◇◇◇

……不覚だ。一生の不覚だ。
なぜ俺はこうも、二度までも。

夜はすっかり明けた頃かと思うのに、この洞穴の中へは外界の光が届かないため、時間の感覚が狂いそうになる。

この場所は知ってる。早苗さんを連れ去った青衣の塒。それも、崩落した社殿の瓦礫の上だ。
俺の縛られた両腕には、見覚えのない紋様が刻まれている。どうやら(まじな)いの類らしく、芒色の山犬の姿に変化(へんげ)出来ないばかりか、引き千切ろうにも力がまるで入らない。
万事休すとはまさにこのこと。俺の正面には、あの憎き青衣が、不敵な笑みを浮かべて座り込み、煙管を蒸していた。

「…野犬の小僧。あの時はよくもこの儂に牙を剥いてくれたのう…。」

青衣の首と腕に残るは、山犬の深い噛み痕。義嵐と俺の牙による傷だ。大方、怪我を負わされた報復をするつもりか…。

俺だけがここに連れて来られた経緯は、少し前に遡る…ーーー。

ーーー

…早苗さんと共に洞に潜み、しばし休養をとっていた頃。そんな俺の耳に、何者かがこの洞へ近寄る足音が聞こえた。

「……?」

覚醒し、目だけを外へ向ける。
そこに立っていたのは、一匹の白い猿。
緋衣の所の…?いいや、連中は皆身なりを気遣っていた。目の前にいるのは、どこかやつれた野生の猿だ。もしくは、

「……青衣の手下か?」

俺の低い唸り声に対して、猿は毛を逆立てる。よく目を凝らせば、その後ろから一匹、また一匹と別の白猿が現れる。
あっという間に数を増し、三十匹を超える猿が洞の前に集結した。

皆一様に毛を逆立て、歯を剥き出す。
多勢に無勢だ。今一斉に襲い掛かられたら、俺ひとりでは早苗さんを庇いきれるか分からない。こんな時、あのお調子者の義嵐の不在を恨めしく思う。

「………ん、んん…。」

俺にもたれ掛かる早苗さんが、少し身じろぐ。だが、よっぽど疲れていたんだろう。深い眠りに落ちたまま、覚醒することはなかった。
俺は早苗さんの穏やかな寝顔を見つめ、その薄紅色の頬を指先でなぞり…、

「………一歩でも中へ入ってみろ。この俺が頭を噛み砕いてやる。」

猿の群れを睨み、威嚇する。
迫力で言えば、本来の山犬の姿には劣るかもしれない。しかし猿達を怯ませるには充分な効果があった。

怖気づき、石のように動けなくなってしまった猿達。しかしその場から逃げ出すでもなく、途方に暮れている様子だ。
奴らにも後に引けない理由があったのだ。それは例えば、早苗さんと俺を捕らえるよう、奴らの大将から命令されたとか。

「……全く、揃いも揃って貴様らは腑抜け揃いじゃ。“野犬一匹と小娘に躊躇して良い”と、儂がそう命じたか?」

猿達の背後から現れたのは、青い髪に青い着物。巨大な人間の姿をした、あの不遜な青衣だった。

「猿共の知らせ通り。もう一匹とは(はぐ)れたようじゃな。」

「……お前と同じ、得体の知れない女のせいでな。」

俺の言う“女”のことを、青衣もまた知っていたらしい。眉が引き攣るのを見逃さなかった。

「“緋衣”か。…あのたらし者め。まだ儂の縄張りに住み着いておるとは。奴に何を吹き込まれたか知らぬが、池泉の主はこの儂、青衣じゃ。
…野犬の小僧、用があるのは貴様一人じゃ。娘をそこに捨て置け。貴様を儂の塒へ連れて行く。」

「………誰が行くか。
何のつもりで俺を捜していたかは知らないが、俺は早苗さんを連れて狗祭りへ向かう。そして…狗神の判断を仰ぐ。」

狗神。その名は青衣の怒りを簡単に刺激した。
体を猛らせ、人の姿の何倍も質量のある、青い狒々の姿へと変貌する青衣。そんな主人の怒りを察知し、周囲の猿達は蜘蛛の子を散らすように惑いだす。

しかし、外皮から漏れ出る殺気とは裏腹に、青衣の声色は恐ろしいくらい落ち着き払っていた。

【…残念であったな、野犬めが。狗神は儂の試練を全て承知しておる。
大方、儂を次代狒々王と認めたのじゃろう。使いである貴様を直接この手にかけることは出来ぬが、…遠回しに甚振(いたぶ)(すべ)ならば、儂はいくらでも知っておる。】

青衣が勿体付けた動きで、俺達の潜む洞の入り口に両手を当てがう。

「……っ!!」

【よくも儂の社殿を壊してくれたのう。貴様らも同じ目に遭わせてくれるわ…。】

奴の剛腕にかかれば、こんな洞など簡単に破壊出来る。
どうする?早苗さんを外に連れ出せば、猿達の恰好の的だ。

「……クソッ…!」

躊躇してる暇はない。
俺は早苗さんを抱き締め、洞の外へと飛び出すため、片膝を立てる。