「少しだけ部屋で待っててくれる? この子のこと、駅まで送ったらすぐ戻ってくるから。鍵、持ってるんだよな。カバンだけ持って行っといてくれたら嬉しい」
無言のままの夏乃さんに、那央くんが作ったような笑顔を向けながら、仕事用のカバンを差し出す。それをしばらくジッと見つめた彼女は、那央くんの手をバシッと振り払って、わたしに視線を向けた。
「その子、誰? 那央が今勤めてる高校の子?」
「そう。この子、おれに今の高校の非常勤を紹介をしてくれた大学時代の先輩の娘さんなんだ。ちょうど帰り道で出会ったから、途中まで車で乗せて帰ってきた」
那央くんが、平静な顔で夏乃さんにそんな説明をする。いろいろと細かな内情は省かれているけど、那央くんは嘘はついていない。
雨の運転が苦手なことは彼女には話せないし、《そういうこと》にして、わたしはおとなしくしていたほうがいいだろう。
夏乃さんは那央くんの話がいまいち信じられないのか、わたしに疑惑の眼差しを向けてきた。ダークブラウンの瞳に真っ直ぐに見つめられて、密かに抱いている那央くんへの下心が見破られるのではないかと、そわそわとする。
夏乃さんの視線に耐えきれずに目を伏せると、彼女が露骨にため息を吐いた。
「この頃、メッセージの返信はそっけないし、電話にもなかなか出てくれないし。会いに来てもすれ違いばっかりで、心配してたんだよ。仕事が忙しくて疲れてるんじゃないか、って。でも、そうじゃなかったんだね。勤務先の女子高生とのデートで忙しかったんだ」
夏乃さんの言葉には、チクチクとトゲがある。