「沙里ー、これ以上雨がひどくなる前に帰ろうよー」
既に折り畳み傘を差して雨の中へと足を踏み出していた唯葉が、ぷくっと頬を膨らませてわたしを振り返る。だけどわたしは、唯葉の呼びかけに答えることができなかった。
雨が降るから。湿った空気の匂いが、わたしの胸を息苦しくさせるから。
頼っていいと言ったのに、那央くんは一度もわたしに助けを求めてくれない。特別じゃないから。必要とされていないから。それがわかっていても、雨を見るとどうしようもない気持ちでいっぱいになる。
必要じゃなくても、わたしは那央くんのところに行きたい。
「唯葉、ごめん。わたし、用事を思い出した。やっぱり、先に帰ってて」
「え、沙里? どこ行くの?」
唯葉が呼び止める声を無視して、わたしは走り出していた。頭の中を支配するのは那央くんのことばかりで、それ以外は何も考えられない。
化学準備室に向かって一気に走っていくと、そのドアは少し開いていて、室内の明かりが暗い廊下に薄っすらと伸びていた。
よかった。那央くんはまだ化学準備室にいる。ほっとしたのと、嬉しいのとで、つい頬が緩む。ドアを引き開けようと手をかけたとき、中から話し声が聞こえてきた。
「那央くんはさー、彼女にするなら何歳差ぐらいまでなら許容範囲?」
ドキッとしてドアの隙間から化学準備室の中を覗くと、前にも見たことのある三年生の女子二人組の後姿が見えた。