仁雷さまの背に乗り、猿達の棲む山一帯を横切り、わたし達は遥か街道のほうまで逃げおおせました。休む間もなくひたすらに駆けていたのです。
いくら仁雷さまの足が速くとも、多勢に無勢。わたし達の姿が、どこから見られているかは分からないから。

月は空の彼方に霞み、新しい太陽が、東の空を暁け色に染め始めていました。
仁雷さまはすっかり息が上がり、時折足ももつれてしまいます。

「……仁雷さま、どうか休んでくださいませ…。
このままではお体が保ちません…。」

背中から小さく声をかけると、速度が次第に落ちていきました。
やがて、一本の大きな倒木の陰。熊の巣ほどの大きさの(うろ)を見つけ、そこへ駆け寄る仁雷さま。

【早苗さん、中へ。】

促されるままに、まずわたしが洞の奥に入り込み、入り口に蓋をするように、山犬姿の仁雷さまが座り込みました。
腰を下ろした仁雷さまは、小さくですが深く息を吐きました。
相当お疲れのよう。一晩中走り通しだったのだから、当然よね…。

「ありがとうございます。
どうかゆっくりお体を休めてください。」

【…すまない。少しだけ…。】

琥珀色の大きな瞳が、わたしの姿を映します。
こんな状況で失礼かもしれないけれど、わたしは普段よく見ることのない仁雷さまの“山犬の姿”を、じっと見つめてしまいます。

黄金(こがね)の中に白の混じる、柔らかな芒に似た毛並み。大きく力強い体。初めて見た時はとても恐ろしかったけど、今ではその美しい姿から目が離せません。
狗神さまのお使いさま。狗神さまももしかすると、仁雷さまのような、優しくて強い山犬の姿をしているのかしら。


けれど、いつまでも見惚れている暇はありません。

「……仁雷さま、これから、どうしたらいいのでしょう…。」

義嵐さまと別れてしまい、次の試練の場である狒々の池泉にも近寄れない。近隣の山に潜む猿達にいつ見つかるかも分からない…。
途方に暮れてしまいます。

仁雷さまは少しの思案の間を置いたあと、

【やむを得ない。池泉を迂回し、次の巡礼地へ向かおう。】

「次の…。確か、“大狗祭り”とおっしゃっていた…?」

【そう。そこなら山犬の仲間達がいる。応援を寄越してもらえるよう、掛け合ってみる。】

わたしはその言葉に頷きます。
ただ、やはり気掛かりなのは義嵐さまのこと。

不安が顔に出てしまっていたのか、仁雷さまは声色を優しくして、言ってくださいました。

【大丈夫だ、早苗さん。貴女が思うよりずっと、義嵐の奴は図太いから。信じて。】

“信じて”。この方の口にする言葉は、なんて心強いのでしょう。
…一人クヨクヨしていては駄目ね。わたしもしっかりしなければ。

「…そういえば仁雷さま。
義嵐さまはあの時、わたしに対して不思議なことをおっしゃっていました。
あれはどういう意味なのかご存知でしょうか…?」

『きみを好いている。』
でもその言葉は、“わたし”に対してのものではない気がしていて…。

【……………。
義嵐は自由な奴だから、俺にも何を考えてるのか分からない時があるよ。
酒も入っていたし…早苗さんを見て、無性に寂しい気持ちに襲われたのかもしれないな。】

「…そう、なのですか…。」

そう語る仁雷さまもまた、どこか寂しげな目をしているように見えました。
それについて訊ねるのは何だか良くない気がして、わたしは口を(つぐ)みます。

ふと、わたしがしがみついていた部分の毛並みが乱れていることに気付きました。乱れを直したくて、わたしはその毛並みに触れます。
一瞬大きな体がビクリと震えましたが、仁雷さまは身を引くことはしませんでした。

「……ごめんなさい、わたしずっと強く掴んでしまって…。痛くありませんでしたか…?」

【……イヤ、このくらい。】

滑らかで、心地よい手触り。
しばらく手の平で撫でつけていると、次第に毛並みが整っていきました。
落ち着いていく毛並みとは対照的に、わたしはだんだんと顔が熱を持っていくのを覚えました。男の方にこんなに気安く触るなんて、これまで考えられなかったこと。でも、仁雷さまにはむしろ、ずっと触っていたいと思ってしまう。


【……早苗さん、貴女の話を訊いてもいいかな…?】

「…えっ。あっ…はい!」

仁雷さまの大きな琥珀色の瞳が、わたしをじいっと見つめます。人の姿の時と同じ、深みのある吸い込まれそうな瞳。
なぜでしょう。わたしは心臓がどきどきと早鐘を打つのを感じました。

【早苗さんほど優しくて気立てが良かったら、さぞ皆に可愛がられたろうな。
…それに、貴女を好く男や、…逆に貴女が慕う男がいても、何ら不思議じゃない。そんなひとは…いたのかな。】

そう問いかける仁雷さまは、どこか躊躇いがちでした。聞きたくない、けれど聞いてみたい。そんな葛藤。

「そ、そんな…わたしのことを好いてくれる殿方なんて、いませんでしたわ…。ただの女中のひとりですもの。」

わたしの答えを聞いて、仁雷さまの顔に安堵の色が浮かんだように見えました。

「…それにわたし、屋敷では腫れ物に触るように扱われていました。妾の子で、ゆくゆくは狗神さまの生贄に差し出すのが決められていたから、皆関わりたくなかったんですわ。」

けれどそれを聞いて、また仁雷さまが辛そうな顔をされます。
お犬の姿なのに、くるくる表情が変わるのはとても不思議な光景です。

【…犬居の娘だからと言って、風習だからといって…こんな理不尽を強いて申し訳ない。】

「…な、なぜ仁雷さまが謝るんです?
わたしは物心ついた頃から、狗神さまが心の拠り所ですから。おそばにお仕えして…この命を捧げます。その覚悟を持って、巡礼に臨んでいるつもりです。」

こんなに大きな山犬なのに、こんなに繊細な感情を露わにする仁雷さま。それはきっと、この方がとても心優しい証拠。

「…これは、わたしの望んだことでもあるのです。」

わたしの言葉は本心です。
けれど、なぜかしら。その言葉を口にするわたしは「仁雷さまに安心してほしい」という願いもまた強く抱いていたのです。
この方の曇ってしまったお顔を、なんとかして差し上げたいと思うのです。

【貴女は本当に強い人だ…。】

ぽつりと呟いた仁雷さま。
やがてそのお姿が、大きな山犬から、見慣れた人のそれへと変わりました。
短い芒色の髪。お犬の時と同じ、深い琥珀色の瞳。その中に自分の姿を見つけ、またわたしの心臓がどきりと跳ねます。

「……山犬の姿では恐ろしかろうから。」

そう小さく口にする仁雷さまの顔には、朱が差しているようでした。
たくさん走ってお疲れになったせい?それとも…別の理由?

「山犬のお姿でも、わたしは平気です。
でも、人のお姿の仁雷さまも安心します。」

そう微笑みかけると、仁雷さまもホッとしたお顔をしてくださいました。
…ああ、なんて、心が安らぐことでしょう。


「…早苗さん、少しだけ。
少しでいいんだ。肩を貸してくれないか…?一寸(ちょっと)だけ目を瞑ったら、すぐに退()くから。」

そう言いながら、仁雷さまはわたしのそばへ寄り添います。
とてもお疲れでしょうからね。少しでも安らかにお休みになれるなら、わたしは喜んで…。頭の中で、そんな言い訳じみたことを並べ立てますが、本心ではわたし、確かに思ってしまったわ。
嬉しい、と。

「…はい……どうぞ。」

「…ア、あ、…ありがとう……。」

仁雷さまの頭が恐る恐る横に倒れて、柔らかな髪がわたしの肩や頬に触れます。
その温かな感覚に、わたしの胸はどきどき高鳴って仕方ない。
ふーっという息遣いがすぐ近くで聞こえる。わたしは恥ずかしさのあまり、仁雷さまのお顔が見られませんでした。

「…早苗さんは、優しい匂いがする…。」

「に、においですか…?」

匂いというとあまり良い気分はしません。日中たくさん歩いて、たくさん汗をかいているはずだもの。
それでも、仁雷さまはこの上なく安心した様子で、わたしの肩に遠慮がちに頭を擦り付けます。まるでお犬が甘えるように。

その様子がなんだか無性に愛らしく思え、わたしは恐る恐る手を伸ばして、仁雷さまの芒色の髪に触れます。

身を固くする仁雷さま。
その緊張を解きほぐすように、わたしは努めて優しく優しく、その芒色の髪を撫でました。

「………。」

張り詰めていた緊張が、だんだんとほぐれていく。
仁雷さまの頭の形をなぞり、わたしは一人、至福を噛み締めていました。


「…………仁雷さま?」

しばらく頭を撫でていると、ふいに仁雷さまの体から緊張が失せ、重みが増しているのに気付きました。
仁雷さまのお顔を覗き見ると、

「あ………。」

仁雷さまは穏やかな顔で、目を閉じてしまっていました。
ゆっくり上下する胸と、深い寝息。どうやら眠ってしまったみたい。相当お疲れだったものね…。

初めて見る殿方の寝顔。わたしを護ってくださる時はとても頼もしく見えるのに、眠りについた今のお姿はとても無防備で、とても安心する…。

わたしも、とても疲れてしまった…。失礼なことと分かっていながら、仁雷さまの柔らかな髪を少しの間お借りして、わたしも目を瞑ります。

少しの間だけ。せめて、太陽がすっかり昇るまで…。死に向かう旅の中での、束の間の安らぎを味わいたかったのです…。