「そなた、どうした?」
 聞きたかった声に、弾けるように立ち上がった。
「なんだ、どうしたのだ?」
 千紗は新久郎の胸に飛び込むと、顔をこすりつけるように抱きついた。
「すまんな。待たせてしまったか」と、新久郎も千紗を包み込むように抱きしめる。
 しばらく二人は社殿の陰でそのまま抱き合っていた。
 最近はずっとこうだ。
 算術よりも、好きなものができた。
 新久郎の腕に抱かれているときだけ、千紗は自分の気持ちに正直になれる。
 信じていられる。
「今日は算術をしておらなかったのか」
 コクリとうなずいてまた新久郎の胸におでこを押しつけた。
「せっかくだから千紗殿も踊れば良いではないか」
「苦手です」
「実は私もだ」と、新久郎が笑いかける。「手足がおかしな方向にしか動かんし、音曲に合わせることもできん。鳥獣戯画の蛙の方がましだろうな」
 新久郎の踊りが下手なのは知っている。
 いつだったかの踊りは、それはひどいものだった。
 千紗がようやく微笑みを浮かべる。
 新久郎が簪を取り出した。
 無地の円盤から二本の足が出た一番単純な形。
「どうだ。この簪には円がついておるだろう。そなたは円が好きだと思ってな」
 そして、千紗の髪にそっと簪を挿した。
「どうだ、似合うぞ」
「見えません」
「おお、そうか。鏡はないし。仕方がないか」と、新久郎が千紗の顔をのぞき込んだ。「私の目には見えておる。とてもきれいだ。よく似合うぞ」
「わたくしなんかに……」
 と、言いかけたとき、新久郎が千紗の顎に手をかけて上を向かせた。
「そんなことを言うな」と、新久郎はまっすぐに彼女を見つめた。「私にはちゃんと見えている。そなたは美しい」
 ぱさついてゴワゴワの髪に砂で汚れた頬、つぎはぎだらけの着物。
 生意気な目に、やせ細った体。
 娘らしさなんかどこにもない。
 どこからどう見ても美しいわけがない。
 なのに新久郎は千紗を見てくれる。
「私には見える」と、新久郎がささやく。「私にだけ見えていればそれでいいんだ」
「私にも新久郎様しか見えません」
「私もだ。そなたのことしか見えん」
 照れくさくて千紗は想わず視線をそらしてしまった。
 でも、耳が熱くなって、額に汗も浮いてしまう。
 千紗は顔を見られないように新久郎の胸に顔を押しつけた。