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 その日、惣兵衛が仕事へ出かけようと支度をしていると、障子の外から声をかけられた。
「惣兵衛殿はおられるかな」
「へい、なんでございましょう」
 外へ出てみると、そこにいるのは立派な身なりをした武士だった。
「こ、これは御家老様ではありませんか」
 あわてて惣兵衛が頭を下げると、まわりの家から顔を出していた女房達もそろって規武に頭を下げた。
「実はな、惣兵衛殿、そなたの娘御をうちの息子の嫁に迎えたいと思ってお願いに参ったのだ」
 家老ともあろう身分の武士が長屋暮らしの町人に向かって頭を下げている。
「いけません、御家老様。御身分に障ります」
 惣兵衛が止めようとしても規武は頭を上げない。
「この通りだ。曲げて頼む。千紗殿をいったん武家の養女にし、それからうちの息子に迎え入れたいのだ」
「しかし……」
 惣兵衛はため息をついて黙り込むしかなかった。
 すると、まわりで様子をうかがっていた女房連中が集まってきて、口々に勝手なことを言い始めた。
「惣兵衛さんはおかみさんを早くに亡くして寂しいんでしょう。でも千紗ちゃんはおかみさんじゃないんだからさ」
「そんなの分かってるよ。俺だってな、娘の幸せを願ってるんだよ」
「なら、こんないい話ないじゃないかい」
「そ、そりゃそうだけどよ」
 別の女房が横から口を挟む。
「駆け落ちしちゃうかもよ。近松のお話みたいに、『新久郎様、あの世で添い遂げましょう』なんて」
「よせやい。心中は御法度(ごはっと)だぜ」
「御法度だろうと、好き合う二人を止めることなんてできるわけないじゃないの」
 さっきの女房が惣兵衛を指さした。
「あんただって恋女房と親方のところを飛び出してきたんでしょ」
「へへっ」と、惣兵衛が鼻をこする。「あいつが、どうしても一緒になりてえって言うからよ」
「嘘ばっかり」と、赤子を背負った女房が背中をたたく。「あんたが仕事がつらくて恥ずかしげもなく泣いて頼むから、かわいそうでついてきたって言ってたよ」
「いや、まあ」と、惣兵衛が口ごもる。「とにかく惚れてたんだよ。悪いかよ」
「で、どうすんのさ」
「分かったよ」
 女房達に囲まれた惣兵衛がぼりぼりと頬をかきながら規武に頭を下げた。
「御家老様、うちの娘をどうかよろしくお願いいたします」
「おお、そうか、承知してくれるか」と、規武はあらためて頭を下げた。「惣兵衛殿、礼を言うぞ」
「良かったわねえ」と、女房達が喜び合う中、惣兵衛は腕組みをしながら目を閉じた。
 ――これでいいんだろ。
 まぶたの裏には懐かしい恋女房の笑顔が浮かんでいた。