その日は、小山をふたつ越えた辺りに位置する無人の社にて夜を明かすことにした。
この時も早苗さんは徹底して仁雷を避けていた。一人で板の間に横になり、冷たい隙間風を痩せ我慢するものだから、見兼ねておれが添い寝をして、風避けになってやる。
「………………………。」
仁雷の刺すような視線に耐えなければいけないのは、正直辛かった…。
そんな仁雷には聞こえないよう、おれは体を丸くした状態の早苗さんに耳打ちする。
「…早苗さん。何か意地を張ってる?
教えてくれないと、おれにはしてやれることがないよ…。」
「…………。」
早苗さんの小さな手が、おれの着物をギュッと掴んだ。
“ぎ、ら、ん、さ、ま…”
小さな唇が声無く、おれの名を呼ぶ。その意図を汲み取った時、
「…………なあ仁雷、少し外を見回って来てくれないか?熊が歩き回ってるかもしれない。」
「………………分かった。」
おれは仁雷を社の外へと誘導する判断をした。
こうすれば早苗さんが落ち着いて、胸の内を明かせる。
蝋燭の灯りにぼんやり照らされた、幼い早苗さんの顔を見下ろす。対する早苗さんは、不安げにおれを見上げた。
言葉を慎重に選びながら、恐る恐る問いかけてくる。
「………義嵐さま、教えてください……。
これまでに、“お使い様をお慕いしてしまった娘”は、いるのでしょうか…。」
ーーーああ、やっぱりか。
おれはさほど驚かなかった。何となく予想は付いていたから。
“お使いを好きになった娘がいるか”。おれと仁雷以前にも、巡礼のお供を務めた山犬の話は多く聞く。そして、おれ自身…。
「巡礼は命懸けの旅。だからか、お使いと犬居の娘達の間に、特別な絆が生まれることはよくあるよ。
…早苗さんは、仁雷を好いてくれてるんだね?」
早苗さんは一瞬だけ体をビクリとさせ、狼狽える。しかし、誤魔化したり、はぐらかしたりはしなかった。
「……………はい……。
仁雷さまのお顔を見ると…心がざわめくのです…。それに、いずれやって来るお別れの時を想像してしまって、平静でいられないのです…。」
ーーーそうか、それで…。
これがただの男と女の恋情だったならどれほど喜ばしかったことだろう。
きっと早苗さん自身、ちゃんと分かってるんだ。己の立場も、相手の立場も…。
「……早苗さんはどうしたい?」
「…………。」
早苗さんは目を瞑り、自分の中で気持ちを整理しているようだった。心を落ち着け、努めて冷静に答えてくれる。
「………わたしの想いを全うさせようとは、思いません。
わたしは狗神様の物…。生まれた頃からそう教えられてきましたから。これまでたくさんの方が生贄の儀式のために手を尽くして……。」
早苗さんは気持ちを秘めることを選んだ。彼女らしい。
でもそれは、彼女の育った環境に依るところが大きいように見受けられた。彼女の本心が押し隠されてしまう、そんな不安を覚えたのだ。
「…それを知ったら、仁雷は悲しむよ。」
「……仁雷さまには伝えません。これは、きっと、抱いてはいけない想いだったのです…。
だから義嵐さまも…仁雷さまには黙っていてくださいますか…?」
おれを真っ直ぐ見つめる早苗さん。
お願いのようでいて、おれの反論を許さない、そんな強い真意がありありと見て取れる。
不安なくせに、恐ろしいくせに、どうしてそんなに気丈に振る舞おうとするんだ。
君といい…。
「分かったよ。早苗さんがそう言うなら。
…でも、辛いだろうけどせめて、いつものように仁雷と接してやって。君にとってもあいつにとっても、別れの時に悔いが残らないようにさ。」
それはおれの、ただの我が儘だった。
出来ることなら、二人の悲しむ顔を見たくない。おれ一人の利己に過ぎない。
早苗さんは理解してくれた。
おれの腕の中で、彼女は小さく肩を震わせる。
「………はいっ…。はい…。
…そうですね。…本当に、その通り……。」
その小さく弱い肩を抱き寄せて、おれは彼女が泣きつかれて眠りに落ちるまで、ただ黙って朝を待った。
胸に、一つの決意を秘めて。