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 惣兵衛が長屋に戻ると、千紗が草履を履いて出かけようとしていた。
「ならねえ」と、父は間口をふさいで娘を止めた。
「おとっつぁん」
 相変わらずぎょろりとした目だ。
 死んだ女房そっくりだ。
 惣兵衛は視線をそらしながらうつむいた。
「分をわきまえろ。泣くのはおまえだぞ」
「新久郎様はそんなお方ではありません」
「おまえに何が分かる。だまされる女はみんなそう言うんだ。算術ばかりで何も知らねえ馬鹿な娘だ。世の中は計算通りになんかいきやしねえんだ。色恋の胸算用なんて一番当てになるもんじゃねえよ」
 長屋の女房連中が聞き耳を立てている。
 惣兵衛は中へ入って障子を閉めた。
「おまえは世の中のことが何も分かっちゃいねえ。算術なんか何の役にも立たねえんだ」
「分かんないわよ」と、千紗も言い返す。「おとっつぁんの言うとおり算術しか分かんないし、そんなの何の役にも立たないわよ。だけど、おとっつぁんだって、何が分かってるっていうのよ。新久郎様のことだって何も知らないくせに」
「ああ、分からねえよ。俺だって何も分からねえよ。だけどな、うまくいかないってことだけは分かる。こればっかりは仕方がねえんだよ」
 唇を噛んで黙り込むと、千紗は背中を向けて泣き始めた。
「俺はおまえが不幸になるのを見たくねえんだ」
 惣兵衛は草履を脱いで板間に上がると、だるまのように背中を丸めて目を閉じた。
 娘の泣いている姿を見たくはない。
 だが、若様のところに行かせるわけにもいかない。
 忘れちまえ。
 忘れちまうのが一番だ。
 惣兵衛は薄く目を開けて娘に顔を向けた。
「そのうち、おまえにもいい縁談があるさ」
「ないもん!」と、千紗が父をにらみつける。「新久郎様がいいんだもん。新久郎様じゃなきゃ嫌なんだもん」
「馬鹿なこと言ってるんじゃない」
 と、思わず手を上げそうになって、惣兵衛は固く腕組みをした。
「あちらさんにもご迷惑がかかるんだ。そういうものなんだよ」
 まったく、不憫な娘だ。
 父親としてしてやれることなど何もない。
 ただ止めてやるしかないんだ。
 泣きはらした目で立ち尽くす娘を見ていられない。
「ちょっと、ションベンしてくるわ」
 惣兵衛はため息をつきながら表に出ると、ピシャリと障子を閉めた。
 夕飯の匂いが漂ってくる。
 女房がいたらなんて言うだろうか。
 いけねえ。
 そんなこと考えたって、あいつは帰ってこねえんだ。
 俺まで寂しくなっちまう。
 惣兵衛は草履をパタパタと鳴らしながら川端に向かって歩き始めた。