数日後、静馬の言う通り、相良家から招待状が届いた。相良家と仁王路家の今後の関係について話し合いたいとのことだった。
 玄関先、不安げな面持ちで見送る櫻子に対し、静馬は優しく笑いかけた。

「そう心配することはないよ。金銭援助の代わりに、これきり櫻子や僕には関わらないことを約束させる。それだけ話してすぐに帰ってくるから」
「やはり私も……」

 言いかけた櫻子の唇を、静馬の人差し指が柔らかくおさえた。身をかがめ、言い聞かせるように櫻子と視線を合わせる。

「正直に言うとね、僕は自分の大事な人を下衆の前に晒すのは好まない。本当は閉じ込めておければ良いと思っているんだよ」

 静馬は櫻子の額に口づける。愛おしげな仕草とは裏腹に、唇は冷たかった。櫻子が驚いて動けないでいると、静馬は茶化すように肩をすくめてみせた。

「——冗談だ、怖がらないでくれ」

 その響きの方がよほど切実に聞こえて、櫻子は呆然と立ち尽くす。思わず手を伸ばそうとしたところで、静馬は背を向けた。

「それでは、行ってくる」

 櫻子の指先で、玄関の扉が閉ざされる。

 ——思いもよらぬ訪問者があったのは、しばらく後のことだった。

■ ■ ■

 相良家の客間では、櫻子の父である庄太郎が待っていた。よく手入れされた庭が臨める和室で、開け放たれた障子窓から風が流れ込んでくる。

「本日はお忙しいところを……」
「前置きはいい。早く用件を話してもらおう」

 静馬は庄太郎の挨拶を遮った。櫻子の受けた仕打ちを知ったときから、彼はこの家族に一片の敬意を払うつもりもなかった。
 傲慢とも言える静馬の態度に庄太郎の顔が一瞬歪む。しかし瞬時に笑顔を取り繕うとすぐに話を切り出した。

「実は、仁王路さまに、櫻子をお返しいただきたく」
「——は?」
「我が家の財政状況が悪化しているのは仁王路さまもご存知かと思います。そんな折に、継続的な資金援助を申し出てくださる御仁がおりましてな。しかしその代わりに、妾として娘を一人差し出せと言うのですよ。跡取りの深雪をそんな目に遭わせるわけにはいきませんが、櫻子ならちょうどいい」
「断る。櫻子はすでに仁王路家の人間で、あなた方の手の及ばぬ存在だ」

 静馬は眉間に険しいシワを寄せ、短く答えた。だが、庄太郎の顔には脂ぎった笑みが浮かぶ。

「それなら、仁王路さまが援助してくださるので? 正直言って、あなたにはガッカリしているのですよ。結納金こそ多かったが、それきり。もっとご支援いただけないと櫻子を嫁がせた意味がない」
「手切金、と言う意味であれば支払ってもいい。それであなた方が付きまとわなくなるなら安い買い物だ」

 吐き捨てるように告げる。庄太郎が、困った子どもを相手にするように猫撫で声を出した。

「まあまあ、お怒りを鎮めてください。何も大金をせしめようというつもりはないんですよ。ただ、月々いくらかお支払いいただければ……」
「娘が大事だというなら事業を畳み、田舎に隠棲すればよろしい。皆で働きに出れば、家族三人暮らしていくくらい訳ないだろう。こちらは手切金を一括で支払う。それで相良家と仁王路家の付き合いは切れる。それ以外の条件を呑むつもりはない」

 静馬の冷ややかな態度に、庄太郎はスッと真顔になった。

「交渉決裂ですか。ならば、櫻子から言わせるしかありませんね」
「——どういう意味だ?」
「今夜、屋敷に帰ってごらんなさい。きっと櫻子はあなたとの離婚を申し出ますよ」

 その瞬間、地の底から突き上げるような揺れが相良邸を襲った。部屋の中にはごう、と激しい風が巻き起こる。障子が軋みながら音を立てて倒れた。辺り一面にバチバチ火花が散り、柱に焦げ跡を作る。悲鳴をあげて腰を抜かす庄太郎を人影が覆った。ゆらりと立ち上がった静馬が庄太郎を見下ろしていた。その表情を見て、庄太郎はガタガタ震え出す。静馬は風に髪をなぶらせ、異相の美しさを極めたかんばせの中、瞳だけを炯々と見開いて、恐ろしく冷ややかに命じた。

「今話せ。僕は最高に機嫌が悪いんだ」

■ ■ ■

 仁王路本邸、仁王路一臣の執務室のソファに、櫻子は座っていた。向かいには一臣が腰掛けている。静馬を見送った後、一臣から使者がやって来て、櫻子はここに連れてこられたのだった。
 目の前の一臣は黙っているだけで周囲に圧を与える男だった。櫻子は出されたお茶を飲み、話を切り出した。

「……その、本日はどのようなご用件でしょうか」

 一臣がじっと櫻子を見据え、口を開く。

「単刀直入に言う。静馬と離婚してくれないか」

 それを聞いた瞬間、櫻子の胸の中には、どうして、とやはり、という言葉が同時に生まれた。いつか、誰かに言われるような気がしていた。こんな夢のような日々がいつまでも続くわけがないと。
 それでも、櫻子は震える手を拳にかえて、下がりそうになる視線を必死に一臣に向けた。

「……それはどういう意味でしょうか」

 一臣は、小娘の睨みなど痛くも痒くもないという風情で淡々と続ける。

「静馬は仁王路伯爵家の次男だ。華族として、男爵家の娘と結婚している場合ではないのだよ。君よりも多くの利益を与えられる人間はたくさんいる」
「しかし、静馬さまは」
「君と静馬の結婚は、静馬の体質が関係あるのだろう。こちらも把握している。君はおおかた、無効の異能を持っているのだろう? だがそれは妾という立場でも果たせるのではないかね? 静馬は律儀な男だから一度結婚した以上は別れを切り出せないだろう。静馬を本当に思うなら、君から申し出るのが一番ではないかね」

 櫻子は唇を噛みしめた。そんなことは分かっている。櫻子は静馬にたくさんのものをもらったのに、彼女が返せるものはわずかだ。でも、静馬は櫻子のことを家族と言ってくれた。彼の愛情が呼び水になって、櫻子の中には欲が生まれてしまった。静馬の一番そばにいるのは、自分がいい、と。
 櫻子は一臣に顔を向け、はっきり言い切った。

「お断りします。私は静馬さまから言われなければ、頷くことはできません」
「……そうか、残念だよ。君もあの家族と同類の、自分勝手な女というわけだ」

 一臣が冷淡に呟く。蔑みの眼差しを櫻子に向けた。

「それにしても、君の家族はなんだね? 今日は、卑しくも静馬に金の無心をするため呼びつけているそうじゃないか」

 櫻子は眉を寄せる。

「……なぜそれを?」
「君は知らなくても良いことだよ」

 とつぜん櫻子の視界がぼやけ始めた。急激に襲ってきた眠気に耐えられず、櫻子はソファにくずおれる。全てが滲んでいく世界の中、立ち上がった一臣が近づいてくるのが辛うじて分かった。

「安心したまえ。ただの眠り薬だ。君は、夫との身分の差に引け目を感じ、離婚届に署名して失踪したことになる。美談だよ。次に目覚めたときには、至間國から日本へ向かう船の中だ。傍目には異能者に見えないのだから、日本で上手くやるといい」

 意識を失う寸前、階下で何かが爆発するような音を聞いたような気がした。

■ ■ ■

「……て、起きて!」

 必死な女性の声がして、櫻子は目を覚ました。何度か瞬いて、自分の状況を把握する。どこかの床に転がされており、特に拘束はされていない。体の節々が痛むが、命に別状はなさそうだ。そして、見知らぬ女性がそばに膝をついていた。

 起き上がり、四囲を見回す。そこはそっけない内装の小部屋だった。窓はないが、船の中ではなさそうだ。恐らく、部屋と部屋の間に作られた隠し部屋だろう。
 こちらを窺う様子の女性に問いかける。仕立ての良い着物を着た、美しい女性だった。

「あなたは?」
「わたくしは仁王路春菜……仁王路一臣の妻ですわ」

 櫻子はぱちりと目を瞬かせる。

「どうしてこんなところに? 失礼ですが、庭師と駆け落ちしたと伺いました」
「外ではそんなふうに……」

 春菜は瞳を揺らし、両手で顔を覆った。その拍子にあらわになった白い首筋に、どす黒い痣が広がっているのが見えた。

「わたくし、仁王路一臣に幽閉されているのです。あの男は悪魔です。初めは優しかったのに、わたくしが誰かと話していると、誰とも口を利くな、目を合わせるな、と暴力を振るい……耐えきれず、わたくしを憐んでくれた庭師と逃げようとしたところを捕まり、このような目に」
「そんな……」

 櫻子は呆然と呟く。頭の中で、全てがつながった気がした。

■ ■ ■

 執務室を訪れた静馬の周りには異能による火花が散り、彼の通ってきた道を示すように、邸内の物が全て薙ぎ倒されていた。殺気立った静馬に視線をやり、一臣は唇を歪めた。

「ずいぶん乱暴な訪問だな」
「兄上、全て話は聞きました。あなたが相良家も巻き込んで、僕と櫻子を離婚させ、僕を伯爵令嬢と娶せようとしていること。櫻子はどこです?」
「口を割ったか。まったく、とことん使えん家だな」
「——櫻子は、どこです?」

 静馬の問いに、一臣は答えない。窓辺に立ち、外を眺めている。
 静馬は苛立ちながら質問を続けた。

「なぜこのようなことを? 以前、仁王路家のことは気にするなと言っていたのは嘘ということですか」
「なあ、静馬」

 一臣が静かな声で尋ねた。外を眺めたまま、日差しに目を細める。

「お前も私の弟だ。こう思ったことはないか? 特別愛でた花には、自分のためだけに咲いてほしい。誰の目にも触れさせず、誰の色にも染まらず、自分の庭で枯れてほしい、と」
「何の話です?」
「あの櫻子という娘に、ずいぶん執着しているようだな。上手くやったものだ。生家で虐げられていた娘に愛情を与えれば、一途にひたむきに懐くだろう。だが、この先はどうなるか。外の世界を知った娘は、それでもお前を選び続けてくれると思うか? いや、無理だ。あの女のように」
「何を……」

 眉根を寄せた静馬は、兄の静かな横顔を見やり総毛立った。

「——まさか」

 目を見開く。失踪した兄嫁の顔が脳裡に浮かんだ。

「箱庭の維持には手間と金がかかる。お前には是非、どこぞの伯爵令嬢と番ってもらわなくてはならない。仁王路家のますますの発展のためにな」
「そのためだけに?」

 静馬は声を低めて問いかけた。眼前の狂気の男が、それだけのためにこんなことをするとは思えなかった。静馬から櫻子を奪ったのは、おそらく。
 一臣が唇を吊り上げる。血走った眼を静馬に向け、両手を広げてみせた。

「もちろん、それだけじゃないさ。——私は、お前の苦しむ顔が見たい。私はずっと、お前のことが大嫌いだった。異能も制御できない出来損ないのくせに、臆面もなく仁王路家の人間として過ごすのが許せない。この面汚しが!」

 部屋の空気を震わせる怒声を、静馬はまっすぐに受け止めた。自分でも驚くほど、心は凪いでいた。

「ええ、そうですか。そんなこと、僕はずっと、知っていましたよ」

 幼い頃から受けた様々な嫌がらせ。その背後に一臣がいることくらい、とっくに知っていた。どれだけ厳重に保管しても紛失する、耳飾りの盗難犯の正体も。だが、静馬は気づかないふりをしていた。彼のそばには兄以外誰もいなかったから。
 そして何よりも。

「僕も僕のことが嫌いでした」

 静馬を恐れ遠巻きにする人々、周囲を傷つけてしまうのではないかという恐怖。そんな自分に価値はないと思った。異能も容貌の美しさも肩書きも、誰かを脅かすなら意味はない。一生を孤独に生きるならそれでもいいと決めていた。

 だが、無能の娘の噂を聞いたとき、初めて欲が生まれた。彼女が「無を能う」異能を持っているなら、自分と連れ添ってくれるかもしれない。彼女が男爵家の娘なら権力にものを言わせて娶ってしまえばいい。契約で縛ればどこにも行けやしないだろう、と。
 自分の浅ましさに嘲笑が漏れる。家族に疎まれ虐げられる娘を、彼もまた慰めに利用したのだ。

 ——それでも、櫻子はそばにいると言ってくれた。

「僕は、受け入れてくれる人が一人でもいるなら、それでいい。人生は、その人に出会うための旅です」

 静馬は櫻子を手離せない。もう二度と彼女のような人には出会えないと分かっているから。一番近くに引き寄せて、掴んで、嫌がっても抑えつけてしまうかもしれない。彼女が外の世界を知ったとき、どうするか分からないのは静馬も同じだ。

「だから、分かりますよ。その人を見つけてしまったときの衝動は。——あなたなら、きっと自分の最も近くに箱庭を作るでしょう」

 静馬が部屋の片隅に目を向ける。執務室の大きな書物机、そこに座ったときに、真正面に位置する場所に、わずかにずれた壁紙があった。一臣の表情が凍りつく。
 静馬が異能を発動させる。音も立てず、隠し扉が開いた。

■ ■ ■

 隠し部屋の中は窓のない小部屋だった。箱庭からはほど遠い、居心地の悪そうな牢屋だ。

 そこに、手を組み合わせて座り込む二人の少女を見つけて、静馬は眉を上げた。

「櫻子! それに春菜さまも」
「静馬さま!」

 櫻子がぱっと顔を明るくする。春菜も安堵したように息を吐いた。静馬の記憶にあるよりもずいぶんと痩せていた。

「どうやってここに……そうだ、一臣さまが」
「分かっている。兄上は……」

 静馬が言いかけたとき、小部屋の外から哄笑が響き渡った。春菜が青ざめ、身をすくませる。入り口にゆらりと人影が現れた。一臣だった。片手に長剣を提げ、幽鬼のような足取りでこちらへ寄ってくる。春菜が櫻子の腕にしがみつく。櫻子はとっさに春菜を背後に庇った。
 長剣のきっさきが櫻子に向けられた。

「春菜に触るな!」
「もうやめましょう、兄上」

 でたらめに振り回された長剣を難なく避け、静馬が一臣を床にねじ伏せようとする。だが一臣は春菜から目を逸らさないまま、異能を用いた恐るべき膂力で静馬を跳ね除けた。そのまま起き上がり、櫻子と春菜の方へ突進する。

「春菜! 来い!」
「——失礼しますね」

 櫻子が一歩前に出る。その右手が振りかぶられたかと思うと、一臣の頬を思い切り打った。一臣は勢いよく吹き飛び、壁に後頭部をぶつけて気絶した。

「……えっ?」

 春菜があっけに取られている。静馬は無言で一臣と櫻子を見比べていた。
 櫻子は一臣を見下ろし、決然と告げた。

「私の前で、よくも静馬さまを傷つけてくださいましたね。無能になっただけでこの有様とは、異能に頼りすぎでは?」