は、僕が許せない。

方條実織とは、一体どんな人なのだろう。
どんな表情をして、どんな声で、どんな性格をした女の子なんだろう。
そして、僕は彼女をどんなふうに見ていたのだろうか。
◆◇

彼女を思い出せなくなってから2週間、僕と二品さんは様々なことを試してみた。


「実織はよく、この図書館に来て物語を書いていたのよ」

「へえ……」

二品さんが町の中で、彼女が気に入っていた場所を次々と紹介してくれた。

実織はね、周りをよく見る人だったの。
周りの木や、建物や空を見て、きっと何かを感じていたと思うの。私たちには感じることのできない彩りのある世界。
それから、ここの川辺も好きだったわね。

そうやって、二品さんはあらゆるところを指さし、時折涙を浮かべながら、僕に思い出を語ってくれる。

でも、何を見ても、何を聞いても、方條実織のことを思い出せなかった。二品さんの語る彼女はとても純粋で、澄んだ心の持ち主のようだった。僕はそんな、美しい心の持ち主と友人だったのだろうか。心を許し合い、悩みごとさえも打ち明け、日々過ごしていたのだろうか。

「ごめん、やっぱり分からないや」

一生懸命彼女について教えてくれた二品さんに申し訳ないと思いつつ、僕は立ち止まる。

「そう……。まあ、無理に思い出そうとしなくてもいいよ。そのうち、思い出すわ」

二品さんはとても優しい人だ。親友を失って悲しいはずなのに、僕に気を遣ってくれるのだから。

「本当にごめん。早く思い出せるよう頑張るよ」

「ううん、いいの。それじゃあまた明日ね」

彼女は小さく手を振って帰ってゆく。その去ってゆく背中を見ていると、申し訳ない気持ちと、方條実織を思い出せないやるせなさで胸が裂けそうになった。

二品さんの姿が見えなくなって、僕も家路につく。
日が完全に落ちる前の、朱色に染まる空を眺めながら歩く。こういう空を、「綺麗」というのだろう。誰かと分かち合いたいと思うのだろう。僕が共有したかった相手は、脳内から消えてしまった。

頭が痛くなるほど実織について考えながらある場所に辿り着くと、自分でも分からないままに足を止めてしまった。
そこは、いつも目にする公園だ。特に変わったものがあるわけでもないのに、なぜかその場所に引き寄せられて、砂利を踏みながら公園の中に入った。

僕は二人掛けの椅子に腰かけ、辺りを見回す。
小さな滑り台とブランコがある。今は子供も大人も誰もいなくて、ブランコだけが風に吹かれて小さく揺れている。
そういえば、小さい頃によく遊んでたなと懐かしく思って、ブランコの方へ歩いていき、その鎖に触れてみた。何年も使われて鎖は錆びていたが、その感触さえも懐かしい。

その時だった。
不意に、ブランコと、揺れる少女の足が脳内にフラッシュバックした。
頭の中で、何かがパチンと弾ける音がした。

「あれ……」

何か、とても愛おしいものの気配がしたのだ。
そうだ、これは……。
覚えている。
頭では忘れていた彼女への愛しいという感情が、叫んでいる。

ねぇ、敬貴くん。
私、作家になるわ。
そしていつか、“最愛の幸い”を書くの。

あのとき、嬉しそうにそう言った彼女の声を、言葉を、はっきりと思い出した。

「実織……」

ポツリと、彼女の名前が口から洩れた。
どうして忘れていたのだろう。
あれほど一緒にいた彼女のことを、忘れるはずはなかったのに。
嬉しさと同時に、言いようもない悔しさに襲われた。


ごめん、実織。
何もかも思い出したよ。
きみの優しさも、温もりも、作家志望だったことも。