「ところで、今日はお礼のコーヒーないの?」

 うつむいて黙り込んでいると、デスクに頬杖をついた那央くんがニヤリと口角を上げて問いかけてきた。

「あ。今日は忘れた……」

 なぜか今日は、那央くんに会って話したいという気持ちばかりが募って。他のことを考えている余裕がなかったのだ。

 気を利かせて、差し入れを買ってきたらよかった。後悔して落ち込んでいると、那央くんがわたしの頭に手をのせた。

「うそうそ、冗談。今の報告聞けただけで充分」

 視線を上げると、那央くんがグシャグシャと頭を撫でてくる。少し歯を見せて悪戯っぽく笑う彼の表情が、わたしの胸の中をもグシャグシャと搔き乱す。

 とても哀しい経験も苦しみも味わっているはずなのに、那央くんはいつも暖かくて優しい。

 今、那央くんの前にいるのは偶々わたしだけど……、もし他の生徒が相談をしてくれば、那央くんはわたしにしたのと同じようにその子のことを真剣に考えて、その子のために怒って、笑うんだろう。

 頭を撫でてくれる那央くんの手のひらは、誰に対しても公正なのに。わたしはそれをズルいと思ってしまう。

 健吾くんのことを報告し終えたあとも、わたしはしばらく化学準備室にいた。

 最初は「帰んないの?」と、わたしのことを気にしていた那央くんだったけど、そのうち気にならなくなったらしい。デスクの端にスマホ置いて動画を見ているわたしのそばで、那央くんは黙々と仕事を続けていた。

 デスクに向かう那央くんの真剣な横顔は、思わず見惚れそうになるほどかっこいい。

 こんなふうに話すようになるまでは、那央くんのことをもっと客観視できていたはずなのに。今のわたしはたぶん、那央くんのことを一〇〇%主観で見てる。

 あんなに大好きだった健吾くんにフラれたばかりで。健吾くん以外を好きになることなんてないと頑なに思っていたのに。那央くんのことを少し特別な目で見てしまうのは、誰にも言えなかった秘密を共有したせいだろうか。